第7話 芹菜と露女 ⅳ
義重は考えていた。
『お舘様ほどの目先の利く方が何故あのような無謀なことを考えられるのか。下野の国府が手を出せなかったと言っても、それは下野の中に居てのこと。一歩、下野を出れば何が起こるか分からないではないか。歳のことは目を瞑るとしても、もし、千早が秀郷と一緒にいるところを捕えられればどうなるか分からない。累は自分ばかりで無く、久稔にも及び草原が滅ぶということにも成り兼ねないのだ。一体何を考えておられるのか?」と案じる。
どうにも気が進まない。『だが、断ることは出来る』と思った。露女が代わりたいと申し出ているからだ。
『あくまで辞退したとしても角は立たないだろう。だが、草原が危険に晒されることに変わりは無い。どう考えても無謀だ。そんな危険を冒して何の得が有るのか』と思う。
父や伯父にも相談してみたいと思ったが、秀郷が訪うことは例え身内であっても口外する訳には行かない。娘のことはさて置き、無謀なことはやめるよう諫言すべきかも知れない。そう思った。
土間で奴婢と共に夕餉の支度をしていた千早が、膳を持って上がって来た。
「お父様。何か浮かぬ顔をしておいでですね。新田の開発に何か障りでも出たのですか?」
腕組みをして考え込んでいる義重に言った。義重の住まいは、久稔の舘近くに有る掘立式の建物だ。妻と二人の娘は出掛けていた。
因みに、掘立式とは、礎石を用いず、土にじかに柱を埋め込む建て方である。瓦を載せた重い建物などをこの方式で建てたら、たちまち歪んでしまう。萱葺、板葺であれば何とか持つ。しかし、柱が根腐りする為耐用年数は短い。柱の根本には松脂を塗って腐食を防ぐが完全に防ぐことは出来ない。都の基準では、それなりの者の家の敷地は一戸主という単位で約百三十六坪(四百五十平方メートル弱)ほどの広さがある。田舎で都の公卿のような豪邸を建てる者など居る訳もないが、土地自体は容易にに手に入る。だから、敷地面積だけを比べれば、土豪の舘も公卿達に負けては居ないが、建物は比べるべくも無いほど粗末なものである。義重くらいの郎等の住まいとなると、敷地も狭く三分の一ほどである。それでも、現代の庶民の住宅と比べれば広いと言えるし、竪穴式住居が主流の地方に於いては良質な住まいではある。
古代には、この辺りまで海が入り込んでおり、それが退いた後も武蔵には多くの河川や湿地が残ったため東西の交通が困難であり、北の東山道から南下せざるを得なかった。その為、武蔵は北から開けた。和銅三年(七百十年)頃、武蔵国造の乱で献上された南部、多氷(現・東京都府中市)に国府が置かれた。
当初は水上交通が中心で、陸路が整備されていなかった為、比較的交通が発達し大国であった毛野国(後に『上ツ毛野国』=上野、『下ツ毛野国』=下野に分けられた)を経由する東山道に属し、東山道武蔵路が設けられたのだ。
宝亀二年(七百七十一年)十月二十七日に、『東山道の派遣官吏が上野国、武蔵国、下野国と経由するのは日程が延びて非効率だが、これを東海道に属させて相模、武蔵、下総と経由すると効率的である』との旨の太政官の奏上を受け天皇が宣下し東海道に移され、陸路が整備された。
そんな訳で、武蔵の中では早く開けたことと湿地が多いことで、草原の辺りには、他の地区と比べて、竪穴式住居よりも掘立高床式住居の方が多くあった。義重の住まいもそうした中の一軒であり、僅かだが自前の田畑を持ち奴婢を抱えている。
『何か浮かぬ顔をしておいでですね』と千早に言われて、腕組みをして考え込んでいた義重は我に返った。
「う? いや違う。開発は上手く行っている」と答えたが、当然
「では、何を?」
と千早が聞いて来た。
「いや、さしたることではない。案ずるな」
千早に気付かれてはまずいと思った。
「でも、そんな顔をされていては、お母様も心配します。どうぞお話し下さい」
微笑みながら話す千早の顔を見ながら義重は、『この娘には誰よりも幸せになって欲しい』と改めて思った。
「何、汝の婿には誰が良かろうかと考えておったのよ。都の左近衛少将辺りではどうかとな」
戯けてそう言ってみた。
「まあ、途方も無いことを…… 。起きたまま夢を見ておられたのですか? 吾はお父様のような真面目で働き者…… そういう方がいい」
『ふ、吾が真面目で働き者? そう思ってくれておったのか』
娘の目からはそう見えていたのかと思い、義重は照れ笑いをした。
翌朝早く、義重は久稔の部屋に行った。濡れ縁に控え、
「早朝より申し訳御座いません」と声を掛けると、
「入れ」すぐさま返事が有った。
義重の表情をひと目見た久稔は、先手を打った。
「実は、水深の田のことじゃがな。汝にやろうと思う。千早を養女にするとなれば、その実父であるその方も身内じゃ。それなりの体裁を整えてやらねばならぬでのう」
断らなければ千早の件も断れなくなってしまう。
「いえ、そのようなお気遣を頂いて…… その、甚だ申し上げ難い事ですが……」
久稔はすぐに察した。
「…… 断りたいと申すか?」
義重の顔を見て、静かにそう言った。
「娘のことはさて置き、秀郷様ご宿泊のこと、お考え直しては頂けませんでしょうか?」
『言わなければならいない』と強く思い、そう口に出した。
「何故?」
義重の懸念は分かっていたが、久稔は敢えて尋ねた。
「危険過ぎます」
「ほう……」
と久稔はとぼける。
「下野の国府が、この武蔵を始め近隣諸国からの応援を得て、秀郷様を二度に渡って捕えようとしたが果たせなかったことは承知しております。確かに秀郷様はそれ程のお方なのでしょう。ですが、追討の官符は取り消された訳では御座いますまい。下野守様とて、ほとぼりが冷め、秀郷様に油断が生じれば、それに乗じて一挙に汚名挽回を図りたいと思われるのは当然でしょう。下野を出るということはその油断ということになりませんでしょうか?」
「もっともな考えじゃな。だがひとつ聞く。『油断が生じれば、それに乗じて一挙に名誉挽回を図りたいと思うのは当然』と申したが、下野守様がそう考えるということを秀郷様は全く予想しないでいると思うか? そのほう、今『当然』と申したが、そのほうでさえ当然と思うことを考えぬほど、秀郷様は虚けと思うか?」
思わぬ切り返しにはっとなり、義重は言い過ぎたと察した。
「いえ、滅相も無い。そんなこと思うてもおりませぬ。出過ぎたことを申しまして申し訳も御座いません」
気を悪くした様子も無く、久稔が続ける。
「そのほうに言われるまでも無く、吾は二千もの民の命と暮らしを預かっている身じゃ。目先の欲や思い付きで事を決めたりはせぬ」
「水争いや、境界での小競り合い、浮浪人を廻っての揉め事など確かに御座いますが、この草原が何か大きな危機に直面しているということも御座いません。では、何故今?」
身を乗り出して、義重が詰め寄る。
「誰もが危ないと思うようになってから考えるのでは遅いのだ。色々なことを見聞きし、何が重要で何が些細なことであるかを判断し、この先何が起こるかを見通さねばならん。それが出来なければ滅びる。自ら手を打たねば誰も助けてはくれぬ。それが、今の坂東じゃ」
「では、何か今お心に掛かることでも?」
久稔は一旦目を閉じた。そして、再び見開いて、ゆっくりと首を横に振った。
「いや、しかとは分からぬ。或いは取るに足らぬことかも知れぬ。だが、気になることが有る。常陸、下総辺りにな……」
既に承平の乱が始まっていた。この月、即ち二月の二日。平将門が前常陸大掾・源護の子・扶らに常陸国・真壁郡・野本(現・筑西市)にて襲撃された。
将門はこれを撃退し扶らを討ち死にさせ、そのまま大串・取手(現・下妻)から護の本拠である真壁郡へ進軍して護の本拠を焼き討ちし、その際、叔父の国香を焼死させていた。ただ、まだこの段階では身内の争いに過ぎない。草原から見れば、他国の騒ぎと済ますことも出来る状況だった。だが、その騒ぎを起こしているのが、他ならぬ村岡五郎(平良文)の一族であることが問題だった。
良文は従五位下の位階を持ち、この時、陸奥守の任に在ったと言われる。動員出来る兵力は五百に上り、草原の倍である。その上、ほとんど本格的な戦いを経験したことの無い草原とは違い、実戦の経験も豊富だ。良文が急遽帰国して騒動に介入するようなことになれば…… 。
久稔の話を黙って聞いていた義重は居住まいを正し、
「いやはや、深いお考えも知らず生意気なことを申しました。お許しください」
と言ったが、続けて、
「…… ですが、千早の養女の件に関してはご容赦願えませんでしょうか。ひとは分相応に生きるのが仕合わせなのではないかと…… 夕べ娘に教えられました」
と切り出した。
久稔は義重の顔を見詰めながら暫く黙っていた。そして、やがて言った。
「話したのか?」
義重が秀郷の来訪を家族に漏らしたのではないかと思った。
「いえ、何気無い話の中で娘の心が分かりました。申し訳御座いませぬ」
義重は額を床に擦り付け、そのまま動かない。暫くして、久稔はふーっと長い息を吐いた。
「分かった。気に病むことは無い。今まで通り勤めてくれ。新田のこと頼むぞ」
朝餉の世話をする露女の横顔を、久稔は眺めていた。多少、刎返りの処は有るが、良き娘だと思う。良く働くし、良く気が付く。気の強いところはたまに傷だが、どうしようも無いという程では無い。だが、そう思ってくれる男がどれほど居るだろうか? やはり女子は見栄えが物を言う。そう思って見ていると、
「父上、麿の顔に何か付いておりますか?」
不審に思って露女かが聞いて来た。
「いや、何」
と久稔は言葉を濁す。
「義重が断って来たのでは御座いませぬか? 千早のこと」
露女がずばりと核心を突く。
「何故そう思う?」
「女子とは良く喋るもので御座います。特に女子同士では、殿方が姦しいと眉を顰めるほどで御座います。埒も無いことをとお思いでしょうが、話せば相手のことが分ります。千早とも良く話しますので、父上よりは千早のことが分っております」
「千早が断ると読んでおったと申すか?」
「千早のことばかりではなく、千早の言葉を通して、父上がご存じ無い義重の顔も見えます」
「ふん、生意気なことを申す」
と久稔は言ったが『この娘、ひとの心を読む目はやはり持っておるな』と思い、弟の豊地になぜその才が無いのかと残念に思った。
「何故身代わりを申し出た」
と聞いてみる。
「ほほほ。身代わりでは御座いませぬ。むしろ、千早を身代わりにしようとなされたのでは…… 。父上のお考えをお助けする為に働かなければならぬのは麿で御座いましょう。千早は無関係で御座います」
言われてみれば、成程という気になった。
「自信は有るのか?」
「はい、御座います」
と自信有りげに露女が答える。
『本当か?』と久稔は思った。
他のことなら兎も角、男女のことにこの娘が通じているとはとても思えなかった。
「嫌ではないのか?」
と聞く。
「男とて、初めて戦に行くのに怖いと思わぬ者はおりませんでしょう。女子に出来る戦いで御座います」
「女子に出来る戦か? …… 討死覚悟ということか……」
「いえ、死んでは何にもなりませぬ」
『千早なら必ず上手く行く』そう意気込んでいた久稔の高揚感が下がり気味なのは仕方の無いことだった。だが、もはや露女で行くしか無い。そう腹を決めて秀郷に使いを出した。
だが、秀郷の狙いが何なのかは、未だ読み兼ねていた。
『何故、今……』
半時も考え込んでいた久稔だったが、突然、「そうか、やはり」と声に出して言った。
「正能二郎はおらぬか!」
久稔の声が舘の中に響いた。




