Ep.2 新たな幕開け、闇の令嬢
深夜の王都を奔る漆黒の馬車は、静まり返った公爵家の広大な敷地へと滑り込んだ。
車輪が砂利を噛む静かな音とともに停車すると、待機していた従者が手際よく扉を開ける。
レティシアは差し出された手を借りず、優雅な所作で地面へと降り立った。
「おかえりなさいませ、レティシア様」
屋敷の重厚な車寄せで頭を下げたのは、老執事のバルトであった。その落ち着いた眼差しは、主人が連れて帰ってきた夜の静けさの奥に、ただならぬ気配が潜んでいることを鋭く感じ取っていたが、口を開いて問い詰めるような愚は犯さない。
「旦那様と奥様は」
「お部屋でお休みでございます。……夜会での件、すでに報せが届いておりますが」
「父たちには、私から明日説明すると伝えなさい。今夜の手出しは無用であると」
「承知いたしました」
バルトは深く礼をとった。
ヴァルハイト公爵家は、王国の草創期から続く名門である。だが、レティシアが動かそうとしている力は、血筋の威光でも、公爵家が所有する膨大な資産でもない。
レティシアは自室へと戻ると、夜会用の華美なドレスを脱ぎ捨て、動きやすい暗色の乗馬服へと着替えた。姿見に映る自身の姿を一瞥し、髪をひとつに束ね直す。
部屋の奥、壁一面に飾られた古い羊皮紙の地図群の前に立ち、特定の座標に配置された紋章のレリーフを指先で順番に押し込んだ。
カチリと微小な金属音が響き、壁の一部が滑らかに沈み込んで、地下へと続く漆黒の隙間が現れる。
ランプを手に取ることすらなく、レティシアは慣れた足取りで闇の中へと足を踏み入れた。
急な石造りの階段を下り、幾重にも設置された厚い鉄扉と暗号錠を潜り抜けていく。そこは公爵家の屋敷の真下でありながら、表の歴史には一度として記録されたことのない暗黒領域——レティシアが自らの手腕と知識、そして冷徹な計算だけで作り上げた独立組織『ヴァルハイト』の心臓部であった。
最後の鉄扉が重々しい音を立てて開くと、視界が一気に開けた。
広大な地下大空間には、無数の書類棚と通信設備が並び、数十人の男たちが整然と作業にあたっている。王国の各都市から届く暗号解読、物流の帳簿つけ、裏社会の資金の移動状況の監視。
彼らは公爵家の従者ではない。レティシアが幼少期より路地裏や闇市から見出し、自らの手で教育し、能力に見合った相応の報酬と地位を与えてきた、彼女直属の精鋭たちであった。
「レティシア様」
デスクに向かっていた一人の青年が立ち上がり、一礼した。副官を務めるマルコである。その動きに呼応するように、広場全体の男たちが一斉に作業を止め、レティシアに向かって深く頭を下げた。
「そのまま作業を続けなさい」
レティシアの短く澄んだ命令に応じ、空間は再び静謐な作業音へと戻る。
彼女は中央に据えられた漆黒の木製デスクへと向かい、静かに腰を下ろした。
「夜会の件は届いているわね、マルコ」
「はい。第一王子ルードヴィヒ殿下による婚約破棄の宣言。会場に潜ませていた者からの報せが、先ほど届いたところです」
マルコはデスクの上に数枚の報告書を滑らせた。その表情には怒りも焦りもなく、ただ主人の指示を待つ冷静さだけが漂っている。
「王家の狙いは、単なる感情的なすげ替えなどではないわ」
レティシアは報告書の記載に細い指先を走らせながら、淡々と言葉を紡ぐ。
「ルードヴィヒが主導したのではない。王室の諮問会議、ならびに財務統括部が裏で糸を引いているのよ。我が公爵家が持つ物流の独占権と、北部の鉱山利権を国家名義で接収するための『端緒』として、あの公の場での弾劾を選んだのだわ」
「公爵家を『不敬』または『反逆』の口実で追い詰め、財産を合法的に取り上げるための罠、ですか」
「ええ。私が会場で泣き叫び、怒りに任せて王家を批判するか、あるいは公爵家の権力を笠に着て反論することを楽しみにしていたのでしょうね。そうすれば、即座に大逆罪の容疑をかけられるもの」
マルコは薄く笑みを浮かべた。
「ですが、お命じ通り完璧な冷徹さをもってその場を立ち去られた」
「当然でしょう。相手が用意した浅薄な土俵に乗ってあげる理由など微塵もないわ」
レティシアはデスクの上の広域地図を見つめ、静かに思考を巡らせる。
「さて、王家側は私たちが『公爵家』としてどう動くかを注視している。だが、私たちが動かすのは公爵家の表の力ではない。この『ヴァルハイト』の地下網よ。……マルコ、王室が直轄する第三流通路の状況は?」
「すでに把握しております。ルードヴィヒ殿下が主導する王都復興事業の資材調達ルートでもあります」
「そのルートに入っている民間船団のうち、我が組織が裏で出資している三つの商会に対し、明朝をもって一時的な『点検不備』による運航見合わせを命じなさい」
マルコが手帳に速記で書き留める。
「船団の停滞により、王都への建材流入が完全にストップします。被害額は数日で王室財務部の想定を超えるかと」
「大々的に潰す必要はないわ。あくまで『現場の書類上の不備』として処理させなさい。王家がどれほど公権力を振りかざそうとも、現場の末端の手続きひとつで物流が止まるという現実を、まずは静かに突きつけてあげるの」
「承知いたしました。……聖女エレノアに関する動きはいかがなさいますか? 彼女の背後にある『隣国神殿』とのラインですが」
レティシアはふと動きを止め、冷ややかな瞳をマルコに向けた。
「エレノア……あの娘の立ち位置には、まだ不自然な点が多いわ。隣国の神殿がただの親睦として差し出したにしては、王家との癒着があまりに急速すぎる。神殿内部で何らかの政変があったか、あるいは彼女自身が異質な協力者を得ているか」
「調査を深めさせます」
「ええ。急ぎなさい。明日は私自身、王都東街区の状況を直接見に行くわ。表の権力が及ばないあの区画に、新たな情報中継拠点を確保しておきたいの」
「かしこまりました。手配を整えておきます」
レティシアは立ち上がり、地下執務室の全景を見渡した。
「王家は私から『公爵令嬢』という立場を奪ったつもりでいるのでしょう。……ならば、教えてあげましょう。本当の支配者が誰なのかを」
静寂に包まれた地下空間で、氷のような冷徹な宣言だけが静かに響き渡っていた。




