第40章 陰謀
静勝軒の庭先で道灌は六歳になる鶴千代に剣術の稽古をつけてやっている。鶴千代が可愛い声で「エイ!」と打ちかかってくるのを、サッと払って「良いぞ、その気合いだ」と道灌が褒めてやると、鶴千代は「お願いします」と言ってまた打ちかかってくる。親子は何度もこれを繰り返した。
享徳の乱の終結により訪れた平和な日々を、道灌は江戸城の改修や足軽兵の訓練、新田の開発などをして過ごしたが、最も楽しいのは鶴千代と一緒にいる時間だった。道灌は自ら鶴千代に剣術を教え、読み書きを教えた。鶴千代は道灌になついていたし、道灌も孫のような一人息子を溺愛していた。
剣術の稽古が終わると、明子が縁側に茶を運んできた。侍女たちが鶴千代の汗を拭いてあげている。その光景を眺めながら縁側に腰かけた道灌は、茶をゴクゴクと一気に飲み干して明子に
「鶴千代はなかなかスジが良いぞ」
と言った。明子は「また親バカを」と笑った。
「いや、本当だよ。将来は立派な武将になるぞ、鶴千代は」
「立派な歌詠みにするのではありませんでしたか?」
「ああ、資忠が生きていた時は、そういう事も考えたけど」と、道灌は悲しげな顔をした。「あいつが死んでしまったから、それはもう難しいな」
「このまま平和な日々が続き、鶴千代が武将になる必要が無くなれば、いちばん良いのですけどね」
「無理だろう、それは」
「でしょうね」
「ところで明子」と、道灌は話題を変えた。「今日、紫音は遊びに来ないのか?」
「昨日来たばかりじゃありませんか」
「昨日は昨日で、今日とは関係ないだろうが」
「今日は悲田明院が忙しいんですって」
「そんなの資家に任せておけば良いのに」
「あの夫婦は結婚以来ずーっと熱々ですから、何事も二人で苦労を分かち合いたいのですよ」
「それじゃ俺はどうなるんだよ?」
「え?」
「俺が沙代子に会えないじゃないか」
「はぁ?」
「悲田明院というのは、もともとおまえが作ったのだから、おまえが手伝いに行って、代わりに紫音と沙代子を連れて来いよ」
「何ですって?」激高した明子がキンキン声を張り上げた。「全部わたしが悪いとおっしゃるのですか?」
突然の剣幕に恐れをなした道灌は、目を白黒させながら「いえ、そういう事を申しているわけではありません」と釈明したが、明子の怒りは収まらなかった。
「そういう事じゃないのなら、どういう事なんですか?」
「働きすぎは体に良くないと申しただけです」
「文句があるのなら鶴千代を連れてこの城を出て行きますよ」
「そ、それだけは平にご容赦ください」
「だいたい沙代子はあなたの所有物ではないでしょうが」
「ええ」
「紫音と資家の娘なんですよ」
「わかっております」
「わかっているのなら、沙代子、沙代子と、うるさく騒ぐんじゃありません」
「はいぃーっ」
プリプリ怒りながら奥の部屋へ引っ込んでいった明子を見送った道灌はブツブツ独り言を呟いていた。
(ああ、怖かった。明子の奴、いつの間にか母上に似てきたな。女は年を取ると皆ああなるのかな? もともと明子は気の強い女だけどな。俺だって本心で言ったわけじゃないんだよ。たまには軽口を叩きたくなることがあるじゃないのよ。ちょっと甘えて我儘を言いたくなる時が。それなのに本気で怒りやがってさ。冗談というものが通じないんだよな、あの女には。俺のボケにツッコんでくれれば良いじゃないか。そういう心の余裕が大切だろう? 生活の中の潤いが。あれ? いつか同じ事を一休和尚に言われたっけ? それなのにガミガミ俺をしかりつけてさ。これじゃ冗談のひとつも言えやしないじゃないか。女の心には乾いた現実しかないのか? 俺は夢を見たいんだよ。心を豊かにして生きたいんだよ。それなのにさ・・・)
道灌も明子もこのまま戦乱の無い世が続くとは思っていなかったが、再びいくさが起きるとすれば、その火種は道灌と山内上杉家の確執にあった。
享徳の乱が終わってみると、道灌は関東の南半分を支配する大大名に変貌し、その名声は日本じゅうに響き渡っていた。反面、旧来の権威だった古河公方と関東管領はすっかり影が薄くなり、名前だけの存在になりつつあった。関東管領という権威の失墜を何よりも恐れる上杉顕定にとって、それは許しがたい事態であったし、勝手に侮辱されたと思って道灌を憎んでいる山内上杉家の家宰・長尾忠景は、常日頃から道灌を亡き者にしたいと考えていた。また、道灌の主人である扇谷上杉家当主の上杉定正は、かねてから顕定を越後から来たよそ者と呼んで嫌っていたので、この機会に道灌と組んで山内上杉家を滅ぼし、扇谷上杉家が関東管領に取って代わる恐れがあった。それゆえ、道灌が単独で謀反を起こすのか、それとも扇谷上杉家の家宰として謀反を起こすのかわからないが、いずれにせよ山内上杉家にとって最大の脅威は江戸の道灌であり、関東武士の間では、近い将来、道灌と忠景の間でいくさが始まるだろう、と専らの評判だった。
道灌本人は、『太田道灌状』に書いた通り、山内上杉家に不満を抱いていたし、資忠が戦死した件で援軍を出さなかった忠景を恨んでもいたが、自分からいくさを仕掛ける気は毛頭なかった。ただし、山内上杉家の兵が攻めて来れば、堂々と迎え討つ腹づもりでいた。
そんな道灌の内心を知る由もない山内上杉家側は警戒心を強めてゆき、忠景は顕定に向かってしきりに「今のうちに道灌を始末しましょう」と持ちかけていた。
「道灌を始末するといっても容易ではあるまい」
顕定がそう言うと忠景は頷いた。
「ええ、奴もバカではありませんので、こちらの動きを警戒しているでしょうからね」
「そうなると、こっそり暗殺するというわけにはいかんよな」
「はい、確かに」
「いくさになったら、こちらが敗けるしな」
「ええ」
「これじゃどうしようもないじゃないか」
「しかし、道灌は我ら山内上杉家のことは警戒していても、奴の主である扇谷上杉家のことは、それほど警戒していないと思うのですよ」
忠景にそう言われた顕定は「ん? それはどういう意味だ?」と尋ねた。
「つまり定正に道灌を暗殺させるのです」
「ええ?」と、顕定は呆れた顔をした。「定正はやらんだろう。そんな事をしたら、自分で自分の首を絞めるのと同じだからな」
「でも、道灌が定正を殺して扇谷上杉家を乗っ取ろうとしていたら、どうですか?」
「え? そんな情報があるのか?」
「ありません」
「なら駄目じゃないか」
「無いなら作れば良いです」
そう言って忠景は不気味に忍び笑いをした。
「そんな事ができるのか?」
「道灌が定正を殺そうと企んでいるという複数の噂を流すのです」
「ほう」
「もちろん最初は定正も本気にはしないと思います。しかし、時間がたつにつれ次第に不安になり、疑心暗鬼に陥るでしょう。そうなれば、もうこちらのものです」
「わかった。忠景、おまえに任せるから、上手くやってくれ」
「承知いたしました」
その扇谷上杉家当主の上杉定正は、享徳の乱の終結後、河越城を出て糟屋にある扇谷上杉家の平城・糟屋館にいる。山内上杉家による陰謀の前から、定正は自分を凌ぐ名声を得ている道灌を苦々しく思っていたし、扇谷上杉家を乗っ取られるのではないかと危惧していた。それゆえ側近の曽我兵庫を使って密かに道灌の動きを監視させていた。
兵庫はもともと太田家の家臣で、一時は道灌のお供をして領内の新田開発をおこない、道灌と沙羅の出会いの場に立ち会った人物であるが、その有能さと生真面目さを気に入った前扇谷上杉家当主・上杉持朝が、道真にぜひにと頼み込んで扇谷上杉家の家臣団に迎え入れ、持朝の死後は定正の側近になっていた。道灌の人柄をよく知っているという理由で、定正は兵庫に監視役を命じたのである。
「その後、道灌に変わった動きはないか?」
糟屋館で定正がそう尋ねると、兵庫は「特に変わりはありません」と答えた。
「相変わらず江戸城で一人息子を教育しながら過ごしております」
「その江戸城だが、随分と改修したそうではないか」
「はい、防御力が脆弱だった箇所を念入りに改修いたしております」
「いくさは終わったのに、なぜ城を改修する必要があるのだ?」
「おそらく再び戦乱が起きると考えているのでしょう」
「誰と誰がいくさをするのだ?」
「山内上杉家の家宰・長尾忠景といくさをするという噂ですけど」
「長尾忠景とか・・・」定正は少し考え込んだ。「道灌が山内上杉家をぶっ潰してくれれば、こちらとしてはありがたいけどなぁ・・・」
「しかし、もしそんな事になったら」と、兵庫が口を挟んだ。「その勢いのまま次は我ら扇谷上杉家に襲い掛かってくるかもしれません」
「そこまでやるかな?」
「家宰さまに限ってそのような事は無いと信じておりますけど、勢いというものは時に意外な結果を招きますからね」
兵庫が家宰さまと呼ぶのは道灌のことである。
「わかった。引き続きしっかり監視しておいてくれ」
定正にそう命じられた兵庫は「はっ」と頭を下げた。




