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坂東の風  作者: 青木 航
第一章 幼年編 壱 隠れ郷(下野)

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第4話 昔語り・阿弖流為の涙 ⅰ

 朝鳥と祖真紀《そまき》がそんな話をしている間に、着替えた千方《ちかた》が戻って来た。

 茶の貫頭衣《かんとうい》に七部丈《しちぶたけ》の半ズボンのような簡易な袴《はかま》、足には足の裏前半分しかない草鞋《わらじ》という姿だ。色の白さと整った顔立ちを除けば、全く郷《さと》の童《わらべ》と変わらないいでたちである。

「どうか? 似合うか」

 なぜか千方《ちかた》は気に入っている様子だ。

「寒うは御座いませぬかな?」

 祖真紀《そまき》が尋ねた。

「大事無い。こう見えても丈夫な質《たち》じゃ。だが、踵《きびす》が、ちと痛いのう。ま、そのうち慣れるか……」

「血豆の二、三回も潰せば、足の裏も丈夫になりましょう」と朝鳥。

「他人事《ひとごと》ではないぞ、朝鳥。その方もこれを履くのじゃ」

「生憎と、麿《まろ》の足の裏の皮は、元々厚う御座いましてな」

と朝鳥が返す。

「厚いのは面《つら》の皮の方であろう」

と千方が突っ込み、

「言われ申したな。朝鳥殿」

と祖真紀《そまき》が笑いを漏らした。


 二人を案内し住まいに戻った祖真紀《そまき》は、千方《ちかた》に正面の熊の毛皮を敷いた席を勧め、昨夜と同じように、朝鳥と向かい合って坐った。昨夜は席を外していた祖真紀《そまき》の妻《め》が草を煎じた飲み物を椀に入れて運んで来たが、すぐに外に出て行った。

「もう、百五十年近くも昔の話になります。五代前の先祖から語り継がれているこの郷《さと》の始まりについての伝承で御座います。まずは、お聴き下され」

と祖真紀《そまき》が話し出した。

「うむ」と朝鳥は身を乗り出す。

「我等の祖先は、その頃、大和《やまと》との戦いに疲れ果てておりましたそうです。陸奥《みちのく》の胆沢《いさわ》という地でのことで御座います」

「百五十年前の陸奥国《むつのくに》の胆沢《いさわ》……」

 朝鳥には思い当たることが有るようだ。

「みちのくの胆沢《いさわ》。尤もそれは大和《やまと》風の呼び名で御座います。なんでも『道の奥』が『みちのく』と訛《なま》ったようですが、我等は”日高見国《ひたかみのくに》”と呼んでおります。言い伝えに寄れば、遠い昔、我等の祖先は、坂東から遠く尾張の方にまで住まいおりました。しかし、大和《やまと》に追われ東へそして北の地へと追い込まれていました」

「坂東には、元々蝦夷(えぞ)が住んでおったのか?」

 千方《ちかた》が驚いた様子で尋ねた。

「はい、さようで。ですが、大和《やまと》がいきなりやって来て、武力で我等の祖を追い払ったと言うことでは御座いません。恐らく、我等の祖と大和《やまと》の民が棲《す》み分けて、互いに交流があった時期もあったので御座いましょう。ただ、我等と大和では大きく違うところが有り申した。大和はひとりの大王《おおきみ》の許《もと》に纏まって行きましたが、我等はそれぞれの長《おさ》の許、細かく分かれたままで、崇める神も違えば、祭も衣服も様々でひとつの纏りとなることはありませんでした。言葉さえ違う者達もおったので御座います。それぞれがそれぞれの生き方をしていたので御座います」

「大王《おおきみ》とは、古《いにしえ》の帝《みかど》のことで御座います」

 朝鳥が千方《ちかた》に説明する。

「大和は人も増え、上からの命令もあり、次第に我等の祖の住む土地を侵すようになったそうです。

 その際『その方達は未開の者共であるから、好き放題に生きておるが、人は秩序をもって生きなければならない。我等は米の作り方や人としての守らねばならぬことを教えるので、直《すなお》に従い、礼を身に着ければ、大和《やまと》の臣民《しんみん》としてやろう』

 そのようなことを言って来たそうで御座います。誇り高い我等の祖は、当然そんな話には乗らなかったと思います。すると大和《やまと》は、武力を以て我等の祖を追い払おうとして来ました。先ほども申し上げました通り、我等の祖は小さな部族に分かれており、お互いの連携も無かったので、次第に東へ北へと追いやられたのです。

 戦いに敗れ、大和《やまと》に下った者達も多くおりました。しかし、一旦下った者達の多くが、反乱を起こしました。

 それは、自分達の祭や毎日の行いを認めて貰えず、すべて大和《やまと》風にするよう強制されたばかりでなく、大和《やまと》の民と同じく口分田を与えるので、野蛮な狩りなどせず農作業に専念するようにと言いながら、多くは、痩せて、米どころか桑さえも育たないような土地を与えたからで御座います。 ……いや、申し訳御座いません。大和人《やまとびと》である六郎様や朝鳥殿にはこんな話は面白くは御座いますまい」

 祖真紀《そまき》はそう言って、千方と朝鳥の顔を見た。

「いや、我等が思っていたこととは大分違うが、命《みこと》らから見れば、そういうことであったのかのう」

 朝鳥はそう言って頷く。

 これを、大和側から見るとどうなるか、日本書紀にこんな記述がある。

『中でも最も強いのが蝦夷《えみし》である。蝦夷は男と女が雑居して暮し、親子の礼儀を知らない。冬は穴に住み、夏は木の上で暮らしている。獣《けもの》の皮を着て動物の血を好み、兄弟は仲が悪くて争ってばかりいる。山を登る時は鳥のように速く、獣のように野原を駆けまわっている。人から恩を受けてもすぐに忘れるが、人に恨みを持つと必ず仕返しをする。自分の身を守ったり、仕返しをするためいつも頭の髪に矢を差し、刀を隠し持っている。仲間を集めては、朝廷の国境に侵入して農家の仕事を邪魔し、人を襲っては物を奪ったりして人々を苦しめている』

 これは、景行天皇が蝦夷の平定に向かう息子の日本武尊《やまとたけるのみこと》に語ったとされる有名な言葉である。

 しかし、もちろん、日本武尊は架空の人物だし、この文章自体も、日本書紀編纂に際して、漢籍の記述を引き写したもので、全く架空の描写で蝦夷の実態ではない。蝦夷とはこんなに野蛮な者達だと言うことを強調し、自らを正当化しているに過ぎない。

 蝦夷の方にしてみれば、平和に暮らしていたところに、いきなりやって来て植民を始め、言うことを聞けと言われた訳だから反発しない方がおかしい。

 だが、当時の蝦夷は祖真紀《そまき》の言葉に有る通り、少数の集団が分立している状況だったから、組織立った抵抗運動は出来なかった。

 一方の大和《やまと》王権側も、大部隊を動員して、軍事力で制圧したという訳でもない。植民をするために柵を設け、蝦夷を追い出し、小規模な抵抗を制圧しながら、従うなら許すと説諭を加えて行ったのである。その“説諭”に応じない者達を、“まつろわぬ者”として排除して行く。言わば、緩やかな侵略を古代より繰り返していたのだ。

 朝鳥が「六郎様」と千方《ちかた》に呼び掛けた。

「なんじゃ?」

と千方が答える。

「将門《まさかど》をどう思われますかな?」

「将門《まさかど》?」

 千方《ちかた》にはなんのことやら分からず、朝鳥と言う男、突然意味の分からぬことを言い出す男だなと思った。

「父上が討った朝敵であろう」

とぶっきらぼうに答える。

「はい、さようで。千晴《ちはる》の殿からの便りに寄れば、京での大殿の評判は、それはそれは大したもので、都を震え上がらせた朝敵を討った大将軍ということで、童《わらべ》に至るまで知らぬ者は無いほどだそうで御座います」

 父を褒められて気分が悪い筈《はず》もない。

「然《さ》も有ろう」

と満足げに答えた。

「何でも、近江《おうみ》の辺りで大百足《おおむかで》を退治したという話まで、実《まこと》しやかに語られているとか」

「父上は近江に行かれたのか?」

 初めて耳にする話に、千方がそう尋ねる。

「いえ、少なくとも将門《まさかど》追討後は、西国《さいごく》、畿内などには足を踏み入れてはおりませぬ。そんな所へ行ったら、それこそ太政官《だじょうかん》の思う壺に御座います。将門《まさかど》の方は都でその首を晒《さら》されましたので、鬼のような形相をした絵が描かれているそうに御座います。ところが、ところがです。この坂東には、討たれたのは実は影武者で、将門《まさかど》は今も生きていて、山に隠れて世直しの策を練っていると信じている者達もおるのです。下総《しもうさ》、常陸《ひたち》や武蔵《むさし》の足立郡《あだちごおり》辺りには多いと聞きます」

 千方には愉快な話ではない。

「何と、怪《け》しからんではないか。そのような者共、何故《なにゆえ》ひっ捕えんのか」

 剥《む》きになって言った。

「民達が待っているのは将門《まさかど》では御座いません。民達の苦悩を救う、架空の救世主に御座います。将門《まさかど》の乱が成就して政《まつりごと》を実際に行っていたとしたら、将門《まさかど》は、あるいは、民たちの怨嗟《えんさ》の的《まと》になっていたかもしれません。そう思えばこそ、大殿は将門《まさかど》を討ったのです。都には都の思惑があるように、坂東には坂東の思惑が有ります。申し上げたいのは、立場が変われば物の見方も違うと言う事です。まして、大和《やまと》と蝦夷ではものの見方が逆であっても不思議では無いと言うことで御座います」

 朝鳥の言うことは、千方《ちかた》には良く分からなかった。しかし、何やら、草原《かやはら》の祖父が言っていたこととどこか似ていると思った。

「続けられよ、祖真紀《そまき》殿。決して不快とは思うておらん」

 朝鳥は、祖真紀《そまき》に、話を続けるよう促した。

「それでは、お言葉に甘えて続けさせて頂きます」

 祖真紀《そまき》はまた話し始める。

「大和《やまと》は我等が祖先の反乱を恐れました。その対策として、恭順した者達を従わぬ者達と戦わせること、反乱の恐れのある者達をばらばらにして、各地に分散させることなど、我等の祖達の力を削ぐことに力を入れ始めたのです。そして、反乱の規模が大きくなると、大軍を以て制する策へと変わって参りました。

 それに対し、漸《ようや》く我等の祖も、複数の部族が連合して大和に当たるようになって参りました。伊佐西古《いさしこ》、諸絞《もろしま》、八十島《やそしま》、乙代《おとしろ》といった首長達が、徐々に部族を纏め、今までより多くの集団で大和《やまと》に当たるようになりました。

 一旦、大和《やまと》に下った者達が、その扱いに耐え切れず反乱を起こし、我等の祖の許《もと》に戻って来たことが、大和《やまと》を知るための貴重な情報源となりました。ですが、やはり、それぞれの立場と思惑があり、未《いま》だ、ひとつになったとは言えませんでした。しかし、その後間も無く、皆をひとつに纏めることが出来る偉大な男が現れたのです」

「今も語り継がれるあの男じゃな」

 朝鳥が口を挟んだ。

「はい。大和《やまと》では、賊の首魁《しゅかい》として語り継がれているので御座いましょうが、我等に取っては一大英傑で御座います。その名を阿弖流爲《アテルイ》と申します。阿弖流爲《アテルイ》はある首長の息子でしたが、若い頃から、その武勇を他の部族にも知られる勇者でした。しかし、ただそれだけでは無く、自分の損得を超えて、困っている部族があればこれを助け、自ら出来ないことは他の首長を口説いて助けるよう促す。そして、首長達を積極的に尋ね親交を深め、一致して大和《やまと》に当たることが必要なことを、折に触れて説いて回わったそうです。互いに敵対する部族を仲直りさせようとして、暗殺されかかったこともあったそうで御座います。

 阿弖流爲《アテルイ》の話に耳を傾ける首長が徐々に増え始め、伊佐西古《いさしこ》、諸絞《もろしま》ら大物首長達も阿弖流爲の後押しをしてくれるようになり、遂には、阿弖流爲《アテルイ》の父も息子の力を認め、まだ壮年だったにも拘わらず首長の座を阿弖流爲《アテルイ》に譲り補佐に回ったそうです。

 こうして、我等の祖達も、すべてとは行きませんでしたが、漸《ようや》く日高見の者達が団結して大和《やまと》に対抗するようになったので御座います。

 延暦八年(七百八十九年)六月のことと言われておりますが、阿弖流爲《アテルイ》が最初に指揮を取った巣伏《すふし》の戦いでは、我等の祖、日高見の民が大和《やまと》軍に圧勝しました。

 大和《やまと》は五万の軍を以て押し寄せて参りましたが、衣川《ころもがわ》の辺りに布陣すると、秘かに軍使を送って来たそうに御座います。一人の武者に二人の随員と案内役として、大和に下った男ひとりがやって来たそうで御座いますが、殺してしまえという皆の声を抑えて、『何を言いに来たのか聞いてみようではないか』と阿弖流爲《アテルイ》はその者達と、場所を選び互いの人数を決めて会ったそうです。

 軍使は阿弖流爲《アテルイ》に会うと、尊大な態度でこう切り出しました。

『この度、朝廷は五万の大軍を繰り出して、この地を囲んでおる。これ以上手向かい致さば、女子供を含めてその方らすべての夷賊《いぞく》は根絶やしになるであろう。畏《おそ》れ多くも帝《みかど》はこれ以上辛抱ならぬとお怒りなのだ。しかし、我等が総大将・征夷将軍・紀古佐美《きのこさみ》様はお情け深いお方でのう。最後の機会を与えようと申された。依って、麿《まろ》がそのお言葉を伝えに参った。心して承れ。書状を遣《つか》わされたが、その方ら文字も読めぬであろうから読み聞かせて遣《つか》わす。良っく承れ』

 そう言って、手紙を取り出して読み始めたのです。

『その方ら蝦夷は、古《いにしえ》より此方《このかた》、我が良民を苦しめ、田畑を荒し、馬を奪い、非道を重ねてきた。朝廷よりの慈愛に満ちた説諭にも応じぬまつろわぬ者共をこれ以上許す訳には行かぬ。

 畏《かしこ》くも帝《みかど》の命《めい》により、この道の奥まで討伐に参ったが、特別の温情を以て最後の機会を与えようと思う。

 もし、武器を捨て一旦、縛《ばく》に付き心を改めるならば、その罪一等を減じ特別の計らいに依って、この地に留まり、安寧《あんねい》な暮らしをすることを差し許す。御法を守り命《めい》に従うならば帝《みかど》の臣民《しんみん》として命を永らえることが出来よう。くれぐれも心して思案致せ』

 そして、手紙を巻きながらこう付け加えましたそうで。

『これは内々のことじゃが、もしその方ら素直に恭順の意を示さば、阿弖流爲《アテルイ》には大墓公《たものきみ》、副首・母礼《もれ》には盤具公《いわぐのきみ》と名乗ることを差し許すとのご内意も得ておる。無用な戦《いくさ》はやめて、我等に下れ。その方が良いぞ』

 軍使が手紙を差し出すと、阿弖流爲《アテルイ》は無言で受け取った後、こう申しました。

『言われる通り、我等は文字は読めぬ。そればかりで無く、大和《やまと》の言葉も難しいことは分からぬ。汝《なれ》が今言ったこと、難し過ぎて吾には何のことやらさっぱり分からぬわ』

 聞いていた日高見の者達は、始めはクスクスと、やがてはゲラゲラと笑い出しました。

『うぬ、我等を愚弄《ぐろう》するか! 夷族《いぞく》共めが』

 軍使は怒り出しました。阿弖流爲《アテルイ》は黙って手紙を破り捨てたそうに御座います。

『己《おのれ》、許さぬ!』と軍使の男が太刀に手を掛けた瞬間、日高見《ひたかみ》の者達が襲い掛かり三人の大和《やまと》の者達は、体中を差されて息絶えたそうに御座います。

 ひとり残った案内役の男は『好き好んで、大和《やまと》に従っていた訳ではない。機を見て逃げ出し、もう一度大和《やまと》と戦うつもりでいた。大和《やまと》の者達は我等を人として扱ったりはしない。騙《だま》されてはならない。吾をここに置いてくれ。きっと役に立って見せる。頼む』と泣き付いたそうです。

 阿弖流爲《アテルイ》は、暫く黙ってその男を見下ろしておりましたが、やがて『大和《やまと》の手先となって何人の日高見の民を殺した?』と尋ねました。

 そして『もしあの男が我等を見下したことを申している間に刺し殺しておれば、ここに残ることを許しただろう。だが、今となっては遅い。同胞《はらから》ゆえ命までは取らぬ。大和の者達のところへ帰れ。そして伝えよ。例え吾ひとりとなっても日高見の民の誇りは守るとな』

 それは、何としても日高見の地と民を守り抜くという、阿弖流爲《アテルイ》の強い決意の籠った言葉だったので御座いましょう。項垂《うなだ》れて男が去った後、阿弖流爲《アテルイ》は申しました。

『奴らは楽をして勝とうと思っておる。ならば、楽に勝てると思わせてやろうではないか』

 案内の男がその後どうなったかは分かりませぬ。当時の胆沢《いさわ》は、稲作も行われ、縦横の道が整えられ、両側には田が広がるそれは豊かな地となっていたそうに御座います。阿弖流爲《アテルイ》は、何としてもこの地での戦いを避けたいと思案を巡らし、日高見川(現・北上川)の東岸に拠点が有るように大和《やまと》軍に思わせることから策を始めたのです。

 当時、大和《やまと》に下った者達の多くが『夷《い》を以て夷《い》を制す』との大和側の考えに基づき、先頭を切って日高見の者達と戦うよう仕向けられていました。

 その扱いに耐え切れず離反し大和に背く者達も多くなっていましたが、仕方無く大和《やまと》に従いながらも、同朋《はらから》と戦うことに苦しんでいる者達も多く居たので御座います。まずは、そうした者達を通じて、阿弖流爲《アテルイ》の拠点は日高見川の東側に有るという偽りの情報を朝廷軍に流したということで御座います。

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