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猫が隠した星  作者: Junbi


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16/32

第十二幕 怒ったまま移動するための道具

 男は、バイクをいじっていた。

 それは、もうだいぶ古いバイクだった。タンクには小さなへこみがあり、右のミラーだけが新しく、左のウインカーはテープで雑に留めてあった。きちんと手を入れて乗り続けているのか、壊れるたびにその場しのぎで間に合わせているだけなのか、見ただけではよく分からなかった。

 たぶん、両方だった。

 男はしゃがみこみ、工具を片手に、前輪のあたりを覗き込んでいた。口には何もくわえていないのに、ずっと何かを噛み潰しているような顔をしていた。工具箱の中は思ったより整っていて、使った工具は一度、地面に置いてから、また同じ場所へ戻していた。

 その少し後ろに、扉が出ていた。

 立派な扉ではなかった。白い引き戸で、古い車庫の壁にでもついていそうな戸だった。道端の空き地に一枚だけ立っていて、そこだけ妙に風の通りがよかった。

 男は、それを一度も見なかった。

「通過準備は完了しています」

 カヂルグミが言った。

 男は工具を回したまま、答えなかった。

「扉は、あちらです」

「見りゃ分かるわ」

「見ていないようでしたので」

「見とるわ」

 男は見ていなかった。

 カヂルグミは、男の手元をしばらく観察した。バイク、工具、油、曲がったナンバープレート、切れかけた結束バンド。人間が何かを通過しない時、その理由は本人よりも周辺物に出ることがある。カヂルグミはそういうことを、地上業務の中で少しずつ学んでいた。

 学んではいたが、いつも間違えた。

「向こうでも、バイクを違法に改造できますよ」

 男の手が止まった。

「うるせえ」

「違法性の再現は、希望に応じて調整できます。近隣苦情も発生しません。発生させることもできます」

「いらんわ」

「速度超過の体験も、事故を伴わずに可能です」

「黙れ」

 男は工具を地面に投げず、ちゃんと工具箱に戻した。そこだけ妙に丁寧だった。それからヘルメットを拾い、バイクにまたがった。

 エンジンがかかった。

 古い音だった。きれいではない。うるさいし、少し遅れて唸る。壊れかけているのか、もともとそういう音なのか、知らない者には分からない音だった。けれど、男の顔にはよく合っていた。

「通過は保留ですか」

「知るか」

 そう言って、男は走り去った。

 カヂルグミは空き地に残り、白い引き戸と、地面に落ちていた小さなナットを見比べた。ナットは扉に引っかかっていなかったので、拾って工具箱の上に置いた。

 バイクは不機嫌な唸りをあげて、道を走っていた。

 男はヘルメットの中で、まだ何かを噛み潰すような顔をしていた。

 ヘルメットの内側は少し臭く、グローブの縫い目が右手の親指に当たり、アクセルを開けるたびに古いエンジンが少し遅れて唸った。道は空いていたが、気分がよくなるほどではなかった。信号は残っているし、段差はあるし、風は思ったより冷たい。

 赤信号で止まると、男は片足をつき、前のめりになって待った。アイドリングの振動だけが腹の下に残っている。何年も前の顔や、言われた言葉や、笑い方や、金のことや、寒かった部屋のことが、止まっている間だけ少し近くなった。

 青になると、男はすぐにアクセルを開けた。

 別に、どこかへ行きたいわけではなかった。戻りたい場所があるわけでもなかった。どこへ行ってもよかったが、どこに行けばいいのか分からなかった。

 男は、何かを選んだ記憶があまりない。

 家には、いつも少しずつ何かが足りなかった。米、灯油、小銭、替えの靴下、明日まで乾いている靴。どれも、人に言えば小さいことにされるものだった。けれど、小さいものが毎日足りないと、だんだん腹の置き場がなくなっていく。

 学校には行っていた。机に座り、黒板を写し、帰りに買ってこいと言われたものを思い出した。進路の話は、誰かが大きな声で決めたわけではなかった。ただ、遠くへ行く金はなく、近くへ行く成績もなく、働けば家の空気が少しだけましになった。

 男は、働くことになった。

 誰かに命令されたわけではなかった。そこが、腹立たしかった。

 命令されたなら、命令したやつを恨めた。けれど、そういう名前はなかった。足りないものが足りないまま積もって、残った方へ歩いたら仕事場だった。

 朝、呼ばれたところへ行く。壊れたものを運ぶ。汚れたものを拭く。謝らなくていい時に頭を下げる。誰かが怒鳴り、誰かが笑い、誰かが「お前はこっちじゃろ」と言う。男も笑う。笑ったことに腹が立つ。気づいた時には、怒るのだけがうまくなっていた。

 町には、もう人が少なかった。

 少ないというより、いない場所の方が多かった。コンビニの自動ドアはまだ開いたし、駅前の電光掲示板は遅れている列車を律儀に表示していたし、ショッピングモールの立体駐車場には、誰も取りに来ない車が何台か残っていた。世界が終わったというより、世界の用事だけが先に終わって、人間の方が置いていかれたようだった。

 男は、モールの搬入口からバイクで入った。

 誰にも止められなかった。

 食品売り場の前を抜け、閉じた携帯ショップの横を通り、フードコートの床にタイヤの跡をつけた。椅子はきれいに机の下へ収まっていた。誰かが最後に片づけたのか、もともとそういう状態だったのかは分からない。

 男は寝具売り場まで走り、展示用のベッドの横にバイクを停めた。

 値札には、ふざけた金額が書いてあった。男はしばらくそれを見てから、ベッドの上に寝袋を広げた。買うつもりもないものの上で寝ることに、ざまあみろという気持ちが少しだけあった。けれど、寝心地は悪くなかった。悪くなかったことに、少し腹が立った。

 朝になると、カヂルグミがいた。

 寝具売り場の通路に折りたたみ椅子を置き、コーヒーを淹れていた。横には携帯灰皿が置かれていたが、タバコは吸っていなかった。湯気だけが、誰もいない売り場で妙に生活のような顔をしていた。

「なんでおるんや」

「後から来ました」

「それは見りゃ分かる。なんで来れたんや」

「担当対象の位置は、おおよそ分かります」

「おおよそで来んな」

 カヂルグミは紙コップを差し出した。

「コーヒーです」

「見りゃ分かる」

「嫌いですか」

「嫌いじゃない」

「では、どうぞ」

 男はしばらく紙コップを見ていたが、受け取った。礼は言わなかった。カヂルグミも、それを要求しなかった。

 コーヒーは、悪くなかった。

 ベッドの上には、薄い冊子が置かれていた。わざとらしく開かれていて、男の目線に入る位置にある。ページの中央には黄色いマーカーで線が引いてあった。

 怒りは六秒待ちましょう。

 男はそれを見て、コーヒーを飲んだ。

「七秒前からブチギレとるわ」

 カヂルグミは何か言いかけたが、やめた。

 男は冊子を閉じ、枕元の値札の上に置いた。値札の金額と冊子の標語が並ぶと、どちらも同じくらい信用できなかった。

 その次の日、男は高級ホテルのロビーで寝た。

 入口の自動ドアは開かなかったので、非常口の方から入った。バイクはロビーの奥まで押していった。革張りのソファは柔らかすぎたので、男は結局、床に寝袋を敷いた。天井の高い場所で寝るのは落ち着かなかった。寝返りを打つたびに、自分が場違いなものとしてロビーの床に転がっている感じがした。

 転がりながら、暖房の効かない部屋を思い出した。窓の下に敷いた布団。朝になると内側まで冷たくなっている靴下。台所に置かれた小銭の皿。誰かが飲み残したペットボトル。そういうものは、どれも大した不幸ではなかった。大した不幸ではない顔をして、男の中にずっと残っていた。

 朝になると、カヂルグミがフロントカウンターの中でコーヒーを淹れていた。隅には、ホテルの喫煙室から持ってきたらしい灰皿が置かれていた。

 横には、ストレスボールがあった。

「握るものです」

「ぶん投げてええんか」

「握るものです」

「いらん」

 男は紙コップだけ受け取った。

 次の日は、健康ランドの休憩室だった。

 誰も座っていないリクライニングチェアが、同じ角度で並んでいた。大きなテレビだけが点いていて、誰も見ていないのに、通販番組がずっと包丁を売っていた。切れ味のいい包丁が、肉も魚も野菜もまとめてきれいに切られていく。男はその音を聞きながら眠り、朝になると、やはりカヂルグミがいた。

 小さな丸いクッションが置かれていた。

「殴打用です」

「誰を」

「対象代理物です」

「いらん」

 男は紙コップだけ受け取った。

 何日か、そんなことを繰り返した。

 男は走った。泊まった。起きるとカヂルグミがいた。カヂルグミはタバコを吸っている時もあれば、吸っていない時もあった。コーヒーだけは、だいたい淹れていた。

 怒りを鎮める冊子。握るボール。殴るクッション。呼吸の手順を書いた紙。気分を記録するための小さな表。そういうものが一つずつ出てきて、一つずつ役に立たなかった。

 男は毎回、腹を立てた。

 けれど、コーヒーは飲んだ。

 男は、どこで寝てもあまり眠れなかった。

 寝具売り場のベッドは柔らかすぎた。ホテルの床は広すぎた。健康ランドの休憩室は、誰もいないのに人の匂いが残っていた。広い場所には広い場所の、柔らかいものには柔らかいものの、使われなくなった部屋には使われなくなった部屋の、いちいち気に入らないところがあった。

 ある朝、カヂルグミは何も用意していなかった。コーヒーだけを淹れて、バイクを見ていた。場所は、高速道路のサービスエリアだった。売店は閉まっていて、空の土産物棚に、やけに派手な饅頭の箱だけが何個か残っていた。駐車場は広く、遠くのトラック用の枠だけが、使われないまま白く残っていた。

「今日は、なんもないんか」

「はい」

「やっと学んだんか」

「少し」

「少しかよ」

「はい」

 男は紙コップを受け取った。

 カヂルグミは、男のバイクを見ていた。右のミラーだけが新しい。左のミラーは古く、縁が少し錆びている。タンクの傷は、倒した時のものか、倒された時のものか、見ただけでは分からない。分からない傷は、そのまま男の持ち物としてそこにあった。

「あなたは、落ち着くためにバイクに乗っているわけではありませんね」

 男はコーヒーを飲んだ。

「知らん」

「気分を晴らすためでも、忘れるためでもない」

「勝手に分かった顔すんな」

「分かってはいません。分類を変更しています」

「余計腹立つわ」

 男はそう言ったが、その日は走り去らなかった。

 サービスエリアの駐車場は広かった。白線の中に車はほとんどなく、トラック用の枠だけが妙に大きく空いていた。男は紙コップを両手で持ったまま、しばらくその空白を見ていた。

 男は紙コップの縁を親指で潰した。紙が柔らかくへこみ、コーヒーが少し揺れた。

「扉をくぐったら幸せになるんは分かった」

 カヂルグミは、何も言わなかった。

「じゃあ、俺が今まで腹立ててた分は、どこ行くんじゃ」

 コーヒーの湯気は、もうほとんどなかった。

「怒りは、いずれ同じ形では残らなくなります」

「なくなるんじゃろ」

「はい」

「よう分からんけど、なくなるんなら嫌じゃ。ムカつくんじゃ」

 男はコーヒーを飲み切り、紙コップを地面に置いた。礼は言わなかった。カヂルグミも、やはり要求しなかった。

 その次の朝、カヂルグミはまたコーヒーを淹れていた。場所は、最初の空き地に近い道端だった。白い引き戸は、少し離れた草地の端に出ていた。前に出ていた場所と同じではなかったが、同じ戸に見えた。戸が追ってきたのか、男がそこへ戻ってきたのか、どちらでもあった。

 男は、それを見た。

 見て、すぐ目をそらした。

「提案があります」

「ろくでもないやつじゃろ」

「可能性はあります」

「認めるな」

「あなたは、扉の先でも怒っていたいのですね」

 男はバイクを見た。

「知らん」

「怒ったまま移動したい」

 男は黙った。

 カヂルグミは、バイクの方を向いた。

「バイクに乗ったまま蔵の中へ進入してみる、というのはどうですか?」

「は?」

「怒りは、いずれ同じ形では残らなくなります。ただし、通過直後にどの程度保持されるかは、個人差があります。数秒か、数分か、数時間かは分かりません」

「分からんのか」

「はい」

「分からんくせに言うな」

「分からない範囲を含めて、提示しています」

 男は鼻で笑った。笑いにはならなかった。

「バイクで行けば、ちょっとは怒ったままでおれるかもしれん、いうことか」

「はい」

「俺の怒りは、バイクでちょっと長持ちするくらいのもんか」

「そういう意味ではありません」

「ほいでも、そう聞こえるんよ」

 カヂルグミは黙った。

 男は立ち上がった。紙コップを地面に置き、グローブをはめた。グローブの革は薄くなっていて、指のあたりに油が染みていた。油が染みたところだけ、手に馴染んでいる気がした。

 彼はヘルメットをかぶり、あご紐を留めた。留め具が少し引っかかったが、何度か指で探って、ようやくはまった。

「試すだけじゃ」

「はい」

「行くとは言うとらん」

「はい」

「お前の言う通りにするわけでもない」

「はい」

「はいはい言うな」

「はい」

 男はバイクにまたがった。

 扉は、草地の端に立っていた。古い引き戸だった。白く、静かで、見ようと思えばずっと前からそこにあったようにも見える。扉というより、誰かが閉め忘れた戸だった。閉め忘れたものの向こうに、もう一つの道がある。

 男はエンジンをかけた。

 古い音がした。

 カヂルグミは道の脇に立っていた。成功したような顔はしていなかった。けれど、失敗すると決めている顔でもなかった。たぶん本当に、確認していた。

 扉の奥には、道が見えた。

 ただの道だった。広く、乾いていて、信号がなく、料金所もなく、誰かに呼び戻される気配もなかった。そこを走れば、どこまでも行けそうだった。

 男はアクセルを少し開けた。

 バイクが前へ出る。

 このまま行ける気がした。

 その瞬間、男は少しだけ疲れた。

 怒るのに疲れた、というだけだった。

 けれど、その一瞬、向こうで自分が誰かと笑っているところが浮かんだ。気に入らない連中と、腹も立てずにしゃべっている。悪い気分でもない。握手をしているかもしれない。肩を叩いているかもしれない。昔のことを、そんなこともあったと笑っているかもしれない。

 その顔が、どうにも気に入らなかった。

 男は扉の直前で、ハンドルを切った。

 曲がりきれなかった。

 バイクが横へ倒れ、砂利を削った。男の体が投げ出され、肩から地面に落ちた。ヘルメットが草にぶつかり、視界が一瞬だけ白くなった。息が詰まり、口の中に土の味がした。

 バイクは倒れたまま、勢いだけで滑った。

 そのまま、白い引き戸の向こうへ突っ込んだ。

 音はしなかった。

 壊れる音も、ぶつかる音も、エンジンが止まる音もなかった。バイクは戸の向こうに消えた。あれだけうるさかったものが、最初からなかったみたいに消えた。

 男だけが、こちら側に残った。

 しばらく、どちらも動かなかった。

 カヂルグミが男のそばに来た。

「移動補助具のみ、先行通過しました」

「ふざけんな」

「ふざけてはいません」

「じゃけえ、それがムカつくんじゃ!」

 男はゆっくり起き上がった。肩を回し、膝についた砂を払った。大きな怪我はなさそうだった。痛みはあったが、痛みがあることには少し安心した。

 痛みは、まだこちら側のものだった。

 地面には、左のミラーが落ちていた。根元から外れ、鏡面に細いひびが入っている。

 男はそれを拾った。

 ひびの中に、自分の顔が少しだけ映った。

 男はそれを地面に叩きつけた。

 一度では割れなかった。男はもう一度拾い、今度は砂利の上の大きな石に向かって振り下ろした。鏡面が砕け、細かい破片が草の中へ散った。

 カヂルグミは、それを止めなかった。

 扉はまだ開いていた。

 道は残っている。

 男のための戸も、まだ閉じていない。

 それでも、男は行かなかった。

 男は、壊れたミラーの根元だけを握り、怒ったように扉へ背を向けた。歩き方は乱暴だった。足元の砂利が、いちいち跳ねた。

「どこへ?」

「知るか!」

 男は振り返らなかった。

「全部がムカつくんじゃ!」

 カヂルグミは、返事をしなかった。

 男はそのまま、扉とは反対の方へ歩いていった。

「死ね! 全員死ね!」

 まだ、そう言っていられる方へ。

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