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坂東の風  作者: 青木 航
第一章 幼年編 壱 隠れ郷(下野)

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第7話 芹菜と露女 ⅱ

 牧《まき》から周回路まで出ると、犬丸はそのまま小路《こみち》を下りて自《みずか》らの住まいに向った。

 入口のところで少しの間、入り難《にく》そうに迷っていたが、意を決して土の階段を下りる。

「帰ったか。早かったのう」

 竈《かまど》の前で夕餉《ゆうげ》の支度《したく》をしていた母が言った。

「姉《ねえ》は?」

「うん? 水汲みに行っとる。なんか用か?」

「うん。ちょっと…… 見て来るわぁ」

「ふん。なんの用か知らんが、水運んで来てからにせいよ」

「うん。分かった」


 犬丸は住まいを出て、水汲み場の方に向って早足で歩き始めた。暫く歩いていると、向こうから水の入った革袋を二つ背負った芹菜が戻って来るのに出会った。

「姉《ねえ》」と呼びかける。

「いいところに来た。ほら、ひとつ持て」

 そう言って芹菜は、革袋のひとつを、いきなり犬丸の肩に乗せた。予想していなかった犬丸は少しよろける。

「しっかりしろ! 男《おのこ》のくせに、口ばかり達者で、からきし意気地《いくじ》が無い」

 相変わらず頭から潰しに掛かって来る。

「いきなりだったからだ。これくらい何ともあるもんか! そっちも貸せよ。吾が持って行く」

 犬丸も負けてはいない。挑むように姉に対する。

「無理するな。それひとつで良いわ。それより、なんか用か?」

 口はきついが、横暴な姉では無い。

「うん? ……」

「用が有るのではないのか?」

と重ねて聞く。

「うん。…… まあ」

 用件を聞かれると急に弱気になった。

「余計なことはへらへら喋るくせに、肝心なことははっきりせんな」

「六郎様が呼んでおる」

と思い切って口にした。

「六郎様が? …… 何で?」

 そう言われても答えられる訳もない。

「牧《まき》に行けば分かるわ!」

「はは~ん。何かまた、悪巧《わるだく》み考えとるな。秋天丸に言われて来たんか? それとも、夜叉丸か? 吾を呼び出して、蛇《かがし》でも投げ付けようという魂胆か?」

 どうせまた悪餓鬼どもの悪戯と思っている芹菜は、どう懲らしめてやろうかと考える。

「そんなんでは無い。我等いつまで童では無いわ! 本当に六郎様がお呼びなのだ」 

 芹菜はふと怪訝《けげん》な顔をする。

「六郎様が吾に何の用が有る?」

「知らんわ!」

 説明すると面倒になると思い、犬丸はそう言った。革袋ひとつを犬丸に渡して空いた右手で、いきなり、芹菜は犬丸の左耳を捻る。

「痛てててて! 何するんじゃ!」

「白状しろ。何考えてるんじゃ?」

「本当に何も知らんて。六郎様が呼んでなさるのも本当だ」

「ふ~ん。ま、良い。水を置いたら行ってみるか」

『どうも腑《ふ》に落ちないが、六郎様が呼んでいるということなら行かない訳にも行かないな』と芹菜は思った。


 その頃牧では、渋い表情の千方が童達と向き合っていた。

「吾にどうせよと言うのだ」

 成り行きで喋ってしまったことを少し後悔しながら言った。

「大和《やまと》では、女子《おなご》を口説《くど》く時、どうするんですかいな?」

 秋天丸《しゅてんまる》が聞いた。

「うん? 吾も良う知らんが、なんでも、まずは、和歌《うた》を書いた文《ふみ》を届けるらしい。それで、返事が来たら三晩続けて通うようだ」

「ウタ? なんですかなそれ?」

と秋天丸が聞く。勿論、和歌など知る筈も無い。

「どれほど汝《なれ》を想っているかということを綺麗な言葉を並べて伝えるのだ。それが上手い者が良い女子《おなご》を得られる。…… 但し、都での話じゃ。坂東の者はそんなことはせんだろう。第一、和歌《うた》を詠《よ》める者もあまりおらん。まずは、夜這《よば》いかな。時々、女子《おなご》に嫌われて大声を上げられ、ひと騒動起こす者も居るらしい」

 千方とて聞きかじりの知識でしかない。

「都とは思ったより下らん所のようですね」

 鷹丸《たかまる》がそう呟いた。貴族の恋愛観を分からせるなど所詮無理な話なのだ。

「芹菜では、大声上げられるくらいでは済まんな。きっと金的《きんてき》蹴り上げられるぞぉ」

 竹丸は、またそんなことを言い始めた。夜叉丸が睨み付ける。さっき千方に言われていなかったら、きっとまた殴り付けていたことだろう。

「それはまずいな。やはりやめよう」

 むしろ、千方は竹丸の言葉を歓迎した。

「ここで退《ひ》いては男《おのこ》ではありませぬ、六郎様」

 秋天丸《しゅてんまる》は執拗だ。

 更に「ご心配なく、我等はこれにて退散致します」と付け加える。

 秋天丸《しゅてんまる》の言葉に従い、童達は牧を出て行った。

 しかし、千方は『どうせどこぞに潜んで成り行きを見ているに違いない』と思っていた。


 やがて、犬丸に伴われて芹菜《せりな》が来た。

「吾はこれで」そう言って犬丸は去ろうとする。

「待て、汝《なれ》もここにおれ」

 千方が慌てて言った。

「すいません。吾はちょっと用がありまして……」

 犬丸は白々しく言い訳して逃げようとする。

「なんの用が有るのか? そんなに大事な用なのか?」

と千方が突く。しかし、犬丸は、

「いえ、あの、ちょっと行かねばなりません。すいません」

 そう言うと逃げるように行ってしまった。

 芹菜《せりな》は落ち着いた様子で千方を見ている。

「済まぬ。忙しい処を呼び立ててしまったかな?」

 一方の千方は落ち着かない様子だ。

「どんな用か? 有るなら早く言ってくれ」

とは言ったが、実は芹菜の胸が少し騒いでいる。この頃少し千方のことが気になり始めていたのだ。

 女童《めわらべ》達ばかりでは無く、近頃、年頃の娘達さえも良く千方の噂話をするようになっていた。そんな話に首を突っ込んで行くような芹菜ではないが、話は聞こえて来る。逞《たくま》しくなっただの、すっかり大人びて来ただのと言っているうちは良いが、『話してみたいものだ』から『一度抱かれてみたい』などと言い出す者さえ居る。女子《おなご》ばかりの作業場は、連日そんな雰囲気なのだ。そんな時、芹菜は何故かムッとする。

「くだらんこと言うとらんで、仕事せいよ!」

 相手が年上だろうとお構い無しに怒鳴り付けていた。男勝《おとこまさ》りの変わり者と思われている芹菜だが、仕事は人一倍やっているので面と向かって反発して来る者は居ない。だが、陰では『やはり、たまってるんでねえの』などと言われている。


「いや、用と言うほどのことでも無いのだが……」

 千方の狼狽《うろた》える様子が芹菜には可笑しかった。

「なら、帰る」と、つっけんどんに言ってみる。千方から見る芹菜《せりな》は、相変わらず、取り付く島が無い。

 芹菜《せりな》は出口の方に向かって歩き始めた。

『このまま帰られたら立場が無い』千方は咄嗟《とっさ》にそう思った。

「芹菜、麿は汝《なれ》のことを好ましく思っておる!」

 言ってしまった。芹菜が千方を見た。すぐに言葉は発しない。少しの間千方を見詰めていた。

「傷の手当をして貰ったあの時より、ずっと好ましく思っておった」と千方が続ける。

「それで? ……」

 芹菜《せりな》は冷静そうな態度を崩さない。

「いや、…… それを伝えたかった…… 。汝《なれ》が麿のことを童としか思っておらぬことは分かっておる。だが、そうではない」

「もう大人だと言いたいのか?」

 挑むように言った。だが、その態度とは裏腹に、芹菜の中で、何かが動いていた。

 芹菜《せりな》がこの前まともに千方を見たのは、弓の稽古の初日、半分、不貞腐《ふてくさ》れながら矢を拾い集めている時だった。そして、竹の小枝を足の裏に刺しその傷を手当してやった。弟の犬丸と同じ年頃の童という印象しかなかった。早春の弥生の頃である。

 それから半年、娘達の噂話と違《たが》わず、身近でまともに見る千方の印象は明らかに変わっていた。確かに背も伸びている。体も見違えるほど逞《たくま》しくなっている。芹菜は、そう思って改めて千方を見た。だが、それだけではない。どこと無く醸《かも》し出す雰囲気の中に男《おのこ》を感じる。もはや、弟の犬丸とは同列に並べられない何かを芹菜は感じていた。娘達の噂話は、耳だけで無く、確実に芹菜の心の中にも入っていたのだ。


 実は、千方は正月の七日の生まれである。同い年とは言っても、秋に生まれた犬丸より拾ヶ月も早い生まれだ。誕生日では無く、正月に全ての人が一斉に一歳ずつ年を取る当時の年齢計算法では、千方の生まれる僅か十日前の年の瀬に生まれた夜叉丸などは、千方より一歳年上となる。


 元より、この時の芹菜《せりな》は千方の生まれ月など知らない。なんと無く、なぜか大人を感じたと言うに過ぎない。そして、そう感じている自分を隠す為に、挑発的な言い方をしていた。

「大人になり掛けの頃は、女子《おなご》が欲しくなる。好いているの何のと言うのは、したいと言う気持ちが言わせる言葉だ」

 そうで無ければ良いがと言う不安が、芹菜に露骨な言い方をさせる。

「そんなことでは無い。女子《おなご》なら誰でも良いという訳では無いわ。麿は芹菜、汝《なれ》を好いておると申しておるのだ。妙な言い方をするな!」

 千方の真剣そうな眼差《まなざ》しに会い、芹菜は己の心を隠して意地の悪い言い方をしている自分に嫌悪を感じ、遂に本音が顔を出す。

「馬鹿にしている訳ではない。吾も六郎様を嫌いな訳ではない。好ましいとさえ思うておる。だが、今まで男《おのこ》として恋しいと思うたことは無い。六郎様と同い年の犬丸もいつまで童では無い。やたら頭を小突くのは良く無いなとは思うておる」

 完全に素直にはなれなかった。気持ちを伝えようとして、何か誤魔化したような言い方をしてしまっていた。千方には、話の後半部分だけが突き刺さる。

『結局そういうことか』

 そう悟った。しかし、予想はしていたものの、実際言われてみると、千方の落ち込み方は半端では無かった。

「分かった。もう良い。忙しいところを呼び立てて済まなかった。許せ。…… 今申したことは忘れてくれ」

 千方は敗北感に苛《さいな》まれた。陰で童達の笑い者になるのかと思った。だが、こうなってしまった以上仕方が無い。それも甘んじて受け入れるしかないかと思った。


 ふと気が付くと、芹菜《せりな》がじっと千方を見詰めている。千方はその視線を避けようとした。

 芹菜の中で何かが弾《はじ》けた。

「抱きたいか?」

 いきなりそう言った。千方は我が耳を疑った。

「えっ? 何を申しておる。そんなことは言うておらぬ」

 千方は狼狽《うろた》えている。

「無理をするな。男《おのこ》が大人になる時は、やたら女子《おなご》が抱きたくなると言う。…… 抱きたいなら抱いても良いぞ。嫌とは思わぬ」 

 そう言うと芹菜は、いきなり上に着ている物を脱ぎ棄てた。普段衣服に隠れている部分は驚くほど白かった。小振りだが形の良い胸が露《あら》わになった。下半身は男と同じように半袴《はんばかま》様《よう》の物を身に着けている。

 余りのことに千方の思考は一瞬停止してしまった。そして、目は芹菜の上半身に釘付けになった。芹菜が半袴《はんばかま》の腰紐《こしひも》に手を掛けた時、千方は我に帰った。

「やめよ!」

 そう叫ぶと千方は芹菜に駆け寄り、腰紐に掛かっていた芹菜の手を振り払い、脱ぎ捨てられた上衣を拾って肩から掛け、前を合わせてその合わせ目を両手でしっかりと握った。

 目と目が合った。千方も芹菜も目を反らさずに見詰め合っていた。

「何故《なにゆえ》このようなことをする。麿が秀郷の子だからか? 千常の弟だからか? 逆らえぬと思うたのか? そのようなことで麿が喜ぶと思うてか! そうでは無い! 分らぬのか!」

 芹菜の顔に僅かに笑みが浮かんだ。

「逆らえぬなどと思うてはおらぬ。嫌なら舌を噛み切ってでも逆らう。…… 嫌では無いと言っているのだ」

 その時、千方はハッとして辺りを見回した。余りのことに忘れていたが、童達がどこかで見ている。そう思った。

「もう誰もおらぬ。それが分かっておるから脱いだ」

 芹菜《せりな》がそう言った。

「だが、麿を『男《おのこ》として恋しいと思うたことは無い』と申したではないか」

「ああ、確かに、今までそう思うたことは一度も無かった…… だが、今、初めて…… 六郎様を男《おのこ》として…… 見ている」

 芹菜《せりな》の口調は、いつものつんつんしたそれでは無く、いつの間にか女のものになっていた。互いの顔と顔は息が掛かるほどの距離にあった。この時代には流行らない芹菜の大きな瞳が、瞬《まばた》きもせず千方を見詰めている。

「何? 何と申した?」

「何度も言わせるな。好いておると言っているのだ」

 また、少し男言葉に戻って芹菜が言った。だが、その表情には、今まで見せたことの無い恥じらいが浮かんでいる。

「嬉しいぞ。そんな言葉が聞けるとは思うてもいなかった。それだけで十分だ。…… さ、袖を通すが良い」

 そう言うと千方は、芹菜の上衣の襟を合わせてしっかり握っていた両手を放し、後ろを向いた。手を放した瞬間、襟元がはらりと裸け、形の良い小振りな乳房が一瞬目に映り、後ろを向いた後も、残像として千方の脳裏に残った。もう一度振り返ってみたい衝動を抑え、千方は芹菜の身繕《みづくろ》いを待っていた。

 芹菜が『もう良い』とでも言ってくれたら振り返ることが出来る。しかし、待っても、なかなかその言葉は聞こえて来なかった。千方は、自分を落ち着かせる為に大きく息を吸った。その時、後ろを向いていた千方の肩に、芹菜の両手が回され、千方の背に芹菜の胸の柔らかい二つの塊が押し付けられた。


一刻(三十分)ほど後、不器用に営みを交わしたふたりは、木陰の草の上に横たわっていた。心地良い僅かな疲れと芹菜への愛《いと》おしさが千方の心を満たしている。

 騒々しいほどに蝉《せみ》が鳴き競っていることも、風が少し強くなって来ていることも始めて意識した。

 その時千方は、芹菜の股間に赤い物を見てハッとした。

「見るな!」

  途端に芹菜が強く言って、千方の顔を押して反対側に向けさせた。そして、端布《はぬの》で素早く始末し、それを草の中に隠した。芹菜の手が離れてからも、千方は顔を反対側に向けたまま少しの間じっとしていた。

 やがて芹菜《せりな》の方に向き直り、

「麿が乱暴であったのか?」

 ぽつりと言った。

「そうではない。始めての時はこうなると炊場《かしきば》で女子《おなご》達が言うておった」

「始めてだったのか?」

 驚いたように千方が言った。芹菜は黙って頷く。その頭を引き寄せ、千方は自らの頬に擦り付けた。肩と首の境目辺りに芹菜の鼻と口の感触を感じた。芹菜の腕が千方の背に絡み付く。

 また暫《しば》しの時が過ぎた。

「子が出来たらどう育てようかな」

 芹菜《せりな》がさらりと言った。

「何?」

「子じゃ。女子《おなご》を抱けば子が出来ることは有る。知らなんだか? ……」

「…… 知っておるわ!」

「『知っていたが、考えもしなかった』……か?」

「う? うん」

「やはり、抱きたかっただけか? 好いておるの愛《いと》しく思うておるのとは、やはり、体が言わせる言葉じゃな。違うか?」

 芹菜《せりな》は、千方をからかうように、ちょっと首を曲げ、大きな目をくるくるさせながら言った。

「違うわ! 怒るぞ」

「いや、違わぬ。男《おのこ》らしく認めよ。それで良い」

と強気を装って言う芹菜《せりな》。

 だが、

「…… ただ、出来れば、それだけでは無いと一言《ひとこと》だけ付け加えてはくれぬか……」

と声を落して言った。最後の方は、やっと聞き取れるほどの声だった。

 千方が芹菜《せりな》を見詰めた。芹菜は視線を反らす。

「育てれば良い」

と千方。

「何?……」

 芹菜が視線を戻して聞き直した。

「ふたりで育てれば良い」

 一瞬、真剣な眼差しで見詰めた後、芹菜が笑う。

「…… やはり童よの六郎様は。いずれ殿の舘に参るのであろう。この郷で一生過ごす訳では無い」

「一緒に来れば良いではないか」

「はははは、吾は蝦夷ぞ。蝦夷の娘じゃ。六郎様と一緒に、殿様の舘など行ける訳があるまい。仮に行けたとしても行きとうはない」

 悟ったように言い放っているが、その表情にいつもの強気さは表れていない。

「ではどうすれば良い?」

と千方が聞く。

「ふふ。子が出来た訳ではない。出来ることもあると言っただけだ。出来ぬ時は出来ぬ、心配するな」

 そう言って芹菜は、今度は悪戯っぽく笑う。千方は何と言うべきか分からずにいたが、芹菜もその後無言となる。

 やがて芹菜は、『済まぬ……』と小さな声で言った。

「何か不安で、六郎様を困らせてみたくなったのだ。何故《なにゆえ》か吾にも分からん。分からんが少し苦しい……」

 いつの間にか、芹菜の大きな目に涙がうっすらと滲《にじ》んでいた。そして、両の手が千方の背に絡み付き、千方も芹菜を引き寄せた。

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