Ep.1 悪女の微笑みと、終焉のパーティ
絢爛豪華なシャンデリアが天井から眩い光を投げかけ、神々の睡蓮を描いた壁画が見下ろす中、王城の大夜会は一瞬にして静まり返っていた。
「……以上だ。愛のない貴様との婚約など、今日この瞬間をもって破棄する。私は真実の愛——聖女エレノアと結ぶことに決めた」
会場の中央、人々の視線が交錯する円卓の前で、第一王子ルードヴィヒ・アルスターが宣告を下した。
金の髪を短く整え、軍服風の礼服に身を包んだ彼の表情には、一切の躊躇いもない。その脇には、薄桃色のドレスを纏った少女が佇んでいた。隣国の神殿より遣わされた『聖女』エレノアである。彼女は伏し目がちに立ち、ルードヴィヒの腕にそっと指先を添えていた。
壁際に集う貴族たちの間に、さざ波のような私語が広がる。
「大夜会で、直接……」
「しかし、ヴァルハイト公爵家の令嬢相手では、殿下もお寛ぎになれなかったのだろう」
「聖女様をお迎えするほうが、王家にとってもおさまりが良いのかもしれん」
視線が、中央に静立する一人の女性に集まった。
レティシア・ヴァルハイト。
漆黒のシルク地に繊細な銀糸の刺繍を施したドレスを纏い、彼女は静かに立っていた。手にしたクリスタルグラスの中で、深紅のワインがわずかに揺れている。
レティシアの眉ひとつ動かない。顔色すら変えず、ただ静かに視線を正面へ向けていた。
ルードヴィヒは背筋を正し、低い声を会場に響かせる。
「レティシア。お前の立ち振る舞いは常に完璧であり、公爵家としての格も申し分なかった。だが、冷厳にすぎる。国母として民を包み込む慈悲も、夫たる私への情すら窺えぬ。これ以上の婚姻継続は、王国の利益にならん」
エレノアがそっと一歩前へ出ると、静かに頭を下げた。
「レティシア様……お心苦しくはございますが、これは国家の安寧を思っての決断にございます。どうかご理解くださいませ」
貴族たちの視線が、期待を込めてレティシアに注がれる。
王家からの事実上の追放宣告に対し、公爵令嬢がどう動くのか。抗議の声を上げるのか、あるいは屈辱に顔を歪めるのか。
レティシアはゆっくりと腕を動かし、手にしたグラスを近くを通りかかった給仕の銀トレーへと静かに戻した。
グラスがカチャリと小さな音を立てる。
「……承知いたしました」
レティシアの口から漏れた声は、静かで、透き通っていた。取り乱す様子も、声を荒らげる素振りもない。
ルードヴィヒがわずかに目を細める。
「不服はないのだな?」
「殿下」
レティシアは背筋をまっ振りに伸ばしたまま、ルードヴィヒの瞳を正面から見据えた。
「王家が我がヴァルハイト公爵家との政略上の契約を終え、新たな選択をなさるというのであれば、私から申し上げることはございません。婚約破棄の申し入れ、ただちに受諾いたします」
言葉の節々に、隙のない洗練された響きがあった。
感情を交えず、ただ提示された結論を事務的に処理するかのような口調。
「ただ」
レティシアが、優雅に一歩を踏み出す。
その立ち姿、身に纏う空気には、王族であるルードヴィヒをも凌駕する気品と威圧感が漂っていた。近づいてくるレティシアに対し、ルードヴィヒの側近たちが思わず息を呑む。
「本日この場でのご決断が、王家にとりまして最良の選択であったと……未来永劫、証明され続けますことを」
レティシアはエレノアの横を通り過ぎる際、一瞬だけ足を止めた。
視線を落とし、エレノアの顔を静かに見つめる。
エレノアの肩が、小さく跳ねた。
レティシアは何も言わず、そのまま一度も振り返ることなく、静まり返る大夜会の会場を後へと去っていった。
広間に残された貴族たちも、近衛兵たちも、ただその背中を静寂の中で見送ることしかできなかった。
◇
王城の重厚な鉄門を抜けると、夜の冷気が頬を撫でた。
門前に待機していた漆黒の馬車の傍らで、御者が恭しく扉を開ける。
レティシアは静かに乗り込み、深くシートへと腰を下ろした。
扉が閉ざされ、馬車が滑らかに動き出す。
窓の外を流れる王都の夜景を背景に、レティシアは手袋を静かに外し、膝の上に重ねた。
「……屋敷へ」
御者へ向けて短く呟いた声には、夜会の場で見せた気品そのままの、冷徹な静けさが宿っていた。




