↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
坂東の風  作者: 青木 航
第二章 幼年編 弐 陸奥へ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
45/123

第9話 喪失 ⅰ

 帰って来たという安堵感がどこかに有る。生まれ故郷の武蔵では無いが、坂東というくくりの中では、やはり故郷という感覚が沸いて来る。

 陸奥《むつ》での日々は楽しかったが、故郷に帰ったという安堵感はそれとは別物と言える。だが、千方が生まれ育った武蔵の風景は下野《しもつけ》とは違う。川越しに見る山々は飽くまで遠く、空と溶け合った背景であり、現実感の無いものであった。冬の寒い日にはくっきりと見えるが、春からは、彼方に朧気《おぼろげ》に霞んでいるか薄雲に隠れている。


 千方は幼い頃、山が目の前に有るとか、そこに登るということを現実の感覚として捉えたことは無い。山々は、空や雲或いは陽や星と同じように、飽くまで背景として存在していたに過ぎ無いのだ。

 草原《かやはら》は、利根川が氾濫と流路の変更を繰り返し、運んだ土砂が堆積して作り上げた自然堤防の上に位置している。南を見渡すと山は無く、どこまでも平坦な土地が続き、地平線を大きく遮るものは存在しない。埼玉県は今でも、日本一高低さの少ない県であるが、この辺りは特に平坦な土地が続いているのだ。

 自然堤防の上に人々が住み、その南には湿地を改良して開墾した田畑が続く。周りには、湿原の葦の原や、乾地の雑木林が散在する。湿原から水を抜く為の掘割が数多く掘られていて池や沼も多い。それが、千方が幼い頃より馴染んで来た故郷の風景なのだ。だから、千常に従って初めて下野《しもつけ》に来た時、山裾《やますそ》まで路《みち》が続いていて、登ることが出来るということに驚きを覚えた。


 始めて下野《しもつけ》に連れて来られて、三日目に山に分け入った時、普通であれば感動とも言えるほどの感覚を味わっていた筈なのだが、どこに連れて行かれるのかという大きな不安が存在した為に、その感動は、意識の奥に閉じ込められた。

 初めて来た時、下野《しもつけ》とは山国なのだなと思ったが、今にしてみると、丁度、武蔵と陸奥の中間的地形を持った国だったのだと思う。

 しかし、実のところ、千方は下野《しもつけ》を良く知らない。殆どの期間を山中で暮らし、平地を歩いたのは、来た時と、初冠《ういこうぶり》の為、宮の二荒山大明神《ふたらさんだいみょうじん》に出向いた時、それに、陸奥に旅立つ時の三度だけだ。それなのに、下野《しもつけ》に入った途端、故郷に戻ったという安堵感を覚えたことが、千方自身不思議に思えた。


 千方一行は、まず安蘇郡《あそごおり》・佐野に向かい、千常に挨拶を済ませてから北上し、唐沢山《からさわやま》西麓《せいろく》の田沼に有る秀郷の隠居所を訪れることにした。

 東山道から佐野に入る。久し振りに千常の住む舘の門を潜ると、顔馴染みの郎等がすぐに舘の奥に走って行った。

「陸奥からのお方は、あちらに酒肴《しゅこう》など用意しておりますので、ご案内致します」

と別の郎等が葛良《かずら》らに声を掛ける。

「多岐《たき》殿、世話になった。後ほど挨拶に参ろうと思うが、まずは寛《くつろ》がれよ」

と千方が告げる。

「では、お言葉に甘えまして、そうせさせて頂きます」

 そう挨拶して葛良《かずら》は千常の郎等に案内されて行った。

「殿はおられるのか?」

 人も舘の隅々までも知り尽くしている朝鳥が、別の若い郎等に声を掛けた。

「はい。おられます」

と郎等が答える。

「藤三《とうざ》。子は生まれたか?」

 良く知った仲なのだろう。

「次の月になりましょう」

「嬶《かか》が身重《みおも》の時に女子《おなご》遊びなどするで無いぞ」

 朝鳥らしい軽口が飛び出す。

「まさか……」

 若い郎等は鼻白んだ。

「親父殿は達者か?」

と朝鳥が聞く。

「それが、このところ調子が悪く。寝たり起きたりですわ。朝鳥殿のように、元気であってくれれば良いのですが」

「何、あの男得意の仮病であろう。そのうちケロっとして元気になるわ。心配するな」

 安心させようとしての事か、本当にそう思っているのかは分からない。

「全く。朝鳥殿に掛っては敵《かな》いませぬな。そうあってくれれば良いのですが……」

 そんな会話を交わしながら朝鳥は、ずかずかと奥に通って行く。何十年も過ごした舘である。

 千方も朝鳥と共に奥へ進むが、心の中は何となく落ち着かない。初めて来た時に 足掛け三日滞在したとは言え、その後、二度しか訪れたことが無いのだから無理も無い。まして、夜叉丸、秋天丸に至っては尚更である。


 広間に入ろうとして、一瞬、千方の足が止まった。何と、千常が既に奥の上座に座っている。

「これは兄上。只今《ただいま》戻りまして御座います」

 そう言って中程まで進んで、胡坐《あぐら》を掻《か》き、両の拳を床に突いて一礼し、千常と対座する。

 朝鳥、古能代、日高丸の手を引き高見丸を抱いた小鷺《こさぎ》、その後ろから夜叉丸と秋天丸。それぞれ腰を低くして進み、千方の後ろに席を取って、同じように一礼する。千方は顔を上げた。その時千常の顔が、何と無く憂鬱そうに見えた。

「うん。大儀であった。古能代、女《め》と子らか?」

と千常が古能代に声を掛ける。

「はっ。小鷺《こさぎ》と申します。それに、上が日高丸、下が高見丸に御座います。こたびは、我儘をお聞き入れ頂き、連れ帰ることが出来ました。殿並びに大殿様の御配慮、忝《かたじけな》く思うております」

 朝鳥が受けていた密命など知らぬ古能代が丁寧に例を述べた。

「小鷺《こさぎ》に御座います。お見知り置きを」

 小鷺もそう挨拶をした。

「うん。古能代を支えてくれ、頼むぞ」

「はい。及ばずながら」

「六郎。陸奥は如何《いかが》であった?」

 千方に向かって千常が尋ねる。

「楽しゅう御座いました」

「そうか。それは良かった。朝鳥、大儀《たいぎ》であった」

 千常の目が、古能代暗殺が現実にならずに済んだ事に付いての安堵を朝鳥に伝えており、朝鳥もほっとした気持ちを目に込めているが、それは二人だけに分かる沈黙の会話である。

「いえ。麿も楽しませて頂きました。それに、またひとつ、六郎様は大きくなられましたぞ」

 朝鳥の口から出る言葉は、千方の成長に付いてである。

「…… そうか。六郎。人の世には色々なことが有る。だがな、兵《つわもの》は、常に強くあらねばならぬ。良いな」

 千常の使う常套句ではあるが、朝鳥には何やら言い訳めいて聞こえた。

「はっ」

と返事はする。

「一休《ひとやす》みしたら、郷《さと》に帰るが良い」

と千常が言った。

「兄上。陸奥守・平貞盛様には一方《ひとかた》ならぬお世話になりました。郷《さと》に戻る前に、田沼の父上の許《もと》に参り、帰郷の御挨拶方々(かたがた)その旨申し上げとう御座います」

 田沼に寄る許しを千方は願い出た。

「それは、麿から申し上げて置く」

と何故か千常にいなされた。

「しかし、……」

と千方が言い掛ける。父に直接伝えると貞盛に約束したことが心に掛っていた。それに、吉利《きり》のことも直接頼みたかった。

「良いから郷《さと》に戻れ」

 千方が言おうとするのを遮って、千常が郷に帰るよう促す。

「実は、父上にお願いしたき儀も御座いまして」

 千方は納得していない。

「何か? 急ぎのことか?」 

と千常が聞いて来た。

「はい。出来れば」

「申して見よ」

「はい。実は夜叉丸が……」

 千方がそう言い掛けた時、

「六郎様、そのことなら宜しゅう御座います。郷《さと》に帰りましょう」

と夜叉丸が割って入った。

「夜叉丸案ずるな。兄上のお許しを得て、父上の許《もと》へ参る」

と千方が夜叉丸に告げる。

「何事かは知らぬが、父上には麿から申し上げて置く。今は帰れと申しておるのじゃ」

 千常は毅然として千方の願いを撥ね付けた。

「何卒、お聞き入れ頂きとう存じます」

 千方は重ねて許可を求める。

「諄《くど》い! 言うことを聞け」

 千常の声が大きくなった。

「兄上、実は夜叉丸、いえ、小鷺《こさぎ》殿に取っても良きことで御座います」

 千方の執拗さに、

「麿の言うことを聞けぬのか」

と千常の表情が変わった。察した朝鳥が、

「六郎様!」と声を出す。

 その時、いきなり立ち上がった千常が、つかつかと千方の傍まで歩み寄り、頬を殴った。

「さっさと立ち戻れ!」

 そう一括すると、どたどたと足音を立てて、千常は広間を出て行ってしまった。


 隠れ郷に向かう途中殴られた時のように、千方は飛ばされもしなかったし、怯《おび》えてもいなかった。憂鬱な目をして、左手で殴られた頬を擦《さす》った。

 突然、高見丸が激しく泣き始めた。日高丸は恐怖に固まっている。小鷺《こさぎ》は戸惑って、必死で高見丸をあやす。

 何が有ったのかと朝鳥は考えていた。そして、

「六郎様、戻りましょうぞ」

と殊更《ことさら》のんびりとした語調を作って言った。


 初めて兄に逆らった。貞盛への約束を守る為と夜叉丸を思ってのことだ。それが、理由も分からず拒否された。兄を理不尽《りふじん》な男だと思った。

『何も郎等達の目の前で殴ることは無いだろう。幼い童も同席しているのに』

 そう思った。千方は唇を噛んで暫くの間、空《くう》を睨んでいたが、やがて笑顔を作り、立ち上がって振り返った。そして、

「子らを驚かせてしまったな。小鷺《こさぎ》殿、済まぬ」

と言った。

「いえ、こちらこそお騒がせ致しまして」

 小鷺は高見丸が泣いた事を詫た。

「六郎様、もう、吉利《きり》のことは宜しゅう御座います。手前のことで殿を怒らせてしまい、申し訳御座いません」

 夜叉丸は、己が原因を作ったと思い詫びた。

「いや、貞盛様にお約束したことも有って、重ねてお願いしたのだ。そのほうのことばかりでは無い。詫びる必要は無い。むしろ、詫びねばならぬのは麿の方じゃ」

「いえ、そんな」

「六郎様」 

 朝鳥が呼び掛けた。

「殿は気の短いお方ですが、決して理不尽な方では御座いません。きっと、何か理由《わけ》があるはず。お詫びして、郷《さと》に参りましょう」

 千方が黙って頷く。

「…… 分かった。そう致そう」


 千方は、一人で廊下伝いに千常の居室に向かった。そして千常の居室前に来ると、背を向けて書見《しょけん》をしているように見える千常に声を掛けた。

「兄上。入っても宜しゅう御座いますか?」

「入れ」

 振り向いた千常が、やや重い声音《こわね》で言った。近くまで歩み寄り、腰を降ろし改めて黙礼する。

「先程は申し訳御座いませんでした。郷《さと》に戻ります」

と詫た。背を向けた儘、

「うん」

とのみ千常は答えた。

「では失礼致します」

 立ち上がった千方を、振り向いた千常が見上げた。千方は黙礼《もくれい》し、千常に背を向けて部屋を出ようとした。

「六郎……」

 その背中に千常が声を掛けた。

「はい」

 振り向いた千方が答える。一瞬間を置いて、

「…… いや、良い。行け」

とだけ千常は言った。

「はっ」

 千常は何を言おうとしたのかと、千方は思う。しかし、問い返さずに、黙って広間に戻った。



 皆、会話が余り無かった。初めて下野《しもつけ》に来た小鷺《こさぎ》に、来る早々嫌な思いをさせてしまったことを、千方は申し訳無く思った。

「古能代、小鷺《こさぎ》殿に嫌な思いをさせてしまった。済まぬ」

と古能代に詫た。

「いえ」

とだけ古能代は答えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。