第1話 蝦夷 ⅰ
将門の乱の後、古能代が陸奥に行きたいと願い出たことは、秀郷に取っても都合が良かった。
古能代は、春を待って秀郷から貰った木簡(文字を記した木の札)を懐にして、馬で北へ向かった。衣装は当初、郎等の衣装を身に着けていた。道々出会うであろう役人達に、余計な不審感を抱かせない為だ。
多賀城(現・宮城県多賀城市)近くの名取まで来た時、役人に呼び止められた。秀郷から貰った木簡を持っているので、古能代は慌てもせず、それを役人に見せた。それで事無く通れると思っていたのだが、そうは行かなかった。
木簡には『この者我が郎等に付き、宿食の手配、遺漏無きようされたし鎮守府将軍藤原秀郷』と書いてある。
役人としても『ご苦労で御座る。お通りなされ』とだけ告げて、後は知らん顔という訳には行かない。すぐに、多賀城まで人を走らせ宿の手配をさせる一方、自分が案内すると言い出した。
「勝手に行くので、構わんで貰いたい」
と言っても聞いてはくれない。
役人にしてみれば、こんな木簡を携えているからには、秀郷から命を受けて視察に来たに違いないと思ってしまった。
お世辞を使って対応し、案内してくれるのはまだ良いのだが、目的を探ろうとしてあれこれと質問して来るのが、古能代に取っては煩わしいこと、この上無い。
「急ぎの用事が有るので、今宵は多賀城には泊まれない。手間を掛けてしまって済まなかったが、これで失礼する」
と言い残し、馬の腹を蹴って駆け出し、逃げてしまった。役人はただあ然とするのみ。不審者では無いので追跡する訳にも行かない。
木簡を見せれば不審がられる心配は無いとだけ思っていたのだが、別の意味で飛んでもなく面倒なことになる事が分かって、それ以後、古能代は二度と秀郷の木簡を役人に見せたりはしなかった。別に持っていた蝦夷の衣装に着替え、山中を進んだ。しかし、そこで見た光景は古能代の思っていたものとは全く違っていた。大和の者達と変わらぬ服装をした蝦夷の土豪の郎等達が、大和の役人のように振舞っているのだ。
下野の山中に隠れ棲む自分達とは余りに違う蝦夷の生活が、そこには有った。それは、大和朝廷の対蝦夷政策の行き詰まりが招いた結果である。
蝦夷との大規模な戦闘が阿弖流為の投降によりほぼ終息した後、大和朝廷が最も恐れたのは、その戦闘能力の高さである。
また、投降した者達は大和に従っていたものの、未だに降伏していない蝦夷と通じる可能性も有った。大規模な反乱を恐れた太政官は、まず、俘囚達の力を削ぐことに腐心し、結果、少人数に分けて各地に移配して管理する事にした。
弘仁四年(八百十三年)には諸国の国司に「俘囚専当」を兼任させて俘囚の監督と教化・保護養育に当たらせ、その翌年には蝦夷の王民化の方針を打ち出した勅令が出されている。
最初に俘囚専当の役を与えられた国司の一人が、秀郷の曽祖父・藤原藤成である。
また、大和朝廷は弱体化した防人や軍団に代わって蝦夷を用いる構想などを打ち出した。しかし実際には、俘囚即ち囚われの身の夷俘達は移配先に馴染めずに、度々地域との衝突や反乱を起こした。
弘仁二年(八百十一年)に陸奥国より、俘囚を現地にとどめて支配を行う旨の奏請が行われて受理される。以後、大規模な移配は行われなくなり、代わって既に移配された俘囚・夷俘を更に小規模単位に分割して二次移配する事例が増加する。それでも上手く行かなかった。大和朝廷は蝦夷管理政策に完全に行き詰まってしまう。
やがて、寛平九年(八百九十七年)には移配した蝦夷を奥羽へ送還する政策が打ち出される事になる。
これにより全国へ移配されていた蝦夷の殆どは奥羽へ還住することとなった。そして、蝦夷の王民化に失敗した大和政府は、結局、陸奥に帰した蝦夷を自ら支配する事を諦め、蝦夷の族長達に任せると言う方法を選択したのだ。
一定の条件の下で自治を認めると言う政策である。そしてここに、大和に降伏し『俘囚』と呼ばれながらも、反乱を起こさず、決められた税を納め、臣従する姿勢を示す限りに於いて、大幅に蝦夷の自治が認められる事になった。後の奥州藤原氏、つまり、半独立勢力である蝦夷王国(=実質的な日高見国)に至る萌芽が既に芽生えていたのだ。
古能代が訪れたのは、そんな情勢の中にある陸奥に於ける蝦夷の自治区とも言える地域であった。
『阿弖流為の想いは叶えられつつあるではないか!』古能代は歓喜した。
「おい、そこの者。見慣れぬ奴だが、どこの者だ!」
そう声を掛けて来たのは、郎等風の男達だった。
『ふん。まるで大和の役人のように横柄な奴等だな』古能代はそう思った。
「下野から来た」
と答える。
「何? 下野からだと? 大和の者では無いようだが、何やら怪しい奴だな。どこへ行く?」
馬を寄せて来て、胡散臭そうに尋ねる。
「胆沢だ」
と答えるが、
「何の用で?」
と、更に追求して来た。
「祖先の地を訪ねてみようと思っている」
と古能代は短く答える。
「祖先の地? 汝は誰だ?」
と尚も問い詰めて来た。
「杜木濡の血を引く者だ」
と答える古能代に不審の目を向け、取り囲むように他の者達も馬を寄せて来た。
「杜木濡? 知っているか?」
と周りの者に聞く。聞かれた男は、
「いや、知らぬ」
と答える。
「阿弖流為の女婿だ」
分からせる為仕方無く、古能代は阿弖流為の名を出した。
「阿弖流為!」
と男が強く反応する。時代を経ても、尚その名はカリスマとしての輝きを残しているのだ。驚いた様子で、男達は互いに顔を見合わせた。一人が思い出した。
「聞いたことが有るぞ、勇者・阿弖流為が大和に降る前に、蝦夷の血を残す為に、娘とその婿の一族を逃れさせたという話を。女婿、その男の名が…… そうだ、確か『杜木濡』だ」
そう叫んだ。
「…… ということは、勇者・阿弖流為の血も引いているということか?」
古能代を追求していた男が確認する。
「そういうことになる」
古能代は面倒そうに答えた。
「嘘ではあるまいな」
男は執拗に念を押して来る。
「杜木濡は下野まで逃れ、山中に郷を作り、一族はそこに何代も隠れ住んでいた。郷長は代々祖真紀を名乗り、四代目・祖真紀が我が父だ。吾の名は古能代。嘘など付いてはおらん」
埒が明かないと思ってか、古能代は仕方無くそこまで一気に説明した。
「ま、待たれよ」
急に、男が態度を変えた。
「おい、誰かお舘に走れ。急いで仔細を申し上げてご指示を仰げ!」
その言葉を受けて、一人が馬に飛び乗り、走り去って行った。
それが、古能代が陸奥で七年の歳月を過ごすことになる始まりであった。そこで古能代が見たものは、父・祖真紀や祖父の考えよりも先を行く蝦夷の姿である。下野の郷よりも遥かに大和化し、且つ、大幅に自治権を与えられた蝦夷社会がそこにあった。もちろんそれは、大和朝廷の蝦夷政策の失敗に因って齎されたものである。
造語だが『夷を以て夷を制す』が、『夷を以て夷を政す』に拡大したものと言える。(正確には『夷を以て夷を治す』と言うべきだろうが、語呂合わせだ)
だが、その実態は、内政に於いて、面倒なことを放棄し徴税権を受領(国司四等官(守、介、掾、目)のうち、現地に赴任して行政責任を負う者の筆頭者。主に"守")に丸投げしたように、面倒な蝦夷政策を放棄し、蝦夷社会の管理を蝦夷の族長に丸投げしてしまったという大和政権の無策に他ならない。
それが、やがて出羽の清原氏、陸奥の安倍氏と言った俘囚長、即ち蝦夷の大豪族の台頭を招き、朝廷に取っては目の上のたん瘤であり、蝦夷に取っては最後の輝きとなる、半独立政権である奥州藤原氏繁栄の百年へと繋がって行くのだ。
源平の歴史を語る時、多くは『前九年の役』の描写から始まり、突如、俘囚の大豪族・安倍氏との争いが描かれるが、何故、俘囚の大豪族が存在したのかの説明は殆ど無い。
鎌倉幕府の成立を以って、公家達が支配する社会から武士が実権を掌握する武家社会に移行した。その過程に於いて、奥州藤原氏の滅亡までに蝦夷社会が果たした役割を過小評価している。源平の争いのみを以て時代の変遷を説明し、マイノリティーであった蝦夷が果たした役割を無視しているのだ。奥州藤原氏の滅亡によって、蝦夷は|大和人として日本社会に吸収されて行き、アイヌを除く蝦夷が日本史の中で語られる事は無くなった。しかし、江戸時代となっても、奥州諸藩の記録の中に被差別民の存在は記録されている。
古能代が訪れた頃、恰も太平洋戦争に敗れた日本がアメリカの管理下に在りながら立ち上がり、復興から繁栄に向かって行った時代のように、大和の統治下で自治を許された蝦夷社会は、混沌の中に生命力を宿した社会だったのだ。
将門の乱の後、古能代は再び陸奥に行く許しを千常に求めていたが、千常の許しはなかなか届かなかった。




