第39章 都鄙合体
江戸城で、資忠・資雄親子の葬儀が、しめやかに執り行われた。最愛の弟を失い、道灌は憔悴しきっていた。それ以上に憔悴していたのは、夫と息子を一度に失った資忠の妻・結花である。前にも書いたが、道灌・資忠兄弟と結花は、もともと幼馴染の間柄だった。江戸城に到着した結花に、道灌は泣きながら詫びた。
「すまん、結花。俺がついていながら」
「おやめください、義兄上さま」と、結花は涙を流しながら道灌を制した。「わたしも武士の妻。とうに覚悟は出来ておりましたから」
「でもなぁ、死ぬはずのない戦場だったんだよ。何もしなくても勝てるいくさだったんだよ。それなのに・・・」
「家来たちの報告によれば、夫は暴走した資雄を呼び戻そうとして、危険な場所に足を踏み入れたそうです。息子のせいで命を落としたのですから誰も責められません」
「あの時、俺は所用で現場を離れていたんだよ。俺があの場所に留まっていれば・・・こうなるとわかっていれば絶対どこへも行かなかったのに・・・それを思うと悔しくて仕方ない・・・」
「今さら何をいっても詮なきこと。ご自分を責めるのはおやめください」
「ああ、資忠が・・・資忠が・・・」
「義兄上さまに、こんなに愛してもらえて、夫は幸せ者でした」
そう言うと結花は着物の袖で涙を拭った。
「ちっちゃい頃、俺たちはいつも一緒にいたよな?」
「ええ」
「結花は大きくなったら資忠のお嫁さんになるんだって、しょっちゅう言ってたよな?」
「はい。夫は初恋の人でした」
「あれから四十年以上・・・それがこんな形で終わりになるなんて」
そう言うと道灌の目からどっと涙が溢れ出た。つられるように結花も慟哭した。最後は二人して抱き合いながら泣き崩れた。
葬儀には父親の道真も出席した。
「わざわざ越生からご苦労さまです」
道灌が挨拶すると、道真は虚ろな目で「ああ」と答えた。道真も資忠の死が相当こたえている様子だった。
「まさか資忠とお別れになるなんて想像もしていませんでした」
「俺もだ」
「近い将来、資忠に家宰職を譲り、わたしはのんびり余生を歌詠みとして過ごそうと思っていたのですけど」
「まったく惜しいことをした」
「資忠は有能な男でしたからね」
「あいつは勇敢で頭の切れる頼もしい奴だった」
「父上、もうわたしは何もかもが嫌になりましたよ」と、道灌は声の調子を強めた。「わたしがいくら戦功をあげても、管領や山内上杉家、長尾家から嫌われるばかりで、ちっとも協力してもらえないし、協力してもらえないどころか、逆にこちらを潰しにかかる有り様ですからね」
「そうか」
「資忠も言ってましたけど、自分が今までやってきた事は何だったんだという気になりますよ、マジで」
「うん」
「あいつらが最初から協力してくれていれば、もしかしたらですけど、資忠は死なずに済んだかもしれないとも思いますし」
「そうだな」
「どうなんでしょうね、父上? これでもまだ我が太田家は上杉に忠誠を尽くさなくてはならないのでしょうかね?」
道灌にそう尋ねられた道真は、うつむいたまま「俺の時代は幸せだったな」と呟いた。
「え? どういう意味ですか?」
「昔は皆が一つにまとまっていて、同じ方向を向いて進んでいたという意味さ」
「そうだったのですか?」
「ああ、だから妙な疑問が湧くことも無かった。余計な事を考えずに、ひたすら皆と一緒につっ走っていれば良かった」
「そういう時代だったんですね」
「しかし、時代は変わった。今は昔みたいに単純ではなくなった」
「複雑怪奇な様相を呈していますよね」
「人間の質も変わったしな。昔はもっと重々しかった。今はみな薄くて軽やかだ。それが時代の求める人間像なのだろうけど」
「はぁ」
「資長、もうおまえの好きにしていいぞ」と、道真は顔を上げて道灌を見た。「何が正解か、もはや俺にもわからん。だから自分が正しいと思う道をゆけ。大切なのは時代の先を読む目だ」
「はい」
「それしかないよ、もうそれしか」
「・・・」
資忠・資雄親子の葬儀が終わると、道灌は江戸城で三歳になる長男の鶴千代と遊んだり、初孫の沙代子のお守りをしたりしながら、静かな時を過ごした。そのあいだ道灌は、これから太田家をどうするか? このまま上杉に従うか? それとも謀反を起こすか?・・・ずっと考え続けていたが、考えれば考えるほど迷いが生じて、結論を出せずにいた。そのままずるずると時が過ぎ、文明十二(1480)年になった。
この年の一月四日、秩父の山の中に隠れていた長尾景春が再び蜂起した。
(まだ懲りずにやってるのか、あのバカは)
呆れた道灌はしばらく静観するつもりだったが、景春が越生にある道真の屋敷を襲ったものだから事情が変わった。幸い景春軍には以前の勢いも強さも無かったので、道真と五十名ほどの家来によってすぐに追い払われたが、腹の虫が収まらないのは道灌である。
(景春の奴、よりにもよって父上の屋敷を襲うとはどういう料簡だ? 俺にケンカを売ろうってのか?)
立腹した道灌はただちに出陣し、景春が籠っていた長井城(現在の埼玉県熊谷市にあった)を攻めて落城させた。続いて景春が逃げ込んだ塩沢城(現在の埼玉県秩父郡小鹿野町にあった)を攻めようとしたところ、古河公方・足利成氏が景春を助けるべく動きだした。これはつまり、二年前に和睦したものの、いつまでたっても上杉側が京の幕府に成氏を正式な関東の公方と認めさせるという条件を履行しないので、業を煮やした成氏が「それならこっちにも覚悟があるぞ」と和睦の破棄をちらつかせて脅かしたのである。再び関東を戦乱状態にすることだけは避けたい関東管領・上杉顕定の取り成しにより、成氏はいったん矛を収めて引っ込んだ。成氏がいなくなるや、道灌はすぐさま塩沢城を落とし、景春は熊倉城(現在の埼玉県秩父市荒川日野にあったので日野城とか日野要害とも呼ばれる)へ逃走した。景春はもはや道灌の敵ではなかった。同年六月、熊倉城は落ち、景春は命からがら古河城へ逃げのびて、成氏の家臣の一人に加えられた。四年に渡る長尾景春の乱は、こういう形で終結したのである。
景春が成氏の家臣になったと聞いた道灌は憤慨した。
「謀反を起こす前は、ご大層な理想を語っていたくせに、最後はこのざまか。まったく情けない。きさまに従って戦い、死んでいった者たちに、何と言い訳するつもりだ? 潔く自決しろ」
成氏がまた暴れだしたらたまらないので、顕定は成氏の復権に本腰を入れ始めた。父親である越後守護・上杉房定の力を借りて、京の幕府に粘り強く働きかけた。成氏の方も幕府との和睦を何としても成し遂げたかった。長い戦乱で疲弊した味方の不満が爆発し、自身の命が危うくなりかけていたからである。そのため成氏は京へ景春を送り込み、交渉にあたらせた。景春は応仁の乱で荒廃した都で次々に要人と会合をもった。その話を聞いた道灌は、またもや「何やってんだ、あいつ。おまえは武将じゃなかったのかよ? いつから周旋家になったんだ?」と憤慨した。
この頃、道灌が顕定の家臣・高瀬民部少輔に提出したとされているのが、有名な『太田道灌状』である。両上杉家に対する不満と恨みを書き連ねた書状を送ったこの時期の道灌には、そうとう鬱憤が溜まっていたものと思われる。
文明十四(1482)年十一月二十七日、上杉側も成氏も長らく待ち望んでいた幕府と古河公方の和睦がようやく成立した。これを都鄙合体と呼ぶ。都とは将軍・足利義尚を、鄙とは古河公方・足利成氏を指し、両者が友好関係に戻ったことを意味した。和睦成立後に成氏は隠居し、前将軍・足利義政から政の一字を拝領した嫡男・足利政氏が跡を継いだ。また、都鄙合体に伴い、堀越公方・足利政知は鎌倉公方の座から伊豆国の大名に格下げされた。鎌倉公方の座にあったといっても、もともと実体のない名前だけの地位だったので、政知本人は不満だったであろうが、どうしようもなかった。
二十八年間続いた享徳の乱は、ここに終結した。乱が始まったとき二十三歳だった道灌は、このとき五十一歳。人生における壮年期の大半を戦乱の中で過ごしたことになる。
(これで終わったのか・・・)
そう思うと道灌は、改めて資忠の死を悔んだ。最後の最後に、死ななくて良い人間を、死ななくて良い場所で死なせてしまった・・・
「山桜 咲きてと朽ちる 世の中の ならひも花に 非ずもあらなむ」




