第19章 内紛
長禄三(1458)年になった。紫音はすっかり元気を取り戻し、江戸城内で侍女たちと遊んだり、習い事をしたりして過ごしていた。顔のあばたが痛々しかったが、紫音本人はまだ五歳の幼児だったので、少しも気にかける様子は無かった。
沙羅は紫音が病気の間、無理に気を張って看病に専念していたが、紫音が完治するや、それまでの反動が強く来て、再び寝込むようになった。紫音は毎日のように沙羅の枕元へやって来ては、可愛い声で「カカさま、早く良くなってください」と願ったが、あばたが残った紫音のあどけない顔を見ていると、将来の不幸が思いやられて沙羅の目からは涙が溢れるのであった。
資長も心配して、沙羅から目を離さぬよう心掛けていた。沙羅の寝室に入った資長は努めて明るいふりをした。
「気分はどうだい?」
「まあまあです」
「そうか、それは良かった」
そう言うと資長は寝ている沙羅の隣に横たわり、静かに目を閉じた。そのまましばらくじっとしていると、沙羅が口を開いた。
「殿」
「ん?」
「紫音が心配です」
「どうして? 紫音はもう元気だよ」
「顔のあばたが・・・」
「紫音は気にしてないよ」
「まだ子供で何もわかりませんから」
「本人が気にしていないのに、親があれこれ心配する必要はないさ」
「でも、紫音が年頃になったら・・・」
「母上がおっしゃったように、その頃になったらあばたが消えるかもしれないじゃないか」
「もし消えなかったら」
「先の事をあれこれ思い悩んでもしょうがないよ」
「紫音が大人になった時、つらい思いをすると思うと、わたくしは耐えられないのです」
「命が助かっただけでも感謝しなくちゃ」
「世の中には死ぬよりつらい事があります」
「そんなに思い詰めず、もっと気楽に、心を休めて、のんびり構えようよ」
「母親の一番の望みは子供の幸せです」
「父親だってそうだよ」
「紫音がこのさき不幸になったら・・・」
「未来のことは誰にもわからないよ」
「わたしが紫音に代わって病気に罹ってあげたかった」
「それは俺も同じだ」
「紫音が可哀想です」
「過去を悔んでも、未来を心配しても、しょうがないじゃないか」
「だって紫音が」
「家族三人で、過去や未来ではなく、今を生きようよ。今を楽しく生きようよ。なぁ、沙羅」
伊豆の国清寺にいる鎌倉公方・足利政知は、伊豆国と相模国にある扇谷上杉家と太田家の所領から勝手に税や兵糧米の取り立てをし始めた。
「やっぱりこうなったか。古河公方の所領を奪えないものだから、味方の所領に手を出すとは、何とゲスい連中だ。この乞食野郎どもめ。厄介者は初めから関東へ来るなってんだ」
憤慨した資長は扇谷上杉家当主・上杉持朝と連名で政知に抗議したが、聞いてもらえなかった。扇谷上杉家および太田家と鎌倉公方側とで、このあと小競り合いが続くことになる。
一方、京の将軍・足利義政は、今年こそ古河公方・足利成氏を滅ぼしてやると張り切っており、斯波義敏に対して関東へ出兵し、鎌倉公方・足利政知を助けて成氏を討伐せよと命じた。
三管領筆頭の斯波家が派兵してくれるという話が伝わると、伊豆の政知陣営は沸き立った。
「ぃよっしゃー、今度こそ成氏の首を獲ったるぞ!」
政知は顔を上気させてそう叫び、渋川義鏡はすぐさま五十子陣へ使いを送り、十月に古河公方側へ攻め込むから、その準備をするように命じた。命令書を受け取った長尾景仲はこう考えた。
(斯波の大軍がやって来るのなら本気で一緒に戦うが、そうじゃなかったら今回も様子見だな)
十月、伊豆から兵を率いてきた渋川義鏡が五十子陣に到着した。しかし、肝心の斯波義敏は現れなかった。斯波家ではこのとき内紛が起きていて、義敏と斯波家執事の甲斐常治が越前で戦っていたのである(長禄合戦)。そのため斯波家では関東へ派兵する余裕がまったく無かった。仕方なく義鏡は、昨年と同様に手持ちの兵と両上杉家の兵を率いて敵が陣を敷く羽継原へ攻め込み、昨年と同様にボロ敗けして帰ってきた。今回も景仲は協力せず、ムスッとした表情で伊豆へ戻っていった義鏡を陰で嘲笑っていた。
斯波義敏の不参加により上杉側が大敗したという報告を受けた義政は激怒し、義敏を廃嫡して三歳になるその息子・松王丸を斯波家当主の座に就けた。
江戸にいる資長にも敗戦の知らせが届いたが、意に介さなかった。政知一派を関東から追い出そうという景仲や道真の魂胆はわかっているし、資長も同じ気持ちだったからである。そんなことよりも、この時期、資長の頭を悩ませていたのは沙羅の病状である。少しも良くならないどころか、ますます悪くなる一方で、目に見えない心が沙羅の肉体を食いつくそうとしているかのように思えた。資長は変に刺激しないよう気を遣いながら沙羅と会話し、心の重しを少しでも取り除いてあげようと努力した。
「死後の世界ってあるのでしょうか?」
ある時、沙羅が資長にそう尋ねた。
「さぁ、俺には分からないな」
「わたしは無いと思います」
「あるか無いかは死んだ時にわかるんだろう? 正解はその時までのお預けだね」
「わたしは、こうやって横になりながら、何度も父に話かけました」
「長頼どのに?」
「しかし、一度も返事がありません」
「きっと忙しかったんだよ、新しい環境に慣れようとして」
「わたしが話かければ何をおいても父は絶対に応えてくれるはずです」
「お父上は沙羅を心底かわいがっていたからね」
「応えが無いという事は父がいないという意味です」
「どこへ行っちゃったんだろうね?」
「父がいないという事は死後の世界も存在しないという意味です」
「え、そうなの?」
「もし死後の世界があり、そこに父がいるのなら、絶対にわたしに合図を送ってくるはずですから」
「ま、そうだろうね」
「父がわたしを放っておくはずがありません」
「確かに」
「つまり父は完全に消え去ったのです」
「でも、こちらが忘れた頃、ひょっこり合図を送ってくるかもしれないよ」
「わたしは父を忘れません」
「もちろんそうさ。俺が言ってるのは、この世とあの世では時間の進み方が違うから、すぐに返事が来なくても、結論を急ぐべきではないという意味だ」
「どういうことですか?」
と、それまでぼんやり宙を眺めて話をしていた沙羅は、横になったまま顔を資長の方へ向けた。
「つまり気長に待とうという意味さ、結論を急がずに」
「死後の世界が無いことは明白です」
「そう決めつけるのは簡単だけど、それに何の得があるんだい?」
「真実は損得とは関係ありません」
「でも、死後の世界があるかどうかなんて、誰も生きている間は証明できないんだろう?」
「決定的な証拠はありません」
「それなら一応あると思っといて、長頼どのからの返事をのんびり待っている方が、少なくとも希望があるぶん良いんじゃないの?」
「それはごまかしです」
「ごまかしでも何でもいいから希望がある方を選択した方が絶対に得だよ」
「ごまかしは嫌いです」
「誰にも正解がわからない以上、ごまかしとは呼べないだろう」
「わたしは答えが欲しいのです」
「だから決定的な証拠は出て来ないと言ってんじゃん」
「それでも答えが欲しいのです」
「何事もそうキッチリ考えずにさ、もっとゆるやかに、柔らかく、余裕を持っていけないかな?」
「いい加減な態度は嫌いです」
「いい加減じゃないよ。何でもそうやってすぐに白黒つけようとするんじゃなくてさ、もっとおおらかに、適当に、遊び心も加えてさ、結論なんか先に延ばしても良いんじゃないのと言ってるんだよ。のんびり行こうよ。なぁ、沙羅」




