第9話 喪失 ⅱ
すぐに、佐野を発った。山に入った。蝉時雨が喧しい程に鳴り響いているが、それが却って静寂を感じさせる。
千方がこの山道を始めて辿ったのは、春であった。次に辿ったのは、旋風丸の事件の報告の為、佐野に出向いた時、そして思いも掛けぬ初冠となった冬のことである。
岩の上に立って、寒風に髪を靡かせながら、千方を見送っていた芹菜の姿が、ふいに脳裏を過った。
『そうだ、芹菜と話せば、この割り切れぬ思いも晴れるかも知れない』と千方は思った。
『何を気にしておる。殿様とて、時には機嫌の悪いこともあろう。たまたま間の悪い時に行き合わせただけと思うたら良い』
そんな風に言われそうな気がする。千方は思わずひとりでニンマリとした。
「古能代。祖真紀は我らが山に入ったことは疾うに存じておろうな」
そう朝鳥が尋ねた。
「はい」
とだけ古能代は答えた。
「ならば、既に郷の者が山蔭におろう。なぜ姿を見せぬ」
と更に問う。
「分りませぬ」
必要最小限の答しか返って来ない。陸奥以来、少しは変わったかと思っていたが、相変わらず愛想の無い男だなと朝鳥は思った。
「嫁と孫が来たというに、迎えくらい遣しても良いと思うが、余所者でも入って来た時のように何をこそこそと見張らせておるのじゃ、気に入らん。祖真紀に言うてやらねばなりませぬな、六郎様」
そう不満を口にする。
「祖真紀には祖真紀の考えが有るのであろう。郷に入った途端、郷人総出で迎えてくれるかも知れぬぞ」
と千方が笑顔で朝鳥を宥める。
「そうで御座いましょうか?」
朝鳥は納得行かない様子だ。
郷人総出の出迎えは無かった。郷は普段と変わらぬ佇まいを見せている。
千方の姿を見付けると、歩いていた者は道端に身を避けて土下座する。田や畑で働いていた者達は、道端まで出て来て、同じように土下座する。普段と変わらぬ光景である。
広場まで来ると、祖真紀ひとりが出迎えていた。
「お帰りなさいませ、六郎様。途中までお出迎えもせず申し訳御座いません」
と頭を下げる。
「いや、そんなことは良い」
と千方が応じる。
「祖真紀、郷に何か有ったのか?」
朝鳥が尋ねた。
「はい。御座いました」
祖真紀が静かに答える。
「何が有ったのか?」
嫌な予感がした。千方が祖真紀に問う。
「のちほどお話し致します。まずは、舘の方へ。古能代。小鷺殿と子らを吾の住まいに案内して置け。母に引き合わせたら、汝は舘に参れ」
祖真紀は古能代にそう指示した。
「分かった。では、六郎様、のちほど」
そう言って、妻と子等を連れて古能代は住まいに向かう。
「子らも疲れておろう。小鷺殿、ゆるりと休まれよ」
小鷺の後ろ姿に千方が声を掛けた。
「お言葉に甘えてそうさせて頂きます」
振り返った小鷺が答える。
舘前の階段の下では、郎等達が整列して千方を出迎えた。矢張り、山に入った時から千方帰還の情報は伝わっていたものと見える。しかし、犬丸でさえも満面の笑みを湛えて出迎えてはいない。いや、むしろ犬丸が一番暗い表情をしているのだ。
「お帰りなさいませ」
揃ってそう言って頭を下げた。
「今、帰った。留守居大儀であった。何が有った?」
千方が尋ねる。
「まずは、舘でお寛ぎ下さい」
千方の質問には答えず、鷹丸がそう言った。
「うん」
と答え、重ねて聞くことはしなかった。だが、千方は、留守中郷に余程のことが有ったのだという確信を持った。そして、兄が取った態度に訳があったことも察した。しかし、この郷に起こる大事とは何か? それが想像も付かなかった。
逸る心を抑えて、ゆっくりとした足取りで階段を上がった。入口を入り框に腰を降ろすと、控えていた中年女が足を漱ぐ。何だ、芹菜ではないのかと千方は思った。
框を上がり、そのまま一番奥まで進むと腰を降ろした。朝鳥、夜叉丸、秋天丸が続き千方と一旦対座するが、祖真紀が入って来た為、正面を空けて両側に開く。
「六郎様。ご無事のお帰り祝着に存じます」
頭を下げて、祖真紀がそう挨拶した。
「うん。留守中世話を掛けた」
「国時の姿が見えぬようじゃが」
朝鳥が祖真紀に尋ねた。
「三輪様は、皆様と入れ違いに田沼に戻られました」
「そうか。礼を言いたかったのだがのう」
朝鳥は何気無い話を続けている。
「祖真紀。何が有った」
堪えきれず千方がずばりと聞いた。一度視線を落とした祖真紀が視線を戻し、千方を見据える。
「六郎様。お留守中、芹菜が死にました。申し訳ありません」
と一気に言った。
「何?」
聞き違いだろうと思った。『芹菜が死んだ? どういうことだ。そんな馬鹿な!』そんな言葉が千方の脳裏を駆け巡った。しかし言葉には出さなかった。犬丸の方を見ると、犬丸は視線を外し下を向いた。
「あの元気な芹菜が死んだと申すか? なぜ?」
千方が真剣な表情で詰める。
「半月ほど前のことで御座います。他の女子共と話しながら作業場から戻る途中、急に胸を押さえて座り込み。そしてそのまま、何ひとつ話す暇も無く息絶えたということに御座います」
祖真紀はそう言って静かに千方の目を見た。
「そんな馬鹿な……」
思わずそんな言葉が千方の口から漏れる。
「はい、聞いた時、手前も俄かには信じられませんでした。あの元気な芹菜が、そんなにもあっさりと死んでしまう筈が無いと思いました。お心お察し致します」
「真か? …… 真のことか! 犬丸」
千方は、思わず犬丸に向けて声を荒げていた。犬丸は伏せていた顔を上げ千方を見て、目を閉じて黙って頷いた。
沈黙が辺りを支配した。誰も言葉を発することが出来ない。千方は、ただ空を見据えていた。確かに聞いた。確かに聞きはしたが、聞いたことを認識出来ないでいる。
『六郎様。起きて下され』どこからかそんな言葉が聞こえて来て、目覚めさせてはくれないだろうか。そんな風に思ってみる。
『ふう、夢だったのか』目覚めてそう呟き、苦笑いを浮かべる己の姿を想い浮かべ、次の瞬間にそれが起こることを切に願った。しかし、面々の強張った顔、張り付いた光景は消えることは無かった。
朝鳥も衝撃を受けていた。そして同時に、千常の取った態度について思い起こしていた。恐らく、千常は祖真紀から報せを受けていただろう。だが、下野藤原家から見れば、芹菜は、千方が手を付けた蝦夷の娘に過ぎない。当主である千常が、わざわざ千方に伝えるようなことではないのだ。
その役目を負うのは、祖真紀が相応しい。自分から伝えるべきことではないが、千方の気持ちを思えば早く報せてやりたい。それが千常の苛立ちとなって表れたのだろう。そういう千常の性格を、千常の守役でもあった朝鳥は知り抜いている。相変わらず不器用なお方じゃと思った。
気が付くと祖真紀が朝鳥を見ている。目が合った。朝鳥は目から祖真紀の意図を読み取った。入口の方を見ると、遅れて来た古能代が一番後ろに席を取ったところだった。恐らく、母から事情を聞いている筈だ。
「六郎様。お心お察し致します。我等はこれで退散させて頂きます」
朝鳥の方を見た千方が小さく頷く。来たばかりの古能代を含めて、他の者達が一斉に立ち上がり、静かに入口の方に歩き始めた。
「待て!」
千方が声を発した。
「犬丸。残ってくれ」
足を止めて振り返った犬丸が、祖真紀と朝鳥の顔を見る。祖真紀も朝鳥も、黙って頷いた。
犬丸は千方の前まで進み、そこに腰を降ろした。他の者達は出て行く。
誰も言葉を発せず、それぞれの想いを秘めたまま舘を出、階段を降りた。
「朝鳥殿。話して置きたいことと相談が御座る」
階段を下り切ったところで、祖真紀が言った。朝鳥が黙って頷く。
「古能代。汝も参れ。汝の住まいを使う」
祖真紀が古能代に言った。
「はい」
と古能代が返事する。
「他の者達は、それぞれ家族の許へ戻るが良い」
祖真紀がそう指示をする。
「はっ」
と言う返事だけを残し、鷹丸、鳶丸、竹丸、それに、夜叉丸、秋天丸も、それぞれの住まいに戻って行く。
皆が出て行った後、千方と犬丸は暫く無言で対座していた。やがて、千方が口を切った。
「どのように知った?」
「舘から戻る途中で、走って来る幼い弟に出会いました。…… 泣きじゃくって、ただ『姉が、姉が』と言っているだけで、何があったのか分りませんでした。芹菜に何かが有った事だけは分りましたので、急いで戻りました。
入口の近くまで来ると、母の泣き声が聞こえました。入って行くと、上向きに寝かされた姉に覆い被さるようにして、母が泣いていました。父は傍に座り込んで、何とも言えぬ顔をして、ただ黙っていました。
芹菜が死んだことは明らかでしたが、なぜそんなことになったのか。そんな想いだけが頭の中を駆け巡りました。吾は『何が有った。なぜなんだ!』と叫んでいました。『分からぬわ!』と父が叫び返して来ました」
「どのような顔をしておった、芹菜は?」
と千方が聞く。
「穏やかな顔でした。事情は後から、一緒に居た女子から聞きました。あっと言う間に死んでしまうなんて、何の病だったのかも分りませぬ。
すぐに六郎様にお報せせねばとは思うたのですが、夏の暑さの中陸奥まで行って戻るまで、どの道、遺体をそのままにして置くことは出来ません。それで、郷長が殿にお報せしただけで、お帰りをお待ち申しておりました」
「やはり、兄上は知っておったのか……」
光景を思い起こして、千方が呟く。
「殿は何も仰らなかったのですか?」
犬丸が千方に尋ねた。
「父上のところへ寄ってから帰ろうとしたら、さっさと帰れと追い返された」
「左様で御座いますか」
と犬丸。
もはや夢であってくれと思うことは出来なかった。芹菜はこの世にいない。そう認めるしかない。しかし、あれほど元気だった者が、あっと言う間に死んでしまう病などがあるのか? 他に死んだ者が周りにいないということは、流行病などでは無いだろう。そんな風に考えている時、千方は、ふと或ることに思い当った。
他でも無い。千方と芹菜が近付く切掛けとなったあの出来事だ。竹の小枝を踏み抜いた千方を、芹菜が真剣に手当してくれた時、蝮に噛まれた訳でもないのに、何を大袈裟なと思ったことを思い出した。それが少し可笑しく、又嬉しくもあった。
そして何より、男女子などと呼ばれている芹菜にこんな心根が有ったのだと思ったことが、芹菜に心を寄せる切掛けのひとつとなったことは確かだ。しかし今千方は、芹菜のあの行動は、命というものを遥かに真剣に考えていたからでは無かったのかと思う。つまり、己の命が、或いは長くないかも知れないと思っていたのではないかと思うのだ。
実は、芹菜はそれまでも何度か発作を起こしていた。それは、運良くと言うか運悪くと言うべきか、たまたま、他人の見ていない時に起こっていた。強気な芹菜は、それを誰にも話さず元気な娘を装っていたのではないか。そんな風に思った。
「芹菜が突然苦しみ出すようなことは、今まで一度も無かったのか?」
犬丸に聞いてみた。
「そう言えば、一度だけ有ります。畑仕事を一緒にしていた時のことです。近くに姿が見えなくなったので、探すと芋の葉の陰で蹲っていたことが有りました。『何しとる?』と声を掛けると『覗くな!』と、今思えば苦しげな声で言いました。
その時は、何と言うか、息張っているのかと思い、まずいところを覗いてしまったと思って、急いでその場を離れました。でも、少し後に顔を合わせた時、顔色は真っ青で、脂汗が滲んでいました。あれは、息張っていたのではなく、苦しんでいたのかも知れません」
「そうに違い無い。きっとそうだ。……芹菜は己の病を知って、隠していたのだ」
千方はそう納得した。
「姉に悪態ばかりついていたことが悔やまれます」
そう言って犬丸は目頭を押さえ、両の人差し指で涙を拭った。




