第7話 芹菜と露女 ⅲ
その後も千方は芹菜との逢瀬を重ねていた。
芹菜は変わったかと言うとそうでもない。相変わらず男言葉を使い、相手が誰であろうと言いたいことを言っている。そして良く働く。だが、強いて言えば、ぎすぎすした雰囲気が取れて、人柄に丸みが出て来たと感じる者は多くなって来ていた。
芹菜と千方は、誰も知らぬことだと思っていたが、そう思っているのは当人達だけで、実は郷中の者が知るところとなっていたのだ。
『もう誰もおらん』と言った芹菜の見方は間違ってはいなかったが、前後の状況を聞けば、誰もが推測が出来ることであったのだ。だが、それを悪く取る者は無く、芹菜を揶揄う者すら居なかった。誰がと言うことでは無く、この郷の娘の誰かが、千方の種を宿すこと、と言うよりも秀郷の血を引く子を生むことはこの郷に取って願ってもないことだったからである。もし、その子が生まれれば郷全体で守り育てることになるだろう。郷人の誰もがそれを歓迎している。それは、この郷の将来と安全の保障に大きく関わって来ると思われるからである。蝦夷とは、それほど不安定な環境に置かれた人々とも言えるが、実は、大和人とて、力有る者に頼らなければならないという点に於いては大差無い状況にあった。
現に千方の母の実家である草原氏もそんな不安定な環境の中に在った。
元々草原の郷の辺りは、古代より土師氏の支配する地域であった。土師氏はその名が示す如く、土師器と呼ばれる弥生式土器の生産を生業とした氏族である。草原の辺りにも幾つもの窯を持ち勢力を誇っていたが、次第に品質的に上の須恵器に取って代わられ、勢力を失って行った。
そんな頃、土師氏の南に居た私市氏が勢力を伸ばし始めた。
私市とは元々皇后の生活費を賄う為の部曲である。敏達天皇の頃、豊御食炊屋姫が皇后になってから、皇后領として皇后の為の部曲として私部が設けられた。大和と結ばれる磐船街道筋に有り、現在の大阪府・交野市の辺りである。
この私市部から出た日下部黒山が、坂東に下り、この地(現・埼玉県大里郡)付近を私市と名付けた。私市氏は鷲宮神社(現・久喜市鷲宮)を氏神とし大田郷に勢力を扶植して行った。
私市氏は埼玉郡・草原(現・埼玉県加須市中央)の辺りに文字通り草刈り場を確保するようになるが、六代目・則家の弟・忠家が私市氏から別れ草原氏を名乗り、この地に定住した。
草原氏は次第に土師氏を東に追いやり、この地を治めるようになった。従って、草原氏は後の私市党の一角を成す氏族ではあるが、千方の祖父・久稔の代には本家・私市氏との縁も薄れ周りの氏族の圧迫を受ける立場にあった。
埼玉郡の南から西は、国造の系譜を引く郡司・武蔵武芝が治める足立郡であり、安定した力を持っていた。埼玉郡の中にも、武蔵武芝の一族が笠原(現・鴻巣市笠原)に根を張っており、他にも、村岡五郎こと平良文、源宛など強力な土豪がひしめいている。久稔は、強かな交渉術に寄って外圧を躱して来た男だ。だが、歳を重ねると共にその気力にも翳りが見え始め、疲れを感じるようになっていた。頼みとする長男・豊地は逞しく偉丈夫に育ち、温厚な人柄で郷人の評判も良い。だが、久稔から見れば、気が優しくてひとが良く、とても海千山千の土豪達と渡り合って行けるような男には思えない。そして、次男の豊水は、それに加えて考えが浅いと来ている。
唯一性格的に強く、ものを見る目を持っているのが長女の露女である。この娘が男であったならどんなに良かったかというのが、久稔の嘆きであった。
久稔は私市氏に勝る強力な後ろ盾を欲していた。そんな折、承平五年(九百三十五年)二月、伝手を頼って、秀郷から、近々武蔵に行き物見遊山をしたいので一夜の宿を貸して欲しいという依頼が舞い込んで来た。藤原秀郷と言えば、武蔵にも聞こえた『下野の暴れん坊』である。会ったことは無いし、久稔から見れば、祖母が秀郷の祖母と従兄弟同士と言うだけの、誠に薄い縁である。秀郷に一夜の宿を貸すことで、国府から咎めを受ける可能性が有る。ここは尤もらしい口実を考えて穏便に断るのが利口だろうと思った。君子危うきに近寄らずと言ったところか。
だが、久稔はふと考えた。常陸国、上総国がこのところ騒がしくなって来ている。何でも、平良文の兄弟達が甥の平将門と言う者と争っていると言うのだ。そしてその争いは拡大しつつあるという。兄弟に着くか甥に着くかは分からぬが、村岡五郎と呼ばれている良文ほどの剛の者が、身内の争いをいつまで傍観している筈が無いのだ。いずれ参戦するに違いない。となれば、村岡(現・熊谷市)から常陸や下総に行くには、この草原を通って行くことになる。逆に誰かが良文を攻めようとすれば、やはり、この草原を通る。迎え撃つ良文とこの辺りで出会えば、草原は戦場となり、田も畑も踏み荒らされてしまうことになる。本家の私市氏にも、間に入って双方を退かせるほどの力は無いし、草原の為に村岡五郎と渡り合う気も無いだろう。まして国府などは全く当てに出来ない。
だが、追討の官符を以てさえ下野の国府が縛に着かせることが出来なかった秀郷が後ろに控えていたとしたら、さすがの良文も簡単に兵を入れることは出来なくなるだろう。もし、それほどの強力な関係を秀郷との間に築くことが出来ればの話だが……と考える。安全策を取るか、それとも予想される危機に備えるべきか久稔は悩んだ。そして、結果の重大さを比較して秀郷に一夜の宿を供することにした。
だが、宿を貸したくらいで強力な関係が築ける訳も無い。危険を冒す以上、最大限の効果を得られるようにしなければならない。
『さてどうしたものか』と久稔は考えた。
秀郷への手土産や馳走は、もちろん精一杯の物を用意しなければならないだろう。こつこつと地道に蓄えて来た財の多くを吐き出さなければならないのは仕方ないところだ。だが、それだけでは弱い。やはり伽の娘を用意しなければならないだろう。その娘が運良く秀郷の子でも宿せば強い絆を得ることが出来る。
「ふ~ん誰にしようか」と考える。
露女を始めとする三人の娘達は、残念ながら器量好しとは言えない。やはり、郷一番の器量好しと言えば、郎等のひとり高津四郎義重の長女・千早だろう。小柄で下膨れのぽっちゃりした頬を持つ娘だ。性格もおっとりしていて、色は白く豊かな髪を持つ。それなりの衣装を着せて、どこそこの姫君と言っても、素性を知らぬ者は誰ひとり疑わないだろう。
『うん。あの娘なら秀郷も食指を動かすに違いない』
久稔はひとりほくそえんだ。
「四郎、水深の辺りの新田の開発は上手く行っておるか?」
四郎義重を呼び、久稔が尋ねた。
「はい、思いの外、捗っております。水抜きも上手く行き、泥沼が恵みを齎す田へと姿を変えて行きましょう。来春には植え付けも出来るようになるかと」
やや抒情的な心の持ち主であるこの三十代半ばの意気盛んな男は、自信を持って答える。
「うん。汝に任せたのは間違いではなかったの。手腕見事じゃ。いずれ、その労に報いなければならんと思うておる。考えて置く」
満足げな表情を浮かべて頷く。
「そんなご心配は御無用に願います。当然のことをしているだけですから」
義重は恐縮して遠慮する。
「まあ、任せて置け。悪いようにはせん。 …… ところで、子は娘ばかり三人であったのう。皆元気か?」
久稔は話の核心に迫ろうと義重を見る。
「はい、お陰様で病ひとつ知りません」
「それは何より。見目麗しき娘とはとかく体の弱いものじゃが、麗しい上に体も強いとあらば、良き婿を得て家を栄えさせよう」
「いえいえ、『麗しい』など、飛んでも無いこと。いずれも芋ばかりで御座います」
「何を申す、若い者達の間では大変な評判だ。若い者達のうち誰ひとりとして、そのほうの娘達のうちの誰かを狙っておらぬ者は無いほどだと言うぞ」
謙遜しているが、義重自身も娘達の評判は知っているから悪い気はしていない。
「そんなにお褒めに預かっては、却って恐ろしゅう御座います」
「四郎」
真顔に戻って久稔が言った。
「千早は幾つになる?」
照れ笑いをしていた義重も真顔に戻って「今年で十六になります」と答える。
「麿の養女にくれぬか?」
久稔は行き成りずばりと切り込んだ。義重には、瞬時にその意味が分かった。娘が三人も居る久稔が養女にくれと言うのは、自分の養女として誰か有力な相手に差し出す為だ。それが、本当に有力な相手であれば義重とて依存は無い。惚けて否定してはいるが、千早が恐らくこの郷一番の器量好しで有ることは親の欲目ばかりでは無いと思っている。その辺の男にやるよりは、それなりの身分の相手と娶せてやりたいと思っているのだ。そうなれば、娘ばかりでは無く己の将来も開ける。
「あのような不束な娘を養女にして頂けるなら、千早に取っても存外の仕合わせで御座いましょう。吾に何の異存が御座いましょうか」
「そうか、承知してくれるか。となれば、あのような器量好し、それなりの相手も考えねばなるまいな。…… だが、正妻という訳にも行かぬかも知れぬ」
『正妻と言う訳にも行かぬということは、相当な身分の相手か?』と義重は思う。
「どなたかお心当たりでも……」
探るように義重が尋ねる。
「うん? 改めて話をしている訳では無いが、心当たりと言えば無いでは無い。…… ある国の掾をしておられる。我が家の遠縁に当たる方じゃ。なに、千早をお引き合わせすれば、気に入らぬ筈は無い」
「掾で御座いますか?」
と念を押す。掾と言えば守、介に次いで三番目の地位にある地方官である。郷長の郎等に過ぎぬ義重から見れば望むべくも無い地位である。おまけに、義重は勝手に若い男と思っているから、若くして掾と言うことは、将来は国守にも成る可能性のある相手と思った。
「そのような方でしたら、我が娘風情が正妻など望んだら罰が当たりましょう」
『さて、これからが正念場だな』と久稔は思った。
秀郷とて朴念仁でも無ければ、千早を気に入らない訳は無い。時々通って来てくれるようになれば、それで良い。年寄が若い娘に入れ上げれば或いは期待以上のことになるかも知れない。後は、この義重をどう説き伏せるかだ……。
「近々その方がこの郷を訪い、我が家に逗留されることになっておる」
と告げる。
『伽か』と察し、義重は落胆した。
伽と言うと、現代の感覚からすれば、身分の高い客に娘を一夜妻として差し出す屈辱的な風習と映るだろう。だが、当時の感覚としてはそうでは無い。前にも述べたが、この時代の性に対する感覚は驚くほど大らかで、まだ儒教的な倫理の束縛は受けていない。伽は料理と同じく馳走すなわち持成しのひとつなのだ。娘どころか妻さえ差し出す者も少なく無い。
男達の思惑に寄ってなされる女性の人権を無視した行為であることは間違い無いが、女達が皆泣く泣く従っていたのかと言うとそうでも無いようだ。戦国時代や江戸時代に比べれば、遥かに自由な心を持っていたのではないだろうか。性を神聖視する意識が薄かったと思われる。
「一体、どなた様で御座いましょう?」
と義重が不安そうに尋ねる。
「下野少掾・藤原秀郷様じゃ……」
久稔は、わざとさらりと言った。そして、相手の反応を待った。
義重は絶句した。『藤原秀郷と言えば、下野の国府から追討の官符が出されている男ではないか。それが取り消されたという噂も聞いていない。しかも、既に五十を越えている筈だ。そんな男に何で娘を供さなければならないのか!』と思う。
「嫌か?」
頃合いを見て、久稔が詰める。
「いえ、決して嫌という訳では御座いませぬが……」
義重は答に窮した。
「何か懸念でも有るか?」
どう答えたら良いか迷っている義重に久稔が詰め寄る。
「…… こんな所まで出て来て、秀郷様の御身は安全なのでしょうか?」
と問う。
「ふふ、ははははっ。そのようなこと案じておるのか?」
久稔は、事も無げに笑った。しかし、実は久稔自身その懸念を拭えてはいないのだ。
秀郷がこの舘で襲われる可能性は有る。もし、そうなれば、それは草原に取っても己に取っても最悪な結果を齎すことになる。
『だが……』と久稔は思う。『秀郷はそんな間抜けな男ではない筈だ』そう思うしかない。
「下野の国府が、指一本触れられなかった男だぞ。案ずることは無い」
冷静を装って義重に告げる。
「はあ……」
と言うが、義重、納得はしていない。それに、秀郷の歳のことも有る。しかしそれは表立って言えることでは無い。
「暫く刻を頂けませんでしょうか?」
「うん、うん。それは良いが、そう何日もという訳には行かぬぞ、そう先のことでは無いでのう。それに、秀郷様が見えることは他言無用じゃぞ。良いな」
「はい。それは心得ております」
決め手が必要だと久稔は思った。今開発している水深の田をそっくりくれてやっても良い。しかし、今それを言うのは無理強いと取られて逆効果になる可能性がある。『少し考えさせるか……』そう思っている時、
「父上」
と突然、露女が入って来た。そして、「そのお役目、麿に譲っては頂けませぬか?」と言った。
久稔は慌てた。
「立ち聞きをしておったのか! 何という不作法な娘だ。そのような育て方をした覚えはないぞ。恥を知れ!」
と叱る。聞かれたく無い事を聞かれたと言う動揺が現れている。
「不作法はお詫び致します。酒でもと思いお持ちしたところ、聞こえてしまったのです」
そう言って露女は跪き、酒を入れた壺とカワラケを乗せた膳を脇に置き、両の手の指を揃えて突き、頭を下げた。
「そなたの関わることでは無い。下がっておれ」
「父上には娘が三人もおります。何ゆえ養女を取る必要が御座いましょう」
久稔の動揺を余所に、毅然とした表情で露女が尋ねる。
「う?」
まさか『そのほうらでは男の気は惹けぬ』とは言えない。
「宴の席には千早を侍らせてください。麿は顔を出しませぬ。その際、伽のことは匂わせて頂きますが、決して千早を伺わせるとは仰らないでください。寝間には麿が参ります。灯りひとつの暗がりでは分かりますまい。麿も厚塗りをして、目は半分ほどしか明けぬように致しましょう」
『何を言っているのか』と思う一方で、『自分のことが分っておる』と妙なところで感心してしまったが、
「何を戯けたことを申しておる。そのようなことを致さば、秀郷様を怒らせるだけだ。聞く耳持たぬ、下がれ!」
と怒鳴り付ける。
「ですから、千早を伺わせるとは仰らないでください。後の事はどうぞお任せ下さい」
露女は一歩も引かない。義重はと見ると、何か気まずそうにしている。気付いた久稔は、
「話は又に致そう」
と義重を下がらせる。
「はっ、では手前はこれで」
義重が下がると久稔は、不機嫌そうな、困ったような複雑な表情を見せて天井を見上げた。別に意味は無い。露女と視線を合わせたく無かったのだ。
「父上、麿が千早のように見目麗しくは無いゆえ、ご案じなされているのですか?」
本音を突かれて久稔は、益々慌てる。
「いや、そんなことは思っておらん…… 何を言うておるのか」
「秀郷様は、何ゆえ武蔵にお出でになるのでしょう?」
「物見遊山とのことじゃ」
「府中ならともかく、こんな、萱と沼と田の他に何もないところに物見遊山とは変わったお方で御座いますね。しかも、危険を冒してまで」
もちろん、久稔も物見遊山など真に受けている訳ではない。だが、真意が何なのかと言うことまでは読めていない。
「何が言いたいのだ」
露女を見て言った。
「なにゆえ、僅かな縁を頼って、父上に話を持ち込んで来たのでしょうか? 秀郷様も父上と強い絆を結びたいと思っておられるのではないでしょうか? もし、そうならば、俄な養女などよりは、例え見目麗しく無くとも、父上の実の娘である麿の方がお心に沿うのではありませぬか?」
と詰め寄る。答え難い問である。理屈はそうかも知れないが、男と言うものはそういうものではないと言ってしまえば、我が娘が己を見目麗しく無いと言っているのを認めてしまうことになる。
「少し疲れた。この話はまたのことにしよう」
この場から逃れたくなって、そう言った。
「お逃げになるのですか?」
と露女が迫る。
「相手は年寄じゃ。そのように剥きになることではあるまい」
「千早なら、相手が年寄でも良いということですか?」
何気なく言った事を、露女は遠慮無く突いて来る。
「戯け! 分からぬのか。見目などでは無い。男はそのような物言いをする女子は好まぬのじゃ」
立ち上がり、露女をその場に残し、久稔は足早に寝所へと向かった。




