琴線
冷えた、森の中。
辺りには、虫の声すらも届かない。
彼女から発せられる、人知を超えた、世界そのもののような魔力が、虫に危機として見られたからか。
小動物の足音も、虫1匹の鳴き声すらも、聞こえない。
全ては、俺と同じように、口を閉ざしているのだろう。
時間にすれば、僅かな間。
永久を感じさせた静寂は──破られる。
彼女によって。
「……なんで」
風鈴が鳴るかのような。
それは、穢れのない純白を思わせる声だった。
……なんで、か。
何が……なんて、言わずとも分かる気がした。
彼女の魔力は、これまで何人との邂逅を遮ったのだろうか。
災悪の名は、これまでにどれほど、彼女への侮辱、損害を齎したのだろうか。
少し、上を向く。
今なら、目を逸らすことを、許される気がしたのだ。
……考えてみれば、分かることだった。
この世界に来る前から、この世界で過ごした、10年あまりの、記憶。
それが、脳内を巡る。
街で噂された災悪の情報に、少女だった、なんてモノはなかった。
王政の時代。
情報の伝達が、一方的な時代。
思えば、これはよくあることなのだろう。
誰かがそうといえば、そうに違いない。
そんな、集団的思考。
大きな力を持つ、教団が。
この世界で莫大な影響力を持つ、国家が。
彼女を、白い龍人の、少女を──"災悪"にしたのだ。
だから──
「──会いたくなった、からじゃ、ダメか?」
そんな、柄にもないことを、言ってしまう。
──何故か、なんて。
自分でも分からないのだから。
◇◆◇
「……へん」
彼女は、俺の目を見つめて、そう言う。
……そうだな、彼女からすれば、俺は変な人間なのだろう。
「悪かったな、変な奴で」
平坦な声色で、言葉を返す。
──恐い。
その感情を感じさせないよう、心掛ける。
半ば、意地となっている自覚はあるさ。
ただ、俺のような凡夫には、これぐらいしか出来ないのだ。
自分でも、何がしたいのかが、よく分からない。
彼女を見たあの時から、俺は、自分でも分かるくらいに、変になっている。
それは戸惑いか、それとも警戒なのか。
目の前の彼女は、僅かに一歩、後に下がる。
……なんで、そこまでの警戒をするのか。
俺には、あまり理解出来ない。
それだけの魔力があって、警戒するべきものが、あるのだろうか。
僅かに、気がゆるだせいか、口が開いて──
「"災悪"も、そんなふうに警戒するのか」
──瞬間。
吹き飛ばされる。
視界が、回る。
高速に、残像も見えず、暗い木々が、線のように見えて。
背中に、衝撃。
土の匂い、地面を擦る音。
後頭部が痛い……ッ。
何が起きたのか、理解が追いつかない。
目まぐるしく動く視界の中、白が見えて──
──焦り、というものは、あまり感じなかった。
◇◆◇
後頭部が、ズキズキと痛む。
熱が抜けるような感覚が、血の流れを理解させた。
──首を、掴まれている。
地面に、身体ごと叩きつけられ、白い龍人は、俺の腹の上に、馬乗りになって、首を締め付ける。
「───、──」
息ができない。
吸えない、吸うことができない。
ふいに、黄金の瞳と、目が合う。
彼女は、今までにないほどに顔を顰めて、その表情には、殺意すらも見える。
……あぁ、災悪、か。
どうやら俺は、彼女の琴線に触れてしまったらしい。
酸素が足りない、思考がぼんやりとする。
……けれど、なんだか、恐くない。
すぐ目の前には、死があるというのに、そんな事実を、ちゃんと頭で理解しているはずなのに。
後頭部から流れ出ていく血が、俺の体温を、徐々に奪っていく。
打ち付けられた、全身が痛い。
全く、こんな痛みを感じるのは、前世の最期、あの日だけで十分だと、そう決めていたはずなのに。
どうしてかな、俺が行動するのは。
ぼんやりと、そんなことを考える。
当然、答えなんて見つからない。
…………。
……やっぱり、綺麗。
見開かれた黄金の目が、俺の目を貫いている。
彼女の殺意が、見えるような気がした。
この状態で、俺に出来ることなんて何も無い。
ただ、じっと、彼女の目を見る。
逸らさず、逸らさせず、その瞳孔のど真ん中を、ただ見続ける。
「……なんなんだ、おまえは」
小さく、声を漏らしたような気がした。
酸素が血が、塞き止められたそれらが、徐々に、俺の命を蝕む。
見えたのは、憎ましげに、小さく動いた口だけ。
なんて言ったのかは、聞こえない。
ただ……。
──その目は、すごく寂しそうに見えて、悲しそうに見えて、だから思わず、抱きしめてしまった。
両腕を使って、彼女の全身を、覆うように。
俺を締め付ける彼女の手なんか、お構い無しに、ゆっくりと、抱きしめた。
…………。
……あぁ、今世は、これで終わりか。
脳が、もう、ダメ、だ……。
視界が、暗転した。
俺の意識は、もう無い。
「……わからない」
そう呟く彼女の声は、明るくなり始めた森の中、ただ、霧散する。




