第5話 目覚め ⅱ
芹菜は、布の端を噛んでぴっと裂くと、千方の足の甲から土踏まずにかけて二回りほど回し、手早く縛った。措置を終えると芹菜は、少し乱暴に千方の足を膝から下ろし、
「もう良いぞ」と言って立ち上がった。
「世話を掛けた。礼を申す」
千方が芹菜に言った。
「犬丸もそうじゃが、童は良う怪我をする。手当は慣れておるから気にするな」
”童”と言われて千方は相当気落ちした。いや、傷付いた。自分では、精一杯、大人振っていたつもりなのに、芹菜に”童”と言われ、剥きになって反論したくなったが、それこそが童なのだと気付き、口には出さずに済んだ。しかし表情まで抑えることは出来なかった。
「姉。六郎様に無礼な物言いをするな」
と犬丸が嗜めるが、逆効果であったようだ。
「ならば、後は汝がやれ」
立ち上がると芹菜はさっさと立ち去ってしまった。
「すいません。あんな姉ですわ」
済まなそうに千方に頭を下げる。
「う? いや、良き姉ではないか。童と言われたのは正直ちと情けなかったがな」
「よう言うときますわ」
「いや、それには及ばん」
なぜか千方は少し慌てた。
千方に弓の稽古をさせていた場所から離れた古能代は、祖真紀の住まいに向かった。隣に住まいを建て、ひとりで住んでいるが、食事は祖真紀の住まいで父母と共に摂る。入口を入り土の階段を三段下りると「ご苦労だったな。和子様はどうじゃった」と母が声を掛けて来た。
「さあな…… 分からん。取り敢えず矢を拾うておるじゃろう」
とぶっきらぼうに答える。
「無茶するでねえぞ。郷の童とは違うでのう」
「しとらん。しとらん。親父とは違うでのう、吾は」
母は椀に盛った稗飯を奥に運びながら「ふーっ」とひとつ溜息を突いた。
奥の熊の毛皮を敷いた席には、祖真紀が胡座を掻いて座っている。しかし、その醸し出す雰囲気は、千方や朝鳥が知っている腰の低い祖真紀とは大きな隔たりがある。少し陰鬱でひとを近付けぬ威厳さえ漂わせているのだ。
母とは気軽に言葉を交わしていた古能代は、無言のまま祖真紀の左側の席に座る。母が汁と山菜を蒸したものをふたりの前に置くと朝餉が始まる。しんとして、固い稗をくちゃくちゃと噛む音が聞こえるほどだ。
「恨んでおるのか」
やがて祖真紀が一言漏らした。
「いや」
古能代も一言だけ答える。
また暫くの間、稗を噛む音だけが響く。
祖真紀は幼い頃から古能代を鍛えた。その鍛え方が少し異常だった。ある時、崖の上で太刀打ちをしていた時、追い詰められた古能代が足を滑らせて崖から落ちた。本当に運の良いことに、古能代は崖際のすぐ下に生えていた松の枝を咄嗟に掴み命拾いしたのだが、翌日、祖真紀は古能代を、また同じ場所に連れて行って太刀打ちをしたのだ。
この時、古能代は『今日こそはきっと親父に殺される。助かる為には、この親父を打ち殺すしかない』真剣にそう考えた。そして、殺す為に打ち込んだ。だが勝てなかった。散々に打ち据えられて翌日は起き上がることも出来ないほど体中が痛んでいた。
古能代は『自分はきっとこの男の子供ではないのだ。本当は敵の子か何かで、その敵への恨みを晴らす為に自分を甚振っているに違いない』そう思った。今は勝てぬが、いつか、逆にこの男を殺してやる。そう思って稽古に打ち込んだ。その稽古は傍から見ても、とても”稽古”などと言えるものではなかった。殺意の籠った目をぎらぎらさせて、毎日が果し合いのようなものであった。
『吾は狂っていた』と、今では祖真紀自身も思う。刀を打つ者が、たまたま質の良い砂鉄を手に入れた。まず、良い刀を打つ為に、どれほど高い温度の火を起こせるか必死に工夫し、今度はその火で熱した鉄をこれでもかこれでもかと打つ。打てば打つほどその強さを増して行く鉄に魅入られ、狂ったように打ち続ける。そんな心境になっていた。子に対する愛おしさという感情は、どこかに置き忘れてしまっていた。
『あの頃の吾は一体何だったのだろうか? 鬼に魅入られていたのだろうか』祖真紀はそう思う。
そんなある日、
「郷の若者を五人ほど預けぬか。麿の郎等として育てる」と秀郷が言って来た。祖真紀はその要請に応えて、古能代とその弟、他に三人の若者を秀郷の許に送った。この時、古能代は十七歳であった。
千方は、犬丸に案内されて斜面に付けられた細い道を上がって行くと舘の裏に出た。かなり急な道ではあったが、足の痛みはそれほど感じなかった。舘の裏には、洗い場といくつかの竈が有り、萱葺きの簡単な屋根が掛けられている。そこで数人の女達が立ち働いていた。洗い場にはいくつもの土器が並べられている。節を抜いて半分に割った竹の樋から流れ出る水でトチの実の灰汁抜きをしているらしい。
縄文人は大量の団栗を灰汁抜きして食料としていたが、この時代、一般には、団栗を食べることは殆ど無くなっていた。そう言う意味では珍しい光景である。トチの実は灰汁抜きして粉に挽き、水に溶いて薄く延ばし、焼いて携帯食として用いる。携帯食と言えば干し飯が連想されると思うが、それは、米を日常食している者達の携帯食である。
女達の中に芹菜の姿を見付けたが、きびきびと立ち働いている芹菜は、千方どころか、犬丸にも声を掛けようともしない。
「いいお天気で御座いやした、和子様」
「犬丸、今日はお供かい?」
他の女達がそれぞれに声を掛けて来た。
「精が出るな」
千方もそう声を掛ける。
「和子様。朝餉はもうお運びしましたで、朝鳥様お待ちでごぜえますよ」
と中年女が言う。
「そうか、世話を掛ける。だが、和子様はやめてくれ。六郎で良い」
少し照れながら、千方が応える。
「あれ、そうでごぜえますか? そんなら…… 。ところで六郎様。足どうなさいました?」
と、聞かれた。
「いや、大事無い。手当も済んでおる」
余り触れられたくは無いのだ。そこに、
「姉が手当した」
と犬丸が言った。
『余計なことを言わずとも良い』と千方は思った。
「あれ、そうかい。芹菜、それで来るのが遅うなったか?」
女は、これで芹奈をからかう材料が出来たとばかり、芹奈にそう語り掛けた。
「ああ、そうだ。喋くっとったら日が暮れる。手え休めとっていいんか?」
芹菜は相変わらず不愛想に応じた。
「あれま。吾もいい年をして娘っ子に言われてしもうたわ。はっはっは、そんなら、六郎様」
「帰った」
舘の入口を入り、声を掛けると、朝鳥が奥から出て来た。
「お帰りなさいませ。いかがで御座いましたかな? 弓の稽古は」
「いや、特に…… まだこれからであろう」
その時千方は、朝鳥に弱音は吐きたくないと思った。
「吾はこれで」
犬丸はそう言うと、軽く頭を下げた。
「世話を掛けたのう。宜しく伝えてくれ」
と千方が犬丸を労った。『宜しく……』とは”芹菜に” という意味なのだが、朝鳥が聞いていることを意識して、名は省いた。
『いちいち説明するのが面倒だから』というのが自分自身に対しての言い訳だった。
犬丸が去った後、千方は自分で布を水に浸して絞り、足を拭いて上がった。朝鳥も敢えて手伝おうとはしない。
祖真紀達が食べたものもそうだが、稗は粥になっている。食べながら、朝鳥は色々と聞いて来るが、千方は生返事をしながら、適当に遇っていた。朝鳥も千方の足に布が巻かれていることにすぐに気が付いた筈だが、なぜかそれについては聞いて来なかった。
「少し横になる。古能代が来たら起こしてくれ」
朝餉が済むと、千方は朝鳥にそう言って、横になった。だが、なぜか疲れているのに眠れはしなかった。目は閉じているものの、頭の中は冴えている。芹菜の太腿や手の生々しい感触が甦って来た。それを振り払うかのように、千方は寝返りを打った。
一刻(三十分)ほどして、古能代が現れた。
「おお古能代殿。世話をお掛け申す。…… 六郎様お支度を」
と言われても、特に支度などは無い。草鞋を履いて、千方は表に出た。
古能代は、舘から細い道を西に取り、林の中に入って行く。馬は連れていない。暫く歩いて行くと、少し開けた所が有り、丸太が吊り下げられていた。丸太の前と後ろの端に蔦を縛り付け木の枝から吊り下げられており、厚く古布を巻き付けた上に更に毛皮が巻かれている。その太さは丁度馬体ほどであり、千方の腰の高さくらいに吊ってある。
『なんだ、これは。まるで童の遊びではないか』と千方は思った。
祖真紀に、千方に弓と馬馳せを教えるようにと言われた時、古能代は戸惑った。そんなもの教えたことが無いのだ。この郷の童達は、幼い頃から父親の前に乗せられて走り廻っているうちに、自然とバランス感覚や手綱捌きを身に着けて行く。父が居ない者は叔父や兄がそれに代わる。
だから、ああだ、こうだと説明した経験が無い。弓に着いても、遊び半分で毎日引いているうちに自然と腕力が着いて行く。狙い方も狩りに連れて行って貰った時、見様見真似で覚えて行く。
千方には基本的な体力が無い。弓を習っていたとは言っても和弓の張りは弱い。もちろん、三人張り、五人張りといった強弓も有り、名立たる兵の中には、それを引くことを自慢にしている者も多い。しかし、一般的な強さの弓は、女でも引けるほどの強さなのだ。
この時代の弓の材質はイヌガヤなどの丸木であり、同じ太さのものを使えば短ければ短いほど張りは強くなる。しかし、木を細くすれば飛ばなくなるし折れやすくなる。だから、そう細くは出来ない。蝦夷の弓は、細くはなく、その上蔓草の皮を巻きつけて補強してある。引く為には相当な腕力を要するのだ。
そのため蝦夷の体型は、上腕が発達しており、それに比べて下半身は貧弱であったと言う。
古能代は、まず千方の腕力を鍛えなければならないと思った。
それなら、毎日、空弓を数多く引かせて置けば良いのだが、それでは、興味と意欲が続くまいと思った。そこで、どこへ飛ぼうがお構いなしに、兎に角、数多く引かせることから始めた。腕力が着かぬうちに狙わせてみても当たらない。すると、色々と考えるばかりで、やる気を無くしてしまうだろうと思ったのだ。同様に、馬馳せに付いても、安定した大和鞍に腰を降ろすように乗っていた者には、バランスを取る感覚があまり身に付いていないし、内股を締めて体を支える力も不足している。そこで考えたのが、この遊具のような吊り丸太なのだ。
「跨ってみて下さい」
高さも低いし、丸太の上の端に蔓草の結び目を作ってあり、横にぐるぐる回ってしまうことも無いからどうということも無い。古布を厚く巻いた上に馬の毛皮を巻いてあるので馬に跨ったような感覚がある。しかし、子供じみているように思えたし、随分と自分の馬馳せ技術を低く見られているような気がして、千方は不満だった。
「では参ります」
そう言って、古能代が丸太を蹴った。前後に動くばかりでなく、吊ってある枝の揺れに寄って上下にも動く。丸太は長さがあり、吊ってある蔦には手が届かない。千方は簡単に転げ落ちた。
油断していた為と思い、黙ったまま千方は、また丸太に跨った。また、古能代が丸太を蹴る。またしても、あっさりと転げ落ちた。また跨り、古能代が蹴ってまた転げ落ちる。
蹴り方に依って揺れは様々となり、千方のバランスを崩す。何度目かに、千方はつい、両の掌をべたりと毛皮の上に付き、体を支えようとしてしまった。
「手は上に上げておかれませ」
古能代に注意された。
「分かっておる」
つい言ってしまった。
「分かっておいでなら、そのようになさいませ」
静かではあるが、毅然として反論を許さぬ口調である。古能代の蹴り方に依って、丸太は前後左右上下と様々な方向に動く。また、その振幅も様々となる。千方が転げ落ちてばかりいれば、揺れを小さくし、千方がかろうじて耐えられる範囲にとどめ、必死で体勢を維持する時間を持たせる。
一見すれば子供の遊びのようにも見えるこの鍛錬も、しっかりと膝を締めて、上体を柔らかくしてバランスを保つ感覚を養う為に必要な鍛錬だった。腰ほどの高さであれば、何度転げ落ちても大した怪我はしない。いきなり馬から落ちれば、大怪我どころか、死ぬ可能性すらあるのだ。
千方は大袈裟に言えば、満身創痍となっていた。右腕の張りは取れておらず、左腕の内側は弓の弦に繰り返し弾かれたことにより、赤く腫れ上がっており、転げ落ちる度に腕の外側には擦り傷が付き、打ち身が残る。落ちた時、掌や肘を突くことは古能代に厳しく戒められた。腕は大きく上に伸ばして耳の脇に当てることによって頭を庇い、体の力を抜いて落ちることを繰り返し求めた。掌は外側に向ける。どんな落ち方をしても大した怪我をする高さではないが『ここで叩き込んでおかねばならない』古能代はそう思っていた。
「今日はこの辺に致しましょう」
古能代が言った。
意外に早く終わったと千方は思った。しかし、体は疲れ切っていた。千方は黙って古能代に頭を下げた。
「それでは、また明日」
そう言って古能代は去って行った。
千方は下草の上に寝転んだ。生い茂った木の枝の間から見える空は澄み切っている。風が木の枝を揺らし、春の心地よい日差しが辺りを包んでいる。うっすらと汗の滲んだ額を手の甲で拭い、千方は大きく息を吐いた。
この数日のことが夢のように思える。
朝鳥も祖真紀も古能代も。そして、夜叉丸、秋天丸、犬丸、千常さえも、ほんの七日ほど前までは会ったことも無い人達なのだ。あの日、千常が迎えに来なかったら、或いは一生会うことも無かったかも知れない。もちろん、芹菜にも。
『草原の人達は今何をしているだろうか?』
草原の風景が思い浮かべられた。母がおり、祖父がおり、豊地が居た。そこには、今も変わらぬ日常の時が流れているに違い無い。
その時、その光景の中に、千方は自分の姿を見出した。千方は妙な感覚に襲われた。『もうひとりの自分が、今も草原で生活しているのではないか?』そんな気がした。
『そうすると、今ここにいる自分は一体誰なのか? 或いは長い夢を見ているのか? このまま眠り込んだら『こんなところで眠ったら、風邪を引きますぞ』と言って揺り起こすのは豊地ではないのか』そんな思いが過ぎった。
急激に変わった環境に、千方の潜在意識が取り残されていたのかも知れない。本当に眠りに落ちてしまいそうな自分を感じた瞬間。千方は意識して頭を振った。そして、両足を大きく上げ、両手を頭の上に伸ばし大きく反動を付けて起き上がった。
『まだ、やることが有る』
千方は舘に向かって、意識して足速に歩き始めた。少し前から、朝鳥に弱みを見せたく無いという思いが芽生え始めていた。秋天丸が原因だったのかも知れない。その時は感じなかったが、朝鳥に負けて悔しがっていた秋天丸の姿を己と比べた。。
あの時自分は『大人の朝鳥に負けたのは仕方ないとしても……』と考えていた。しかし、秋天丸は、大人も童も関係無く、負けたこと自体を悔しがっていたのだ。そこが、秋天丸と自分の違いなのだと、千方は突然気付いた。相手が誰だから負けても仕方無いと思うのは、稽古としてしか考えていないからだ。実際の戦いで、相手が誰だから殺されても仕方ないなどと思うはずが無い。例えどんな相手であっても、負ければ自分が死ぬのだ。何としても勝たねばならない。その思いが、秋天丸をあそこまで悔しがらせたのだ。自分は甘いと千方は悟った。それを克服しない限り、秋天丸にも夜叉丸にも勝てない。己を変えなければ……
その手始めが、朝鳥に弱みを見せないことだと思った。




