第5話 目覚め ⅰ
北には裏切り者が居た。また、大和軍も北上を始めていた。杜木濡一族は、冬の寒さを避ける為、大和の警戒網を潜り、山中を南に向かって逃れた。そして下野に至って、遂にこの郷を見付けたのだと言う。
杜木濡一族のその後についても祖真紀は語ったが、それには触れないことにする。
千方の日常に戻ろう。弓と馬馳せは、暫くの間、古能代が付きっ切りで教えることとなった。筋肉が疲れていない朝方、まず、短弓の稽古をする。次に馬馳せ。最後に太刀打ちとなるが、これは朝鳥が受け持つ。太刀打ちの最後は、決まって朝鳥の連続横面打ちとなり、千方が音を上げるまで続く。
この郷に来て三日目には客扱いの日々は終わり、そんな繰り返しが千方の日常となった。角髪も解き後ろで束ねて、その姿は完全に郷の童同様となった千方は、未だ経験したことの無い毎日と向き合うこととなった。
古能代との稽古は、豊地との稽古とも、朝鳥とのそれとも違っていた。豊地は、只管熱心に指導し、微に入り細に入り、千方に技を教え込もうとした。朝鳥は、豊地と比べれば乾いた態度で千方との距離を取り、少し突き放した様子で接していた。しかし、ぶつかりながらも、千方にはやはり甘えがある。
ところが、古能代との稽古は、それとは全く違った雰囲気をふたりの間に漂わせることとなった。もちろん古能代は千方に威圧的に接したりはしない。あくまで謙虚で慇懃な態度を崩したりはしないが、その風貌と無口な性格からか、千方から見れば、甘えを許さない壁がそこにある。
なんのかんの言っても、朝鳥は千常から与えられた千方の郎等であるのに対し、古能代はそうではないということもあるのかも知れない。 弓について言えば、長弓と短弓の違いはあるが、千方も幼い頃より習っている。しかも筋は悪くはない。呼吸を整え、形を作って精神を集中してじっくり的を狙う稽古を続けて来た千方がそのようにしようとすると、古能代は、引き絞ったら間髪を入れず放つよう指示した。しかも、的などは設置せず、とにかく次から次に放てと言う。矢がどこへ飛ぼうと、そんなことは全く気にする様子は無い。
これが朝鳥相手の稽古であったなら『こんなやり方で上手くなるのか?』と千方は問い掛けていたことだろう。しかし、なんと無くではあったが、そんな質問を投げ掛けられる雰囲気は無かった。おまけに、短弓は千方が想像していたよりもはるかに張りが強く、千方の腕の筋肉は見る見る固くなって行った。疲労の溜まった筋肉では十分に弦を引き切ることが出来なくなり、矢は急速に力を失って近くに落ちるようになる。
それを見ていた古能代が、
「少し、休まれませ」
と声を掛けた。しかし、気を抜いた千方が何と無く空を見上げていると、
「そろそろ参りましょうか」
と声を掛けて来る。もう少し休みたいと思ったが、仕方無く千方はまた射始める。一度疲労の溜まった筋肉はそう簡単に回復はしない。前よりも短い時間で限界に達する。頃合いを見て古能代が声を掛けて来るが、休んだと思う暇も無く、また再開することになる。それが数度繰り返され『もう、この辺で良いであろう』と千方が思い始めてから大分経った頃、漸く、
「弓はこの辺に致しましょうか」
とやっと古能代が言った。
「では、後ほど馬馳せの稽古を致しましょう。矢をお願いします」
そう言い残して古能代は去ってしまった。
”矢?” 一瞬、千方には何のことか分からなかった。少しして『矢を拾えということか』と思い当たった。千方としては、矢は後で誰かが拾い集めるものだと思い込んでいたのだ。最初、郷人の誰かに言って拾わせようかと考えた。しかし、それならば、古能代自身が指示しているはずだ。自分で誰かに命じるのは少々気が重いし、さすがに気が引ける。
結局『自分で拾えということなのか』そう思い至るまでに、千方の思考回路は多少の時間を要した。
木に突き刺さっているものが多いが、外れて遥か遠くに落ちているもの、射損ねてあらぬ方向に飛んで行ったもの、力無く近くに落ちたものなど、様々に散っている。仕方無く千方は、近くに落ちている矢から拾い始めた。それは良いのだが、どこへ飛ぼうと古能代が何も言わなかったこともあり、疲れて来てからは、半ば承知の上で藪に打ち込んでしまった矢もあるのだ。
『何でこんなことまでやらねばならぬのか』との思いは過ぎったが、仕方が無いとすぐに諦めが付いた。結局今はそれをやるしかないのだ。拾いながら、朝鳥なら何と言っただろうと考えてみた。
『矢は戦の際に最も大事なもののひとつで御座いますぞ。矢切れとなれば命に拘わります。その大事なものを人任せにされるおつもりか? 矢一本を作るのにどれほどの手間が掛かるとお思いか。まず、鷹を捕えねばなりますまい。一羽の鷹から取れる矢羽は限られます。矢竹の節の部分をきれいになめし、全く凹凸がないようにする。切れ込みを入れて羽根を選んで差し込みしっかりと固定して真直ぐに飛ぶように調整する。詳しいことは分かりませぬが、兎に角、手間が掛かります。ここの者達はそれをすべて自分でやっているのです。今放たれた矢の一本一本が、誰かが自分の為に精根込めて作ったものですぞ』
きっとそんな風に長々と講釈するに違いない。想像すれば自分でも察しのつくことをそんな風に言われたら、きっと自分はむくれるだろう。そう考えると千方は自分でも可笑しくなった。
余りやる気が無かったので、最初、十本ほど拾ったら戻って矢筒に収め、また拾いに行くという全く非効率なやり方でやっていたが、或いは試されているのではないかと思い当たった。千方は、矢筒を三つほどその負い紐を持って肩に担ぎ、矢の散っている辺りまで行ってそこに置き、ひとつを持って拾い集め、一杯になったら替えるという方法に替えた。
気持ちを切り替えたせいか作業も早まり、木に刺さったものを抜いてほとんどの矢を集め終わった。しかし、左手奥の藪に打ち込んでしまったものも何本かあるはずである。探して見ようと藪に入りあちこち探してみたが、わずか一本の矢を見付けることが出来ただけで、後はどこに飛んだのか皆目分からない。おまけに、落ちていた竹の枝を踏んだ時、その端が足の裏に刺さってしまった。
「うっ」
と呻いて左足を上げ、竹を掴んで刺さった小枝を抜いた。『もうこの辺で良いだろう』探そうという気持ちの切れた千方は、そう自分に言い聞かせた。
左足を爪先立ちにして引き摺りながら藪から出て来ると、そこに、犬丸と姉の芹菜が居た。
「何をしておる?」
千方が問い掛けた。犬丸は、
「へへへ」
と笑って、後ろに隠していた五本の矢を前に出し千方に見せた。
そして「藪の中の矢は拾っておきました。…… まだ一本残っておりましたか?」と言う。
千方は、さては、どこかで見ておったなと思った。『ならば最初から出て来て手伝え』と思ったが、それは口に出さなかった。
「済まぬ。拾ってくれておったか。助かったぞ」
と何食わぬ顔をして言った。
「足はどうした?」
芹菜が千方に聞いた。
「竹の小枝を踏み抜いたが、大事無い」
と千方は答えたが、
「後で高熱を出して死ぬ者もおる。放って置かぬ方が良い」
と、芹菜が言って来た。
「そんな大袈裟な傷ではないわ。蝮に噛まれた訳ではないからな」
軽く笑って千方が応じる。
「そう言っていて、十日ほどで死んだ者もおる」
芹菜は真面目腐ってそう突いて来た。
「脅かすな」
そう千方は躱した。
「いえ、それは本当ですわ。前の年、死んだ者がおります。木の枝を踏み抜いて放っておいたら、何日もしてから体が突っ張って弓のように反って死んでしまいおりました。まるで狐に憑かれて狂ったようでしたわ」
そう言ったのは犬丸だった。
「この裏に小川が流れている。早く行って傷口を洗った方が良い」
犬丸の揚げ足を取ることもせず、芹菜は真剣な表情をしてそう言う。
「分かった。そうすることにしよう」
千方が答え芹菜が支えようとしたが、千方は何と無く気恥ずかしくなって、
「犬丸肩を貸してくれ」
と言って犬丸に近付いた。透かされた芹菜は、一瞬目を泳がせた。しかし、何気なさを装って、犬丸から五本の矢を受け取り、矢筒の置いて有るところに行って納め、それらを背負って歩き始めた。
林を抜けて少し下ったところに小川が流れている。澄んだ水が山から下って来る勢いを保って岩に当たって飛沫を上げている。その水音は弓を引いていた千方にも聞こえていた筈だ。しかし、意識の内には無かった。流れに逆らって泳いでいる小魚が、苔でも啄んでいるのか岩に口を付けては流されて少し離れ、啄む為にまた近付く。
犬丸の肩を借りて水辺まで下りた千方が足を洗っていると、矢筒を置いて一度姿を消した芹菜が戻って来た。何かの草を手に持っており、それを水で濯ぐと手早く揉んで「足を出して」とややぶっきらぼうに言う。
水辺の岩に腰かけて足を水に漬けていた千方が水から足を上げると、その足先を持って自分の膝の上に乗せ、取り出した布で軽く拭く。反射的に千方はなぜか足を退こうとしたのだが、芹菜はそれをぐっと押さえ付ける。芹菜の太腿の柔らかい感触を千方は足首の裏に感じた。
「動かねえで!」
と強く言う芹奈に、
「いや、…… 済まん」
と千方は、なぜかどぎまぎしながら答えた。そして、自分がどぎまぎしていることを犬丸に気付かれるのではないかと案じた。
「犬丸。見ておったのか、弓の稽古を」
と、芹菜には無関心を装って犬丸に話し掛ける。
「ええ、まあ」
その辺をうろうろと歩き廻っていた犬丸が答える。
「思ったより、あの弓はきついな。あれほど張りが強いとは思わなかったぞ」
千方は、心で芹奈を意識しながら、無関係な話題を犬丸に振る。
「大和の弓は甘いと、郷の大人達は言うとります」
「そうか。まあ、そう言われてもやむを得んな。腕がぱんぱんに張っておる。これでも弓には自信があったのだが、あの強い弓を、ああ次から次に引くのでは持たぬわ」
千方はわざとらしく苦笑いをして見せる。
「古能代様は、弓も太刀打ちも馬も誰にも負けません。言う通りやっておれば、きっと、上手うなりますわ」
犬丸の提供した話題に千方は少し興味を誘われたようだ。
「競馬は見せて貰ったが、そうか、古能代は太刀打ちも強いのか」
「はい。何でも、阿弖流爲の再来とか大人達は言うております」
「そうか、阿弖流爲の再来か……」
そんな会話を犬丸と交わしながらも、草の汁を足に塗り付けている芹菜の意外に柔らかい手の感触を、千方は改めて感じた。千方は何か懐かしいものを芹菜の横顔に感じていた。顔の輪郭が母・露女に似ているのだ。母の肌は透き通るように白い。それに比べて芹菜の肌は褐色である。だが、母も芹菜も同じように漆黒の豊かな髪を持っている。残念なことに、ふたりともこの時代の美意識からすると、美人ではない。むしろ、男には人気の無い方なのだ。
大和の、特に京の都で美人として連想されるのは深窓の姫君である。庶民は滅多にその顔を見ることは出来ないから、それは、ほとんど想像の世界となる。上品で控え目な眼を持ち、色はあくまで白く、頬はふっくらとしていて、豊かな長い黒髪を持つ。胸や腰回りは肉付きが良く豊かで柔らかでなければならない。季節に寄って定められた色を重ねた十二単衣の裾を扇のように広げ、香の香りを漂わせながら、肉厚で小さな唇、即ち"おちょぼ口"から時折ふっと小さな溜息を突く。それが理想の美女なのだ。
だが坂東には、実際にはそんな女性は居ない。しかし、都の姫の心象は男達の中に出来上がっているから、少しでも、それに近い女性を求めようとする。
千方の母・露女は若い時から活発な女性だった。身分を気にすることも無く、奴婢に混じって立ち働く。もちろん、たかが郷長の娘だから、姫君ではない。しかし、その身分なりのお嬢様振りが求められる訳だが、伏せ目勝ちどころか無遠慮に大きな目で相手をまともに見る。頬は削げて顎が尖っていて鼻は下品に高い。唇はおちょぼ口どころか薄くて横に広がっている。肩や腰にむっちりとした肉付きは無く、木の枝のように細い体をしている。取り柄と言えば、色が白いのと豊かな黒髪を持っていることくらいか。だから、男達にも余り人気が無かった。
『千方を孕んだ時、周りの者は疑ったが、月足らずの出産でも無く露女の身持ちも固かったので、秀郷は吾子と認めた』と書いたが、実は、モテなかっただけのことなのだ。手短に説明する為『身持ちが固い』と言う表現を使ったに過ぎない。女性に過度な貞操が求められるようになったのは、儒教思想が普及した遥か後の時代からのことであり、この時代は性に対しての考え方がもっと大らかだった。夜這いは当然の習わしであり、むしろ、年頃になっても男が通って来ないならば、親が心配したほどだ。そんな時代に、露女には通って来る男も居なかったのだ。
武蔵守を兼ねていた秀郷は、草原からそう遠くない西の街道を通って、何度も下野と武蔵を行き来していたが、一度として、草原に足を向けることは無かった。土地の有力者と結び付くことを太政官が警戒していた為、無用な言い掛かりを付けられない為の配慮が有ったと言えば聞こえが良いが、露女は郡司の娘などではない。たかが、郷長の娘なのだ。太政官が目くじらを立てるほどの相手でも無い。要は秀郷に、露女に会いたいという気が余り無かったのだ。
一方、蝦夷には深窓の姫君への願望などは無い。だが、漠然とした時代的な美的価値観の共有というものは有ったのかも知れない。それに、芹菜は口が悪い。相手が男だろうと遠慮無くずけずけと物を言う。だから、敬遠する男も多い。しかし、犬丸が言うほど男に相手にされない訳ではなく、露女と比べれば、それなりに人気はあるのだ。働き者で気立てが良いと思っている男も居るのだが、当の芹菜は全く気付いていない。
もう気付かれただろうか? 平安の目で見れば、決して美人とは言えないこのふたり。現代の目から見れば、色白と小麦色の肌の色の差は有っても、世代こそ違うが、実は二人とも、大きな瞳を持ち鼻筋の通ったスレンダーな美女なのだ。だが、残念ながら平安美女は下膨れのおかめ顔でなければならない。ふたりの、頬から顎にかけての逆三角形のラインも、贅肉の付いていない体も、この時代の男達から見れば、貧相にしか見えないのだ。
現代の男達が見たら思わず振り返るほどのこのふたりも、平安時代に於いては残念ながら醜女でしかない。
ふたりは生まれる時代を間違えたという訳だ。




