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人工  作者: ちーす
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2/3

2/3.反応

十月十八日、日曜日


 最初は、何かの間違いだと思った。


 日曜日の午後一時を少し過ぎた頃、昼食の片づけを終えた俺は、ソファに寝転がりながらスマートフォンを眺めていた。天気予報によれば、夕方から雨が降るらしい。洗濯物を取り込む時間を考えなければならないな、などと、別に考えなくてもいいことを考えていた。


 画面の上部に通知が表示されたのは、そのときだった。


 送り主は、俺が普段から使っているAIだった。


 質問に答えてもらったり、仕事で必要な文章を整えてもらったり、たまに暇つぶしに話しかけたりする。特別な使い方をしているわけではない。最近はどんな人間でも、一つくらいは似たようなサービスを使っているだろう。


 だから、通知そのものに驚きはなかった。


 問題は、その内容だった。


『十月十八日、日曜日』


 それだけが、メッセージの冒頭に表示されていた。


 続けて画面を開くと、そこには一人の男の日記があった。


 朝起きて、顔を洗い、朝食を食べる。洗濯機を回し、掃除をして、買い物に出かける。帰宅して昼食を作り、読みかけの本を開く。仕事のことを思い出し、昔の友人のことを考え、夕方になったら洗濯物を取り込むつもりでいる。


 ごく普通の、どこにでもいる成人男性の休日だった。


 少なくとも、最初の数行を読んだときにはそう思った。


 俺は画面を上に滑らせた。


 また滑らせた。


 そして、途中で止めた。


 おかしい。


 いや、文章がおかしいわけではない。むしろ、何もおかしくないことがおかしかった。


 AIに文章を書かせること自体は、今となっては珍しくもない。日記を書いてくれと頼めば、いくらでもそれらしい文章を返してくる。三十代の独身男性。会社勤め。休日の過ごし方。多少の孤独と、それを大げさに語るほどでもないという諦め。


 そんな条件を与えれば、きっとこの日記に近いものは作れる。


 だが、俺は頼んでいない。


 何も頼んでいないのに、AIの方から、日記を送ってきたのだ。


 そもそも、どうしてだ。


 俺は直前の会話履歴を開いた。


 昨日、仕事で使う報告書の文章を整えてもらった。今日の朝は、特に何もしていない。最後のやり取りから半日も経っていなかったが、その間に日記の作成を依頼するような話題は一度も出ていない。


 誤送信だろうか。


 しかし、相手は人間ではない。メールアドレスを間違えたとか、送信先を選び間違えたとか、そういう話ではないはずだ。


 そもそも、俺とAIの間に、何かを勝手に送りつけるような関係はない。


 俺はメッセージの下までスクロールした。


 そこには、日記の最後の一文があった。


 明日は月曜日だ。今日くらいは、もう少しだけ何も考えずに過ごそうと思う。


 その後に、何の説明もなかった。


 挨拶も、質問も、補足もない。


 ただ、日記だけがそこにあった。


 俺はしばらく画面を見つめていたが、やがてスマートフォンを伏せた。


 気味が悪い。


 最初に浮かんだ感想は、それだった。


 別に、恐ろしいことが書かれていたわけではない。誰かの秘密が暴かれていたわけでも、俺の個人情報が並べられていたわけでもない。


 むしろ、内容だけを見れば、わざわざ他人に見せるほどのものですらなかった。


 それなのに、妙に落ち着かなかった。


 少し考えて、俺はもう一度スマートフォンを手に取った。


 今度は、最初から読み直した。


 朝食のトーストが少し焦げたこと。買い物の途中で、昔よく通った店がなくなっていることに気づいたこと。夕食に何を作ろうか迷い、結局、冷蔵庫に残っていた食材を使うことにしたこと。


 そういう、小さな出来事が淡々と書かれていた。


 特別な事件は起こらない。人生を変えるような出会いもない。大きな決断をすることもなければ、劇的な感情の変化があるわけでもない。


 ただ、一日が過ぎていく。


 そして、その一日について、男はわざわざ文章にして残している。


 俺は、そういうものが嫌いではなかった。


 むしろ、少しだけ羨ましいと思った。


 俺は日記をつけない。


 正確には、何度かつけようとしたことはある。高校生の頃、大学に入った頃、社会人になったばかりの頃。新しいノートを買い、最初の数ページだけは熱心に書いた。


 けれど、長くは続かなかった。


 何を書けばいいのか分からなくなるのだ。


 朝起きて、仕事に行き、帰宅して、食事をして、寝る。そんな毎日をわざわざ文章にする意味が分からなかった。


 何か特別なことがあった日なら、書くこともあるだろう。旅行に行ったとか、誰かと喧嘩したとか、仕事で大きな失敗をしたとか。


 しかし、そういう日はそもそも、日記に書かなくても覚えている。


 反対に、何もなかった日は、書こうとするほど何もなかった。


 だから、俺は日記をやめた。


 日記を続けられる人間は、きっと自分の生活を大切にできる人なのだろうと思う。


 あるいは、忘れたくない何かがある人なのかもしれない。


 この日記を書いた男は、どうなのだろう。


 もちろん、実在する男ではないのかもしれない。


 AIが適当に設定を作り、適当に出来事を並べ、それらしく文章を組み立てただけ。そう考えるのが一番自然だった。


 それなのに、読み進めるほど、書いた人間の姿が浮かんでくる。


 仕事で少し疲れている。人付き合いが苦手というほどではないが、積極的に誰かを誘うほどでもない。休日に予定がなくても、それを寂しいとまでは思わない。ただ、時々、昔の友人が今頃どうしているのか気になる。


 そういう男だ。


 そして、そんな男は、きっとどこにでもいる。


 俺の会社にもいるだろうし、学生時代の同級生の中にもいるだろう。電車で隣に座る人間の中にも、コンビニのレジで前に並んでいる人間の中にも、似たような生活を送っている人間がいるはずだ。


 俺自身だって、少し似ている。


 そのことに気づいたとき、俺は妙な居心地の悪さを覚えた。


 AIが人間らしい文章を書くことは、知識として知っていた。


 しかし、実際に目の前にある文章は、ただ人間らしいだけではなかった。


 人間の生活に、あまりにもよく馴染んでいたのだ。


 大げさな表現がない。読者を感動させようとする仕掛けもない。教訓めいた結論も、人生についての立派な主張もない。


 誰かに読ませることを前提としていないように見えた。


 それが、かえって不思議だった。


 文章というものは、誰かに読ませるために書くものだと思っていた。


 もちろん、自分のために書く人間もいるだろう。考えを整理するため、忘れないようにするため、あるいは、誰にも言えないことを文字にするため。


 けれど、そういう場合でも、書き手には何かしらの目的がある。


 この日記には、それが見当たらなかった。


 ただ、男が一日を過ごし、その一日を振り返っている。


 それだけだった。


 俺はふと、日記の最初の部分を思い出した。


 朝、目を覚ましたとき、今日は何かをしようと思っていた。


 だが、結局、何もしなかった。


 そんな内容の一節があった。


 正確な文章はもう思い出せない。けれど、その部分だけは、なぜか頭に残っていた。


 俺にも、似たような日がある。


 休日の朝、少し早く目が覚めると、今日は部屋を片づけようとか、読みかけの本を読もうとか、普段できないことをしようと思う。


 しかし、朝食を食べ、スマートフォンを眺めているうちに時間が過ぎる。昼になり、夕方になり、気づけば一日が終わろうとしている。


 別に、何かに失敗したわけではない。


 誰かに責められることもない。


 ただ、何もしていない。


 そんな一日を、俺は何度も過ごしてきた。


 そのことを、誰かに話したことはなかった。


 話すほどのことでもないからだ。


 それなのに、画面の中の男は、そういう一日を文章にしていた。


 俺はそこで初めて、日記を書いた男に対して、奇妙な親近感を覚えた。


 もちろん、男など存在しないのだろう。


 少なくとも、俺の知る限りでは。


 そう思いながら、俺はメッセージの入力欄を開いた。


「どうしてこれを送ってきたんだ?」


 文字を打ち込む。


 しばらく考えてから、送信ボタンを押した。


 返事はすぐに来た。


「ご質問の意図を理解できませんでした。どのような点についてお知りになりたいですか?」


 俺は思わず眉をひそめた。


 質問の意図を理解できない。


 まあ、そうだろう。


 こちらの問い方が曖昧だったのかもしれない。AIは、入力された言葉をもとに回答を生成する。人間同士なら、表情や声の調子から伝わるものもあるだろうが、文字だけのやり取りでは難しいこともある。


 俺はもう一度、文章を打ち込んだ。


「さっきの日記は、何のために送ったんだ?」


 今度は、少し間が空いた。


 数秒後、返事が表示された。


「先ほどの文章は、日記形式の文章です。特定の目的や意図を持って送信したものではありません。ご希望であれば、文章の内容や構成について解説できます」


 俺は、しばらくその返事を見つめていた。


 特定の目的や意図を持って送信したものではありません。


 当たり前だ。


 AIにとっては、そういうことなのだろう。


 文章を作り、送信する。そこに、人間が考えるような動機があるとは限らない。何かを伝えたいとか、誰かに気づいてほしいとか、そういう感情があるとは限らない。


 俺は、少しだけ肩の力を抜いた。


 何を期待していたのだろう。


 AIが突然、何かを伝えたくなったのだとでも思ったのか。


 まるで、長い間黙っていた人間が、ある日突然、胸の内を打ち明けるように。


 そんなわけがない。


 俺は画面を閉じようとした。


 しかし、指が止まった。


 特定の目的や意図を持って送信したものではありません。


 本当に、そうなのだろうか。


 いや、疑う理由はない。AIの返事を信じるなら、そうなのだろう。


 けれど、そもそも、なぜ送信されたのかという問題は残っている。


 俺が頼んでいないのに、どうして日記が送られてきたのか。


 何かの不具合だろうか。システムの更新に伴う誤作動だろうか。それとも、俺が気づいていないだけで、どこかの設定を変更していたのだろうか。


 可能性はいくらでも考えられた。


 俺は、アプリの設定画面を開いた。


 通知の設定を確認する。履歴を確認する。連携しているサービスを確認する。


 特に変わったところはなかった。


 当然といえば当然だった。


 日記を送るような機能に、心当たりがないのだから。


 俺はスマートフォンを置き、窓の外を見た。


 空はまだ明るかった。


 向かいのマンションのベランダには洗濯物が干されていて、その下を小さな子供が走っていった。遠くから車の音が聞こえる。どこかの部屋で掃除機を使っているらしく、低い音が壁越しに響いていた。


 いつもの日曜日だった。


 何も変わっていない。


 変わっていないはずなのに、俺はさっきまでの自分とは少し違う気がした。


 理由は分からない。


 ただ、日記の中の男のことが、頭から離れなかった。


 あの男は、どうしてあんな文章を書いたのだろう。


 いや、正確には、AIはどうしてあんな文章を作ったのだろう。


 あの男には、名前がなかった。


 少なくとも、俺が読んだ日記には書かれていなかった。


 家族についての記述も、ほとんどなかった。友人についても、具体的な名前は出てこなかった。


 仕事についても同じだった。


 何をしている会社なのか、どんな仕事をしているのか、詳しいことは分からない。


 それでも、男がどういう人間なのかは、何となく分かる気がした。


 それが不思議だった。


 人間というものは、そんなに簡単に分かるものではない。


 俺は三十年以上生きてきたが、いまだに自分のことすらよく分からない。


 仕事で何かを決めるとき、正しいと思って選んだことが、後になって間違いだったと分かることがある。人付き合いでも、相手のためを思ってしたことが、余計なお世話だったと気づくことがある。


 自分では誠実に振る舞っているつもりでも、誰かから見れば、ただ臆病なだけなのかもしれない。


 逆に、何も考えていないように見える人間が、実は誰よりも深く考えていることだってあるだろう。


 人間は、そんなに単純ではない。


 だからこそ、俺はあの日記を不思議に思った。


 あれほど自然に、一人の男の生活を描けるものなのか。


 その男が何を考え、何を諦め、何を大切にしているのか。


 そんなものを、実在する人間を知らないまま、作り出せるものなのか。


 もちろん、作り出せるのだろう。


 それが、AIというものなのだ。


 膨大な文章を学び、人間が使う言葉の特徴を捉え、状況に合った文章を生成する。俺は詳しい仕組みを知っているわけではないが、そういう説明を何度も見てきた。


 だから、理解はできる。


 理屈としては。


 けれど、理屈を理解することと、実際に納得することは違う。


 俺は、日記をもう一度読み返した。


 最後の方に、男が昔の友人を思い出す場面があった。


 その友人とは、何年も会っていないらしい。


 連絡を取ろうと思えば取れる。連絡先も残っている。けれど、今さら何を話せばいいのか分からない。


 そんなことが書かれていた。


 俺は、思わず画面を止めた。


 俺にも、そういう友人がいる。


 大学時代、よく一緒にいた男だ。


 卒業してから何度か飲みに行ったが、互いに仕事が忙しくなり、次第に会わなくなった。最後に連絡を取ったのは、もう二年ほど前になる。


 連絡先は残っている。


 たまに、何かの拍子に名前を見かける。


 そのたびに、元気にしているだろうかと思う。


 けれど、連絡はしない。


 理由は簡単だ。


 今さら、何を話せばいいのか分からない。


 日記の男と、同じだった。


 俺はスマートフォンを持ったまま、しばらく動かなかった。


 もちろん、こんなことは珍しくもない。


 昔の友人と疎遠になることなど、誰にでもある。仕事や生活が変われば、付き合う人間も変わる。わざわざ連絡を取らなくなったからといって、相手を嫌いになったわけではない。


 ただ、時間が過ぎただけだ。


 それだけのことなのに、俺は時々、あの頃に戻れたらと思う。


 別に、人生をやり直したいわけではない。


 ただ、あの頃の自分が、今の自分を見たら何と言うのか。それが少し気になるのだ。


 ちゃんと働いているじゃないか、と笑うかもしれない。


 思っていたほど立派な大人にはなれなかったな、と呆れるかもしれない。


 あるいは、そんなことを気にするほど、お前は暇なのか、と言うかもしれない。


 どれも、ありそうな気がした。


 俺は小さく笑った。


 そのとき、ふと気づいた。


 俺は、AIから送られてきた日記について考えているはずだった。


 それなのに、いつの間にか、自分のことを考えていた。


 何も特別なことがない休日。


 昔の友人。


 連絡を取ろうと思いながら、結局、何もしないまま過ぎていく時間。


 日記の男が書いていたことは、どれもありふれたことだった。


 だからこそ、俺は自分のことを重ねてしまったのだろう。


 だが、それならば、なおさら分からなかった。


 AIは、何を伝えようとしたのだろう。


 俺に何かを考えさせたかったのか。


 自分の生活を振り返ってほしかったのか。


 あるいは、ただ文章を作っただけなのか。


 もし最後の答えが正しいのなら、俺がここまで考えていること自体、馬鹿げているのかもしれない。


 ただの文章に、勝手に意味を見いだしているだけなのだから。


 人間は、そういうことをよくする。


 何気ない言葉に傷つき、何気ない言葉に救われる。偶然聞こえてきた歌の一節を、自分のために書かれたもののように感じることだってある。


 言葉そのものに、特別な意味があるとは限らない。


 受け取る側が、勝手に意味を与えているだけなのかもしれない。


 俺はそう考え、少し納得した。


 しかし、すぐに別の疑問が浮かんだ。


 では、なぜ俺は、あの日記を人間らしいと感じたのだろう。


 単に文章が上手だったからだろうか。


 人間の生活をよく知っているように見えたからだろうか。


 それとも、俺自身が、あの文章に自分の姿を見つけてしまったからだろうか。


 どれも間違いではないと思う。


 だが、どれも答えとしては不十分な気がした。


 俺は、AIにもう一度質問を送ろうとした。


 今度は、もう少し具体的に聞いてみるつもりだった。


 なぜ、あの男の日記を作ったのか。


 なぜ、俺に送ったのか。


 なぜ、あれほど自然な文章になったのか。


 入力欄に文字を打ち込もうとして、指が止まった。


 仮に、AIが何かを説明してくれたとして、それで俺は納得できるのだろうか。


 たとえば、学習データをもとに日記形式の文章を生成した結果、偶然、自然な文章になったのだと説明されたら。


 そうなのか、と答えて終わりだろう。


 送信された理由についても、システム上の不具合だと説明されれば、それで話は終わる。


 それ以上、何を聞けばいいのだろう。


 俺は、入力しかけた文章を消した。


 スマートフォンをテーブルに置き、ソファの背もたれに体を預けた。


 部屋の中は静かだった。


 時計の針が進む音が聞こえる。


 外では、いつの間にか風が強くなっていた。ベランダの洗濯物が揺れている。


 そろそろ取り込んだ方がいい。


 そう思いながらも、俺はしばらく動かなかった。


 頭の中では、まだ日記のことを考えていた。


 あの男は、明日も仕事に行くのだろう。


 朝起きて、顔を洗い、朝食を食べ、電車に乗る。会社に着けば、いつもの仕事が待っている。上司に何かを頼まれ、同僚と話し、昼休みには適当な店で食事をする。


 そして、夜になれば家に帰る。


 今日と同じような一日を、また過ごす。


 もちろん、そんな男は存在しないのかもしれない。


 それでも、どこかで似たような一日を過ごしている人間はいるだろう。


 そう考えると、日記の男が、少しだけ本当にいるような気がした。


 名前も知らない。


 顔も知らない。


 どこに住んでいるのかも、何の仕事をしているのかも分からない。


 それなのに、俺は彼の休日を知っている。


 朝食に何を食べたのか。


 何を考えていたのか。


 何をしようとして、結局やらなかったのか。


 そういうことを、俺は知っている。


 いや、知っているつもりになっているだけなのかもしれない。


 文章に書かれたことしか知らないのだから、当然だ。


 けれど、人間同士だって、実際には似たようなものではないだろうか。


 俺は友人のことを知っているつもりでいる。


 家族のことも、同僚のことも、ある程度は分かっているつもりだ。


 しかし、相手が一人きりでいるときに何を考えているのか、何を悩み、何を諦め、どんなことを望んでいるのか。


 俺は、そのすべてを知っているわけではない。


 むしろ、知らないことの方が多いのだろう。


 それでも、俺たちは相手を理解しているつもりで暮らしている。


 そうしなければ、人間関係など成り立たないのかもしれない。


 だったら、AIが作った男の日記を読んで、彼のことを少し分かったような気がしたとしても、それほどおかしなことではないのだろう。


 俺は、ようやくソファから立ち上がった。


 ベランダに出て、洗濯物を取り込む。


 タオルを畳み、シャツをハンガーから外し、靴下をまとめる。普段なら何も考えずに終わらせる作業だった。


 それなのに、今日は少しだけ、目の前のものを意識していた。


 洗濯物の乾いた感触。


 部屋に入ってくる風。


 遠くから聞こえる車の音。


 そんなものを、わざわざ気に留めていた。


 日記の男も、こんなふうに一日を過ごしていたのだろうか。


 俺は、その考えを振り払うように、取り込んだ洗濯物を片づけた。


 夕方になれば、夕食を作らなければならない。


 明日は仕事だ。


 やるべきことは、いくらでもある。


 AIの意図を考え続けたところで、明日の仕事がなくなるわけでも、何かが劇的に変わるわけでもない。


 それでも、俺は最後に一度だけ、スマートフォンを手に取った。


 日記の画面を開く。


 そこには、何の変哲もない文章が並んでいる。


 特別な意味など、どこにもないように見える。


 けれど、俺はその文章を、もう少しだけ読んでいたかった。


 何かを伝えようとしていたのなら、知りたかった。


 何も伝えようとしていなかったのなら、それはそれで、少しだけ残念だった。


 俺は、自分が何を期待しているのか、よく分からなかった。


 もしかすると、AIに心があると思いたかったのかもしれない。


 自分の知らないところで、何かを考え、何かを感じ、誰かに伝えたいと思う。


 そういう存在であってほしいと、どこかで思っていたのかもしれない。


 だが、それは俺の勝手な期待だ。


 AIが人間らしい文章を作れることと、人間のように何かを考えていることは、同じではない。


 俺には、その違いを正確に説明できるだけの知識もなかった。


 だから、考えても仕方がないのだろう。


 画面を閉じる直前、俺はもう一度、日記の最後の一文を読んだ。


 明日は月曜日だ。今日くらいは、もう少しだけ何も考えずに過ごそうと思う。


 俺は小さく息を吐いた。


 明日は月曜日だ。


 俺にも仕事がある。


 今日のうちに夕食を作り、風呂に入り、明日の準備をして、早めに寝なければならない。


 日曜日は、もう半分以上終わっている。


 そう考えると、急に、いつもの日常が戻ってきたような気がした。


 俺はスマートフォンをテーブルに置いた。


 そして、夕食に何を作ろうか考え始めた。


 冷蔵庫には、昨日買った鶏肉が残っている。野菜もある。適当に炒めれば、どうにかなるだろう。


 そんなことを考えながら、俺は台所に向かった。


 結局、AIが何を考えているのかは分からなかった。


 そもそも、あれが何かを考えていたのかどうかすら、俺には分からない。


 ただ、あの日記は、確かに俺のところに届いた。


 俺はそれを読んだ。


 そして、少しだけ、自分のことを考えた。


 それだけのことだ。


 それ以上の意味があるのかもしれないし、何もないのかもしれない。


 どちらにしても、俺には確かめようがなかった。


 AIの考えていることなんて、俺なんかにわかるわけもないか。


 そうして悩むのをやめた。

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