第21章 沙羅の死
扇谷上杉家側と堀越公方側の領地をめぐる攻防は続いていたが、寛正三(1462)年に入ると扇谷上杉家が堀越公方に愛想を尽かし、古河公方側に寝返るという噂が流れ始めた。噂の出処は、実は資長だった。堀越公方側に揺さ振りを掛ける為、密かにそのような噂を流したのである。その効果は覿面で、扇谷上杉家造反の噂は将軍・足利義政の耳にまで届いた。
「いま扇谷に寝返られたら兄上の命が危ない」
義政はすぐさま堀越公方・足利政知へ書状を送り、扇谷上杉家の当主である上杉持朝との融和を図るよう厳命した。これにより堀越公方側が扇谷上杉家ならびに太田家の所領に手を出すことは無くなった。
物事が上手くいかない時は誰かにその責めを負わせるのが世の常である。渋川義鏡が古河公方・足利成氏討伐の失敗および扇谷上杉家との不和の責を負わされた。
「ふざけるな!」義鏡は憤慨し、自分を正当化しまくり、見苦しいほど喚き散らした。「わし一人のせいではなかろうが。責めるのなら政知を責めろ、あいつが総大将なのだから」
しかしながら、義鏡を擁護する者は一人もいなかった。その傲慢さゆえ義鏡は両上杉家に嫌われていたが、政知陣営の者たちからも同じくらい嫌われていたのである。孤立無援の義鏡は無念の思いを噛み締めたまま都へ送還されていった。その後の消息はわからない。おそらく仏門に入り、そのまま亡くなったものと思われる。
義鏡が失脚した以上、彼の息子・義簾を斯波家の当主にしておく意味は無いと考えた義政は、まず寛正四年(1463年)十一月、義政の生母・日野重子の死去に伴う大赦で斯波義敏・松王丸父子を赦免し、さらに文正元年(1466年)七月、義敏を斯波家当主に復した。しかし、こうなると収まらないのは、斯波家から無理やり追い出された義簾である。義廉は義父の山名宗全を頼り、やがてこれが応仁の乱の一因となる。このように先のことまで深く考えず、気まぐれに、行き当たりばったりに将軍・義政が物事を引っ掻き回したものだから、この国は関東も関西も未曾有の大混乱に陥るハメになるのである。
一方、太田家では扇谷上杉家が古河公方側に寝返るという噂で持ち切りだった寛正三(1462)年の夏、資長を絶望のどん底へ突き落す事態が起きた。沙羅が亡くなったのである。夏の暑さで体力を奪われていた沙羅は、ある朝ひっそりと死んでいた。発見したのは侍女である。いつものように沙羅を起こしに寝室へ行ったが、声を掛けても返事が無いので不審に思って近寄ったところ、すでに事切れていたらしい。おそろしい悲鳴が響き渡り、静勝軒内は騒然となった。資長はすぐに駆け付け、まだ温もりが残る沙羅の遺体にすがりついて泣き叫んだ。
「沙羅、嘘だろう? 起きてくれ。目を醒ましてくれ。俺を残して逝かないでくれ」
前の日も普通に会話していたのに、それなのになぜ?・・・あまりにも突然の出来事に資長の頭は混乱し、今にも破裂しそうだった。
急いで連れてこられた紫音も一緒に泣き叫んだ。
「カカさま、起きて。目を開けて。わたしを見て」
しかし、沙羅が目覚めることは無かった。資長と紫音は、その日一日泣き続けた。泣いてばかりのポンコツ状態になった資長に代わって、佳子が葬儀の手配など太田家の諸事万端を仕切った。その間、資長は泣き続けたが、一緒に泣いていた紫音がいつしか資長を慰める役に回っていた。
「トトさま、もう泣かないで。トトさまが泣いてばかりいると、カカさまがあの世で悲しむわ」
九歳になり、だいぶしっかりしてきた紫音にそう諭されると、資長は手で涙を拭った。
「だけどなぁ、紫音。俺は悲しくて仕方ないんだよ。つらいんだよ」
「わかるわ、トトさまの気持ち。わたしも同じだから」
資長は「紫音!」と叫んで愛娘を抱きしめ、再び泣き始めた。
「でもね、トトさま、いつまでも泣いてちゃいけないわ」
「わかってるけど、涙が止まらないんだよ、紫音」
「これからは、わたしがカカさまの代わりになるから、もう泣かないで、トトさま」
「紫音は優しいなあ」
「だから、もう泣かないで、トトさま」
ようやく資長は泣き止んだものの、心ここにあらずという魂の抜け殻状態だったので、当分の間、扇谷上杉家・家宰の職務は弟の資忠が代行することになった。古河公方側との小競り合いは続いていたし、堀越公方側の動向も注視していなければならなかったが、それらへの対処もすべて資忠が指揮した。まったくもって頼りになる有能な弟だった。
堀越公方は扇谷上杉家と所領をめぐって諍いを起こしたが、山内上杉家とも一悶着起こしていた。武蔵国にある赤塚郷は京の鹿王院の所領だが、上杉側に寝返って殺された千葉胤直の甥・実胤が兵糧料所と為し、ここから年貢を取り立てることを山内上杉家が許可していた。鹿王院に泣きつかれた幕府および堀越公方は、山内上杉家に赤塚郷を返還するよう命じた。しかし、そんなことをしたら味方の千葉実胤が干上がってしまい、成氏とのいくさに支障をきたすので、山内上杉家の家宰・長尾景信は命令を無視して従わなかった。
「まったくあいつらときたら現場を知らずに好き勝手な命令ばかり出しおって。今はいくさの最中なんだぞ。こっちは命懸けで戦っているんだぞ。戦場に出もしない将軍や公方が余計な口出しをするなってんだ」
景信の怒りはもっともだった。その景信の父で、隠居したあと鎌倉で静養していた長尾景仲が、赤塚郷をめぐる争いが起きていた寛正四(1463)年八月、老衰で息を引き取った。享年七十五歳だった。
長年に渡り両上杉家を牽引した景仲だけあって、葬儀会場となった鎌倉の建長寺には多くの参列者が集まった。こんなに大勢の人が鎌倉へ集まったのは康生元(1455)年以来であり、紫音の助けもあってようやく正常に戻った資長も参列した。約一年ぶりだった、資長が人前に姿を現したのは。沙羅を失った心の傷を癒すには、これだけの時間が必要だったのである。
往時の賑わいが嘘のように寂れ果てた鎌倉を見た資長は、しばし言葉を失った。神社仏閣の大半が損壊したまま放置されている中に、小さな民家がポツンポツンと建っているだけの無残な街並み。
(これがあの華やかだった武士の都か・・・)
何もかもが変わってしまった現実に、資長は怒りと悲しみと虚無感が入り混じった複雑な感情を抱いた。
「里は荒れ 野となる露の 深草や 鶉がねやを 照らす月影」
建長寺も無傷ではなく、そこかしこに戦火の跡が残っていた。資長が境内に足を踏み入れると、多くの参列者から「もう大丈夫なのか?」「元気になったの?」「体調は回復したんですか?」と声を掛けられたが、その度に資長は「ええ、お陰さまで」とか「はい、もう大丈夫です」と適当に答えてやり過ごした。鬱陶しかったのである、うわべだけの心配の言葉が。そこへ長尾景春が足早に駆け寄ってきた。
「兄上、心配していたんですよ。奥さまが亡くなってからずっとふさぎ込んでいると聞いて」
「おお、景春か。心配かけてすまんな」
「もう大丈夫なんですか?」
「ああ、大丈夫だ。もう心配ない」
「しかし、まだ少し元気が無いような・・・」
「そりゃあまだ本調子というわけではないが、ともかくそれでも大丈夫だ」
「それなら良いのですが」
「娘の紫音にも、男がいつまでもメソメソしてちゃダメよ、と叱られているからな」
そう言って資長は苦笑した。
「お嬢さんには敵いませんね」
「ああ、俺が回復できたのは紫音のお陰だ。感謝してるよ」
「ありがたいですね」
「うん、子供は良いよ。紫音がいてくれて本当に助かった」
「俺も早く子供が欲しいなぁ」
二十歳の景春は親戚の娘を嫁に貰ったばかりだった。
「左衛門尉さまに、ひ孫の顔を見せられなくて残念だったな」前にも書いたが、左衛門尉というのは景仲の受領名である。「なにしろ、左衛門尉さまは景春を溺愛していたからなぁ」
「祖父にはこれ以上ないほど可愛がって頂きました」
「その恩に報いる為にも、これから左衛門尉さまのような知力体力共に優れた立派な武将にならなくてはいけないぞ」
「はい。祖父の跡を継ぐのは自分しかいないと思っております」
景春のそばを離れた資長は、次に道真と資忠が二人で立ち話している場所へ向かった。
「父上、お久しぶりです」
資長がそう言って頭を下げると、道真は「おう、元気になったかい?」と屈託の無い笑顔を見せた。
「資忠に何かと助けてもらったので」と、資長は横にいる資忠に微笑みかけた。「どうにか回復することができました」
「つらいよな、最愛のひとに先立たれるのは」
「はい、つらすぎて何度か自分も死のうと考えました」
「それは穏やかじゃないね」
「でも、紫音の顔を見ると、できませんでした」
「紫音の為にも、おまえがしっかりしなくてはな」
「はい、そのつもりです。ただ、それでも時々つらくなります」
「仕方ないよ。それが人間だもの」
「沙羅がいなくなって悲しいんです、本当に・・・でも、沙羅の看病から解放されてホッとしている自分もいるんです、どこかに・・・それを思うと、どうにも胸が苦しくなって、自分が嫌になって・・・」
資長の告白じみた発言を聞くと、道真の表情が暗くなった。
「すべて忘れるんだな。その為にも仕事に打ち込め。仕事でヘトヘトになって余計なことを考えるヒマを作るな」
「心底わたしは沙羅を愛していたのか? 本当は邪魔に思っていたのではないか? 重荷に感じていたのではないか? そこがはっきりしなくて、自分に確信が持てなくて、わたしは・・・」
「考えるな。答えの出ない底なし沼に嵌るだけだ。ただ働け。仕事に没頭しろ。これは俺の命令だ」




