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坂東の風  作者: 青木 航
第一章 幼年編 壱 隠れ郷(下野)

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第9話 禍福 ⅰ

 年の瀬が近付いていた。

 千方にしてみれば、いきなりこんな山郷《やまざと》に取り残されて心易い者とて居ない。のんびりと育っていた身が、筋肉痛に悩まされながら弓や馬馳せや太刀打ちの毎日。不安も大きく、気が滅入ることも多くあった。だが、千方は持ち前の適応力でそれを乗り切った。

 朝鳥との多少の心の葛藤は有ったにしても、郷人《さとびと》達にも好意的に受け入れられ、まずは平穏な毎日ではあったと言えよう。

 半年を過ぎる頃には、古能代《このしろ》や朝鳥と稽古するよりも童《わらべ》達と過ごすことが多くなっていた。狩や川遊びもしたが、太刀打ちの稽古も童達とすることがあった。

 千方自身驚いたことであったが、敵《かな》わないと思っていた夜叉丸《やしゃまる》や秋天丸《しゅてんまる》とも、いつの間にか互角に戦えるようになっていたのだ。最初は遠慮しているのかと思ったが、千方が勝った時、負けず嫌いの秋天丸が悔しがる様《さま》を見ているとまんざらそうでもないらしい。夜叉丸の鋭い打ち込みも十分に受け止められる筋肉が千方には付いていた。

 馬馳せと弓についてはそう一朝一夕に皆に追い付くことは出来なかったが、随分と腕は上げていた。何度目かの狩に行った時のこと、見る限り絶壁としか思えない所を乗馬のまま下ると言う。もちろん、実際には絶壁と言うほどでは無い。上から見ると斜面は実際よりかなり急に見える。その為、下を見た千方の心に恐怖心が生まれた。それを敏感に感じたのか、馬も落ち着きが無い。

『無理だと言ったら皆はどう思うだろうか?』そんなことを思っていると、

「馬に任せて下さい。馬はこのくらいの所は何度も下っています。馬とて転げ落ちたくは無いからちゃんと下ります。無理に操ろうとすると馬が怯《おび》えてとんだことになります。馬を信じて気持ちを楽に持って下さい。後は、前に転げ落ちぬよう背を思い切り反らしていれば良いのです」

 秋天丸が、そう言ってくれた。

「そうか。分かった」

 恐怖心が消えた訳ではないが、みっともない姿を晒す訳には行かない。言われた通りにして、それで落ちたらそれはその時のことだ。そう腹を決めて大きくひと呼吸すると、千方は、馬を落ち着かせる為に首の辺りを何度か軽く叩いてやり、

「頼むぞ。この命汝(なれ)に預けた」

と言った。

 夜叉丸が先頭を切って下り、他の童達が下って千方と秋天丸が残った。

「さ、行かれませ。吾が見届けます」

 秋天丸が笑顔で言った。

「うん。着いて参れ。秋天丸、遅れるでないぞ」 

 秋天丸は吹き出すのを堪《こら》えて、吐いた息で「ははっ!」と答えた。そんな冗談が通じるほど童達とは馴染《なじ》んでいたし、何と無く主従の雰囲気が出来上がりつつあった。

 芹菜《せりな》のことも含めて全てが上手く行っていた。

『三年の間、千寿丸をこの郷に預ける』と言う千常の言葉を聞いた時の衝撃など今はすっかり忘れて、千方はこの郷での毎日を楽しんでいた。辛いことと言えば、冬となると、武蔵より冷たいこの郷の風くらいのもので、他に憂《うれ》いることなど何も無かった。鍛練のきつさは、すでに千方の中で快感に変わっていた。  

 だが、ひとの人生に於いて良いことばかりが続くことは無い。順調に行っていると思っている時に限り思わぬ災難が突然降り掛かって来たりするものだ。それが大きいことか小さいことかを問わなければ、むしろ、災難は必ずやって来る。


 千方は時折ひとりで郷中《さとなか》を気儘に歩くことがあった。山や藪《やぶ》に分け入る時、草や小枝を払うのに必要だから蕨手刀《わらびてとう》を一本腰にぶら提《さ》げている。だが、身を守る為にという意識は全く無かった。この郷の中で、千方に危害を加えようと思う者など居る筈も無かったし、外部から誰かが入り込んで来る心配は無い。危険と言えば崖から落ちたり山で迷ったりする地形的なものか、猪や熊に襲われることくらいだろう。それらに付いては、千方も十分に注意し、決して無茶な行動は取らなかった。勝手知ったる範囲を、気儘に歩き廻るだけである。

 或る日、山中の小路をぶらぶらと歩いている千方の前にひとりの童が立ち塞がった。いや、童と言うよりもはや大人と言っても良いかも知れない。千方達とて、もう元服しても良い歳頃である。やはり、童と言う表現は当たらないかも知れない。

 その千方よりひとつかふたつ年上と見える男には、七か月程前、千方がこの郷に来た時一度会っている。その時でさえ、旋風丸《つむじまる》はひとり飛び抜けて大人びて見えた。その後、童達と過ごすことが多くなってからも、旋風丸《つむじまる》の姿をその中に見ることは無かった。もはや童達と遊び廻る歳では無いのかも知れないと思っていた。

 急に現れた旋風丸に、一瞬千方は驚いたが、すぐに笑顔を作った。しかし、旋風丸は無表情のまま千方の前に立ち塞がっている。

「一瞥《いちべつ》以来じゃのう。何をしておるのか?」

 千方の問いに旋風丸は鼻で笑った。

「汝《なれ》を待っていたのよ」

と無表情で答える。千方の顔からも笑顔が消えた。

「用が有るのか?」

と尋ねる。

「有るとも。汝《なれ》がこの郷に来てより、ずっとこの機会を待っていた。殺す為にな」

 瞬間、千方は身構えた。ふざけているのか、本気で言っているのか、それを判断しようと千方は目まぐるしく頭を回転させていた。

「何と申した?」

と咎めるように言った。

「ふっ」と笑うと、旋風丸《つむじまる》は蕨手刀《わらびてとう》を無言で抜き放った。

「待て! 訳を言え。麿に何か恨みが有るのか? 申せ!」

と詰める。

「汝《なれ》などに恨みは無い。悔しいが秀郷《ひでさと》や千常には近寄ることも出来ん。身代わりになれ!」

「どういうことだ。父上や兄上に恨みが有ると申すのか?」

「一番殺したいのは祖真紀《そまき》だ。だが、それも、今の吾ではどうにもならん。 …… 吾の父《てて》はな、秀郷に尻尾を振った祖真紀に殺されたのじゃ。日高見民《ひたかみのたみ》の誇りを失うなと言う先祖の言葉を忘れ、秀郷の飼い犬に成り下がった祖真紀を、吾は絶対に許さん。父《てて》を殺した祖真紀を許さん! 秀郷や千常や祖真紀に手を出すことは出来んが、汝《なれ》を殺すことは出来る。汝《なれ》を殺せば祖真紀も只では済まんだろう。それが、吾に出来る精一杯のことだ!」

 言い終わるや否や、旋風丸《つむじまる》は凄まじい勢いで千方に斬り掛かって来た。咄嗟《とっさ》に身を躱《かわ》した千方も蕨手刀《わらびてとう》を抜いて構えた。千方に躱《かわ》された旋風丸は一瞬身を泳がせたが、すぐに体勢を立て直して、また斬り掛かって来た。ものを考えている暇など無かった。日頃鍛錬した身体が自然に動いていた。

 二太刀目を払って、そのまま旋風丸の懐《ふところ》へ飛び込んだのは覚えている。気が着くと、腹を斬り裂かれた旋風丸が足許《あしもと》に倒れていた。血に染まった旋風丸の腹の傷口からは、内臓が僅かに飛び出している。千方の頭の中は真っ白になっていた。旋風丸が現れてからあっと言う間に起こったことが、幻覚なのか現実なのかも判断が付かない。


 茫然としていた時間がどのくらいだったのか千方には分からない。やがて風の冷たさに、はっとして我に返った時、蕨手刀《わらびてとう》が自然に手から離れ地に落ちた。夢中で反応しただけで、殺そうと思って斬り掛かった訳では無い為か、手指の硬直は起こっていなかったのだ。その代わり、体中が小刻みに震え始めた。それが、恐怖心に寄るものなのか寒さに寄るものなのかも分からない。はっとした千方はしゃがみ込んだが、目に飛び込んで来た旋風丸《つむじまる》の腹の傷口と飛び出している内臓から目を背け、旋風丸の顔を覗き込むようにして、

「しっかりしろ!」

と叫んだ。旋風丸は呻《うめ》いているだけで言葉にはならない。周りを見回したが、元より誰も居ない。

 千方は混乱していた。無理も無い。あとひと月足らずで十五に成るとは言え、まだ子供だ。古能代でさえ十七に成ってから始めて経験したことである。まして、古能代の場合、相手は山賊であったが、襲われたとは言え、千方が斬ったのは、顔見知りのこの郷の者だ。今どうするべきかも分からない。大量の血と傷口からはみ出した内臓が目に焼き付いて離れない。千方は激しく嘔吐した。旋風丸の呻《うめ》き声が耳に付いて離れない。這うようにして、襲われた杣道《そまみち》から下の道に下りた。

「誰か居《お》らぬか! 誰か居《お》らぬか!」

 千方は声を限りに叫んだ。畑から五人ほどの男女が飛び出して来た。

「あんれ、六郎様、どうかなせえましたか?」 

 三十代と見える男が聞いた。

「古能代を呼んでくれ、頼む」

と繰り返した。

「お召物に血が付いているではねえですか。何がお有りになった?」

「襲われて人を斬った」

「えっ! 襲われなさったと? 一体、誰に?」

 男は、千方が人を斬ったと言うことよりも、襲われたということに強く反応した。まだ激しく呼吸しながら、千方は杣道《そまみち》の奥の方を指差した。女二人が千方の側に残り、男達三人は杣道を駆け上がって行った。そして少しの後、若い男がひとり駆け下りて来て、そのまま走り去った。

 千方の側に残っている二人の女はいずれも四十代だ。

「六郎様を襲ったのは、いってえ誰でごぜえますか?」

 ひとりが聞いた。

「旋風丸《つむじまる》……」

「旋風丸…… ? ああ、左様でごぜえますか……」

 驚くでも無く、二人の女は互いに顔を見合わせて、無言で一度頷き合った。 

「旋風丸の父が祖真紀に殺されたと言うのは本当か?」

 呼吸の落ち着いて来た千方が尋ねた。

「仕方ねえです。郷長《さとおさ》を殺そうとしたのですから……」

「何ゆえ、殺そうとした?」

と千方が尋ねると、女達は千方から視線を逸した。

「それは…… それは郷長に聞いてくだせい」

 それっきり女達は無口になり、何かぎくしゃくとした雰囲気が漂った。


 やがて、馬を飛ばして古能代がやって来た。報せに行った若い男も乗馬で着いて来ていた。馬を降りると古能代は千方に近付き、

「ここでお待ちなされ」

と言った。特に慌てた様子も無く、普段のままの古能代である。

「いや、麿も行く」

 立ち上がって千方が言う。

「では」

 若い男が先に立ち、古能代、千方が続いた。現場に戻って見ると、男ふたりは側に立っていたが、新たに旋風丸《つむじまる》の左胸が血に染まっており、既に事切《ことき》れていた。

「どのみち助からぬと思い、止《とど》めを刺しました」

と古能代に報告する。

「うん」

とだけ古能代は答えた。

 確かに助からなかっただろうとは思ったが、旋風丸が死んだという事実に、千方は新たに衝撃を受けていた。

 三人の男達に後の始末を任せると、若い男が乗って来た馬に千方を乗せ、古能代は千方を舘まで送り届けた。


「お帰りなさいませ」

 入口に出て来た朝鳥が、古能代が後ろに居るのに気付いた。

「おお、古能代。六郎様とご一緒であったか」

「ちと、事が起こりました」

 朝鳥の目を見て、古能代が告げる。

「事が起きた? 何が起きたのじゃ?」

「旋風丸と言う者が六郎様を襲いました」

 朝鳥の顔色が変わった。

「何ぃ!」

 と言って、朝鳥が千方の側に走り寄る。

「六郎様、お怪我《けが》は?」

と聞いた後、衣服に着いた血に気が付く。

「この血は?」

と千方に尋ねた。

「返り血だ。怪我《けが》はしておらん」

 千方は短く答える。

「それは何より。お怪我が無《の》うて良う御座いました」

 朝鳥は古能代の方を振り返って厳しい視線を向けた。

「古能代。この郷の中で六郎様が襲われるとは、どうしたことじゃ! 説明せよ!」

と鋭く問い詰める。

「我が父・祖真紀への恨みを、六郎様を殺すことによって晴らそうとしたものと思われます」 

 言い難《にく》い筈のことを、古能代は手短に無表情で告げる。

「祖真紀への恨み? 益々怪《け》しからんではないか! どう言う事じゃ、説明せよ」

 朝鳥は、今にも古能代の胸ぐらを掴もうとするかのように殺気立っている。

「申し訳御座いません」

 古能代は深く頭を下げた。

「祖真紀を呼べ。その方が詫びただけで済ませられる問題では無い」

 朝鳥がそう言っているところへ祖真紀が走り込んで来た。そして、そのまま千方の前に土下座し、

「六郎様申し訳御座いません」

と言って額《ひたい》を地に付けた。

 その様子をチラッと見ただけで、古能代は表情を変えなかった。

「麿に怪我は無かった。それより、郷人《さとびと》のひとりを殺してしまった」

 千方が祖真紀に告げる。

「何の、六郎様にお怪我《けが》が無かったことが何より、せめてもの救いで御座います。全て手前の落ち度に御座います」

ともう一度頭を下げる。

「そなたへの恨みとはどういうことじゃ」 

 朝鳥が詰問する。

「はい。お話し申し上げます……」

 面《おもて》を上げた祖真紀が話し始めようとした。

「待て、ここではなんだ。上がって奥で聞こう」

 そう言って朝鳥は先に立ち館の奥に皆を誘《いざな》った。

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