第8話 鬼の居た洞窟
千方は、振り返って南の空を見た。地平線近くに不気味な雲が現れている。
「明日は嵐になると思う」
と望月兼家が、前日報せて来た。その時点では、風は有るが天気も良く、まさかと思われた。
望月兼家の伝言では、毎日雲や風、その他の気象を観察している者が居て、前に大きな被害を齎した大嵐の前日と酷似した状況に有ると言う。
「さすが、兼家殿。あの黒雲を見る迄は半信半疑だったが、数刻もせぬ内に嵐になるのは間違い無さそうだな。少し追い立てて、後は天に任すこととしよう」
千方らは一気に峰を下り、検非違使達が逃げ込んだ小山の陰に回り込む。その先がどう成っているかは分かっている。
検非違使らは道を下っている。小山の陰に回り込んだ小道は急な下り坂となって続いている。急ぐと転げ落ちるので、心は逸りながらも、重心を後ろに残しながらそっと足を出して行く。鏑木が振り返って見上げた。
「急げ。急げ!」
千方らが見下ろしていることに気付き、そう叫ぶ。それだけで、二、三人が足を滑らせ転落しそうになる。
「射掛ける迄も無いな。引き揚げるぞ」
一旦峰に戻り、反対の南側に降りる道を千方らは急いだ。
一刻(三十分)も経つと、急に風が強くなった。地平線近くに有った厚い雲がすぐ近くまで迫って来ており、異常な速度で流れている。
「いかん。嵐が迫っている。急げ、風雨を避けられる場所を探すのだ」
佐伯がそう言っている間にも風は強くなって来ている。更に半時後、大粒の雨が幾つか叩き付けて来たと思っている内に豪雨となった。風で吹き飛ばされそうになる。同時に豪雨で足元は滑り、土砂の表面が流れて滑り落ちそうになる。もはや二本足で立っていることは出来ない。皆四つん這いになり、手を泥だらけにして草や雑木、熊笹などを掴もうとする。手は泥だらけなので、顔に打ち付ける雨を掌で拭うことも出来ない。耳の穴にも雨粒が入る。風は益々強くなって来る。斜面に居たら吹き飛ばされてしまいそうな強さに成った頃、やっと平坦な場所まで辿り着いた。
命を懸けた戦いに臨む覚悟が出来る男でも、ずぶ濡れの鼠のようになっている自分が情け無く思えて来る。ずぶ濡れの一団は、雨風を凌げる場所を求めて、泥濘に足を取られながら進んだ。
道はやがて木立の中に続く、林に入ると、木の枝や葉は大きく揺れているが、風雨は多少和らげられることになる。黒っぽい土の道のあちこちには木の根が盛り上がっており、躓くことに注意さえすれば、滑り止めにはなる。吹きっさらしの斜面に比べれば天国である。しかし、木を揺すり枝や葉を鳴らす不気味な音は、男達の心に恐怖心を涌かせる。嵐は未だ強くなる様相を見せている。
「洞窟が有るようです」
先行している放免が、報告に戻って来て佐伯に言った。
落ち葉が腐葉土になっている所に入って行くと、右から半分ほど木の枝と葉で覆われ、左側に苔で覆われた矩形の石が積み重なった妙な形の洞窟の入口らしきものが見えた。
「入って調べて参れ」
佐伯が放免に命じる。
暫くして、
「大丈夫です」
戻って来た放免が報告する。
「佐伯様。これは猪狩が言っていた洞窟ではありませんか」
鏑木が問い掛けた。
「鬼の居た洞窟か?」
「はい」
「例え鬼の棲家であろうと、入って嵐が過ぎるのを待つしかあるまい」
佐伯はそう判断した。
「はい」
ぞろぞろと連なって、一行は洞窟に入って行く。驚いた蝙蝠の群れが飛び出して来て、逆に人間達が驚き身を屈める。昼間とは言え薄暗い中で、皆、濡れた衣服の袖や裾を絞る。火打ち石は持っていても、肝心な"ほくち(出した火花を受ける木炭の粉など)" や点け木が濡れてしまっているので火は起こせない。薄暗い中で、蛭が落ちて来るとか、足元を蛇が這っているとか、仮にそんな状況であったとしても分からない。皆身を縮め無言で立ち尽くしている。
気温が下がって来ている。入口からは風が吹き込んで来るし、濡れた衣類が身体を冷やして行く。
「明日の朝まで吹き荒れるかも知れぬな」
暫くして佐伯が呟いた。
「はい。この洞窟を見付けられて助かりました。とても外でひと晩は耐え切れません」
何かを考えている様子の佐伯が鏑木に聞く。
「ところで、ここに居たという鬼の話だが、朝廷に逆らって討たれたと言うことであったな。何時頃のことであろうのう」
と鏑木に尋ねた。鏑木は、こんな時に何を詰まらぬことを言っているのかと思った。
「さあ、言い伝えで御座いますから、何時頃と言っても、真かどうかも定かでは御座いませんでしょう」
と、曖昧に答えておく。
「鬼とは言っても、真は人で、この辺りに勢力を持っていた豪族と言うことじゃ。それが朝廷に叛いて、鬼将軍と呼ばれるように成ったそうじゃ」
どこで知ったのか、聞いた佐伯の方が詳しそうなのだ。
「はあ、左様で。随分と詳しくお聞きになられたのですな」
鏑木は、皮肉っぽい口調になっている。
「何、或いは千方のような者であったのかと思ってな」
この男、何を考えているのかと鏑木は思った。木々を大きく揺らして吹く風の音は恐ろしげで、洞窟の中にも吹き込んで来る。大勢で居るからまだしも、もし一人であったなら大の男でも心細いこと限り無いであろう。時刻が過ぎてくれない。疲れた足が限界を迎えているが、雨が流れ込んで来ている岩床に座り込むことも出来ない。不安を忘れる為に無駄話をしたい者も居るが、頭格の何人かを除けば、それも出来ない。
数刻後に、足の疲れに堪え切れず一人がしゃがみ込む。すると、直ぐに二、三人が続いた。そして、半時後には、殆どの者がしゃがみ込んでしまった。佐伯と鏑木はさすがにまだ立っていた。
「なぜ、我等はこんな目に会わねばならんのか?」
近寄って来た佐伯が、今更のように小声で尋ねる。
「もちろん、お上に逆らう不埒者を捕らえる為です」
鏑木がそう答える。
「だが、満季殿の本音は千方を殺したいと言うことであろう」
佐伯は、ずばりそう言った。
「はい。平忠常と言う者と諍いを起こし、忠常の郎等を斬り殺した上、国府に逆らうように戦の準備を始めました」
鏑木は、建前で答えた。
「相違無いか」
と佐伯が詰める。
「相違御座いません」
鏑木は、飽くまでそれで通すつもりだ。
「麿には、満季殿は千方に私的な恨みが有るように思えるのだが。何が有っても麿に目を瞑るよう働き掛けたのは、殺して恨みを晴らしたいが為であろう」
佐伯は、満季のせいでひどい目に合わされていると思っているから、建前で誤魔化されはしない。
「存じません。麿は主の命に従っているだけです」
佐伯に詰められて、鏑木は苦しくなって来た。
「まあ良い。だが、麿はこんなことに駆り出されるのは二度と御免だ。貰った物は返す」
佐伯は、鏑木にそう告げた。
「そのように仰られても、元々これはお役目として命じられたことで御座いましょう」
佐伯は答えなかった。鏑木は佐伯の側を離れ、その後二人とも無言となり、気不味い時が流れる。
長く重苦しい一夜が開け、嵐は去った。検非違使、近江の健児、満季の郎等の混成部隊は、冷たく肌に貼り着く衣類を纏い、棒のように重たい足を引き摺りながら、伊賀の国府を目指した。
早く陽が昇り、気持ち悪く濡れた衣服を乾かしてくれないものか。誰もがそう思いながら気力でやっと歩いている。
千方が自分達を殺そうとしてはいないと佐伯には分かっていた。崖から落ちた二人は、いわば事故のようなものだ。一人は案内人の猪狩。もう一人は放免だった。佐伯に取っては、殆ど痛手では無い。だが、更に追い詰める為に、千方はまた襲って来るかも知れないと思った。
散々道に迷い、まるで落武者のような一団が伊賀の国府に辿り着いたのは夕刻に近い。伊賀の国府で休養を取り体力が回復すると、健児達は、さっさと近江へ引き揚げて行ってしまった。検非違使の佐伯も、伊賀守の協力を要請することも無く、さっさと都に戻って行った。
佐伯との関係を悪くしてしまったのは不味かったと鏑木は悔やんだ。本当であれば、ここで態勢を立て直し、もう一度攻撃したいところだった。だが、近江の健児にも検非違使にも逃げられてしまってはどうしようも無い。叱責を覚悟して、早馬で満季に文を送った。
鏑木から報告を受け取った武蔵守・満季は、怒りに震えながら、もう一度、太政官に解文を送った。
都に戻った佐伯は検非違使庁に出頭し、仕損じたことを報告し詫びる一方、千方の罪に付いて確認して貰う必要が有る旨申し立てた。
中納言・検非違使別当・源重光から報告を受けた摂政・藤原兼家は、検非違使が務めを果たせなかったことよりも、満季が又も面倒を掛けて来たことを、余程不快に感じた。
「お務めを果たせなかった者が、僭越とは思いましたが、千方にどのような罪が有るか、ご確認をお願いしたいと申しております」
別当・重光が佐伯からの聴取に基づいて、摂政・兼家に報告する。兼家も安易に許可したが言われてみると、真偽を確認する必要が有ると思えて来た。思えば満季の申し立てだけで、裏付けは取っていない。
「分かった」
と兼家が応じた。




