第10話 試練 ⅱ
古能代の住まいの近くまで来ると、年の頃なら三十少し前に見える女が一人道端に立っていた。
「庫裡香、待たせたな」
祖真紀が声を掛ける。女は黙って頭を下げた。年の差は有るが、芹菜が一番親しくしていた女だ。庫裡香は、芹菜を妹のように可愛がっていたし、他人に甘えることの殆ど無い芹菜が、この女にだけは懐いていた。
黙って頭を下げると、庫裡香は一番後ろから従って古能代の住まいに入った。端近に腰を降ろす。
「朝鳥殿、庫裡香はご存じで御座いましょう」
祖真紀が朝鳥に言う。
「うん、芹菜と親しくしておった女子じゃな」
「はい。左様で。実はこの女子から聞き及んだこと、吾一人の胸に収めておこうと思ったのですが、やはり、朝鳥殿には知って置いて頂いた方が良いと思いまして。古能代、汝にも伝えて置く」
祖真紀は古能代にもそう言った。
「何事か?」
朝鳥が祖真紀を見る。
「庫裡香、汝から話せ」
と祖真紀が庫裡香を促す。
「へえ。…… 吾には四人の子がおります。その、何と言うか、身籠った時どう成るかということは良く知っているということで御座います」
唐突にそう言った。何が言いたいのかと朝鳥と古能代は一瞬戸惑ったが、朝鳥の目が動いた。
「それで、吾は、芹菜が身籠っていたのではねえかと思うんです」
庫裡香が言わんとすることを告げた。
「確かなことか?」
身を乗り出して朝鳥が尋ねる。
「吾はそう思うております」
と庫裡香が答える。
「…… 六郎様の……」
と言い掛けた朝鳥に、
「はい。それ以外には考えられません」
と祖真紀が答える。少しの沈黙の後、
「…… もし、そうであったとすれば、悔やまれるのう。他に誰か知っている者はおるのか?」
朝鳥が庫裡香に聞いた。
「いえ、腹が出て来ていた訳でもねえですし、吾は誰にも話していません。気付いている者は、他にはいねえと思います」
「そうか」
「そこで御座います。吾は、このことはここにおる者だけの秘密にしたいと思うております。この者にも、親兄弟にも話さぬよう伝えてありますし、六郎様にも殿にもお伝えしない方が良いと思います。いかがお考えですか、朝鳥殿」
祖真紀が朝鳥にそう問い掛けた。
「ふ~ん。…… 生まれて来たのであれば兎も角、生まれもせぬうちに死んだ子が居たと知っても、六郎様に取って良いことは何も無い。余計にお心を乱すだけであろうのう。…… だが、殿にも報せぬと申すか?」
と祖真紀の目を見据えて、朝鳥が尋ねる。
「はい。たかが蝦夷の娘が身籠って、生まれる前に死んだ子で御座います。殿にお報せする程のことでは無いかと思います」
朝鳥が少し顔を背ける。
「どうも、そのような言い方は好かぬが、一理有る。分を弁えてという訳か……。成る程、命の気持ちも分からぬでは無い。…… したが、なぜ麿に話そうと思うた。己一人の胸に収めておこうと思ったと申したが……」
「はい。今は六郎様にお伝えせぬ方が良いと思います。しかし、いつの日にかお報らせしたいと思いまして」
「いつの日にか……」
と朝鳥が祖真紀の言葉をなぞる。
「はい。お心乱さずに、お聞き頂けるようになった時……」
「なぜ?」
「何と申しますか…… 我等と六郎様を結ぶ命がこの世に生れ掛っていたことを、いずれ知って頂きたい。そんな気持ちが湧いて参りました」
「そうか…… それをお伝えするのが麿の役目という訳か。分かった。引き受けよう。麿の今際の際に残す言葉が出来たわ。…… だが、その暇も無く死んだ時は、古能代。そのほうがお伝えしてくれ」
古能代の方に向き直って朝鳥はそう言った。
「承知致しました」
と古能代が答える。
「それにしても、芹菜。哀れよのう。せめてあと一年生きてくれれば、この世に残すものが出来たというに」
感慨深げに、朝鳥がそう言った。
「真に、人の命とは分らぬもので御座います」
と祖真紀が頷く。
「我等、年寄りから順に死んで行けば良いのだが、そうも行かぬ。若い者が短い命を散らすのを見るのは真に辛きことじゃ」
「左様で御座いましたな。朝鳥殿は三人のお子を亡くしておられるのでしたな」
「…… 麿のことはさて置いて、親や祖父母以外の大事な人を失うには、六郎様は余りに若すぎる」
「左様で御座いますな」
「だが、耐えて、乗り越えて頂かねばならぬ。そして、もうひと回り大きくなって頂かねば……」
独り言のように朝鳥が呟いた。
「庫裡香。御苦労であった。戻るが良い。くれぐれも他言せぬようにな」
祖真紀が庫裡香に告げた。
「へ。解っております。では皆様方、吾はこれで」
庫裡香が出て行くと朝鳥の方に、祖真紀が体を向けた。
「で、相談事とは何かな?」
朝鳥が尋ねる。
「古能代に祖真紀を継がせる件ですが、やはり祝い事になりますので、今は憚られます」
祖真紀がそう切り出した。
「うん」
と朝鳥が頷く。
「ゆえに、倅に郷長を継がせることも祖真紀を名乗らせることも、暫く先送りしたいと思います。良いな、古能代」
「異存は無い」
と古能代は答えた。
「お役目の差配はすべて任せようと思うております。しかし、郷人の暮らしやその他の雑事に関しては、引き続き吾が行い。少しずつ教えて行きたいと思うております」
祖真紀が存念を朝鳥に説明する。
「うん。探索や戦いに付いては、誰も古能代の力を認めておろうから、それで良いのではないかな」
朝鳥もそれに異存は無い。
「有難う御座います。只、倅には郷長として決定的に足らぬものが有ります。不器用な男で、郷長となれば、状況を考えて、時と場合により事実と異なる事を言わねばならぬ事も有ります、倅はそれが出来ませぬ。ただ、有りの儘の己を見せるだけでは、多くの者を束ねて行く事は難しゅうございます。時には己を隠す事も、郷長として必要な事ではあります。また、己が郷をどうして行こうとしているのかを、郷人に伝え、不満や不安を吸い上げて、間違い無く対処して行くことも必要です。出来ることは速やかにやり、出来ぬことは何故出来ぬかを皆に分からせる必要があります。今の倅にそれは出来ますまい。元はと言えば、強さに拘る余り、このような性格に育ててしまった吾に咎が有るのですが……」
古能代は、ただ黙って祖真紀を見ている。
「一言で申せば、融通が利かぬと言うことだろう。何、立場が人を変えると申す。古能代とて、その立場に立てば自ずと変わって行こう」
と朝鳥は口では言ったが、心中では祖真紀の心配も尤もなことだと思った。
「人の性格と言うものは、そう簡単には変わりますまい。倅に気楽にものを言える者がどれ程おりましょう。何かを相談しようとしても、ひと言で済まされてしまって、後の言葉を継げなくなってしまうのではないかと思う者が多くおれば、郷人の声は届かなくなります」
「で、どうしようと言うのだ?」
祖真紀の考えを、朝鳥が質す。
「はい。倅もそのことは以前より自覚しております。吾は古能代に、己に足らぬところが有ればそれを補う者を側に置けば良いと申しました」
「うん。なるほど。で、心当たりでも有るのか?」
「犬丸で御座いますよ」
「何、犬丸?」
「はい。犬丸は強さでは、夜叉丸や秋天丸に到底及びません。しかし、誰とでも拘り無く話せ、すぐに親しくなれる性格です。古能代の補佐役としては最適と思うております」
「うん。確かに、古能代に取って良き補佐役と思えるし、犬丸に取っても、己の才覚を生かせる道とは思う。…… だがな、犬丸は六郎様の郎等だ。それに、郎等になれた時、本人は元より親たちも芹菜もどれほど喜んでいたかは、聞き及んでおろう。今、犬丸を 郎等から外すようなことをすれば、芹菜が死んだ為に外されたと思うのではないか? 第一、六郎様が承知されまい」
祖真紀の考えを尤もと思いながらも、朝鳥は、そんな懸念を口にした。
「はい。このような時に、私事で何を申しておるのかと朝鳥殿もお思いでしょう」
「思う。思うが、祖真紀という男、そんな単純な男では無いとも思うておる。何を考えておる」
「いえ、それは買被り。長いこと仲の悪かった親子でも、親から見れば子は子。この古能代に、何とか無事に郷長を務めさせる為にはどうすれば良いかと考えていたことを、申し上げてしまっただけです。時も弁えず。申し訳御座いません」
祖真紀はあっさりと考えを引っ込めた。だが、朝鳥は祖真紀の狙いに気付いた。
「犬丸を六郎様から離した方が良いと思うておるな。何故か?」
「ふ~ん。困りましたな。そう仰られては。…… 犬丸が側に居ては、六郎様の中で、芹菜の影が薄れるのが遅くなるのではないかとは思います。それが、六郎様に取って良いことかどうか。まあ、手前が斟酌することでは無いとは思いますが……」
「麿に考えよと申すか?」
「いえ、そんな僭越なことは思うておりません」
「ふ~ん。犬丸に取っても、古能代に取っても、又、六郎様に取っても良きことかも知れぬ。だが、犬丸がそう取ってくれるか。又、六郎様が承知されるか。それが問題じゃな」
祖真紀もそう考えて、朝鳥の力を借りて犬丸と千方を説得しようとしていたのだ。
「犬丸には吾から頼みましょう」
黙って聞いていた古能代が口を開いた。
「では、六郎様には麿からお話しすることになるな」
朝鳥も古能代も祖真紀の狙いを理解した。
「どうで御座いましょう。六郎様の郎等としての身分はそのままにして、古能代の補佐を務めて貰うことは出来ませぬでしょうか」
と朝鳥に相談を持ち掛けた。
「うん? しかし、いずれにしても殿のお許しが要ることになるぞ」
と朝鳥が釘を刺す。
「殿は、いずれこの郷のことは、すべて六郎様にお任せになるおつもりではないでしょうか?」
「やはり祖真紀、読んでおるのう」
朝鳥がニヤリとした。
「いえ、出過ぎたことを申したらお許しください」
「命には、この郷の将来の姿が見えているな」
「こう有って欲しいと思う姿は、描いております」
「古能代、そのほうはどうじゃ」
朝鳥は古能代にも尋ねた。
「親父とは違うかも知れませぬが、吾なりには……」
「そして、その描いている絵の中に、犬丸の姿が有るという訳か……」
「はい」
「ふ~ん、そうか。気付かなんだのう。確かに今のままでは、犬丸は郎等として、夜叉丸や秋天丸を越えられまい。しかし、古能代、つまり次の祖真紀の補佐役となれば、己の才覚を生かし切ることが出来るやも知れぬ。それは、芹菜の供養になることかも知れぬな。分かった。したが、急ぐことでは有るまい。考えて置く」
納得した朝鳥が言った。
「宜しくお願い致します。元より、吾も急ぐつもりはありませんので」
祖真紀が朝鳥に頭を下げる。




