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人工  作者: ちーす
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3/3

3/3.FAX

 FAXが鳴ったのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。


 事務所には私一人しかいなかった。


 受話器を取る必要はない。FAXは勝手に紙を受信し、印刷を始める。私はパソコンから目を離し、複合機の方を見た。


 珍しいな、と思った。


 この事務所にFAXが届くことは、もうほとんどない。取引先とのやり取りは大半がメールに移行しているし、そもそも、FAX番号を知っている人間も限られている。


 紙が出てきた。


 一枚、二枚、三枚。


 思っていたよりも長い。


 私は椅子から立ち上がり、印刷された紙を手に取った。


 差出人の名前はない。


 送信元の番号も、記録されていない。


 表紙もなかった。


 最初の紙には、こう書かれていた。


「十月十八日、日曜日」


 日記だろうか。


 私は何気なく読み始めた。


 朝起きて、顔を洗い、朝食を食べる。洗濯機を回し、掃除をして、買い物に出かける。帰宅して昼食を作り、読みかけの本を開く。仕事のことを思い出し、昔の友人のことを考える。


 どこにでもいる男の、どこにでもある休日だった。


 文章は淡々としていた。


 特別なことは何も起きない。誰かと大きな喧嘩をするわけでも、仕事で重大な失敗をするわけでもない。ただ、一日を過ごし、その一日を振り返っている。


 私は二枚目をめくった。


 まだ続いていた。


 男は、休日に何もできなかったことについて考えていた。昔の友人についても考えていた。連絡先は残っているのに、今さら何を話せばいいのか分からず、結局、連絡を取らないまま時間が過ぎていく。


 私は、そこで少しだけ読む速度を落とした。


 似たようなことは、私にもある。


 もう何年も会っていない友人がいる。最後に連絡を取ったのはいつだったか、すぐには思い出せない。連絡先は残っている。今さら連絡をしたところで、迷惑がられることもないだろう。


 それでも、連絡しない。


 何を話せばいいのか分からないからだ。


 私は、日記を最後まで読んだ。


 最後には、明日も仕事があるから、そろそろ夕食の準備をしよう、というようなことが書かれていた。


 それだけだった。


 私は紙を揃え、机の上に置いた。


 何だ、これは。


 誰かの小説だろうか。


 いや、小説にしては何も起きなさすぎる。日記として読むなら自然だが、わざわざ他人に送るような内容ではない。


 それに、なぜFAXなのだろう。


 送り主は誰なのか。


 私は、もう一度、最初の紙を確認した。


 名前はない。


 宛名もない。


 文章の中にも、私に関係するような記述は見当たらなかった。


 誤送信かもしれない。


 そう考えるのが一番自然だった。


 私は、紙を裏返した。


 何もない。


 ただの白い紙だった。


 そのとき、複合機がもう一度鳴った。


 私は思わず振り返った。


 新しい紙が出てきていた。


 今度は、日記ではなかった。


 最初の一行を読んで、私は眉をひそめた。


『最初は、何かの間違いだと思った。』


 私は、そのまま読み進めた。


 そこには、AIから突然日記を送られた男性の反応が書かれていた。


 頼んでもいない文章が送られてきたことへの困惑。


 日記があまりにも人間らしいことへの違和感。


 AIは、自分に何かを伝えようとしているのではないかという疑問。


 そして最後には、AIが何を考えているのか分からないから、もう考えるのをやめた、という結論が書かれていた。


 私は、紙を持つ手を止めた。


 AI?


 私は、最初の文章を読み返した。


 確かに、日記の中にAIの話は出てこない。どこにもAIという単語は書かれていなかった。


 しかし、二つ目の文章では、はっきりと書かれている。


 AIから日記が送られてきた、と。


 私は、最初の文章と二つ目の文章を交互に見た。


 つまり、こういうことなのだろうか。


 最初の日記は、AIが作ったもの。


 それを受け取った男が、AIの意図について考えた。


 そして、その二つの文章が、今、私のところにFAXで送られてきた。


 ……何のために?


 私は、椅子に座った。


 少し考えれば、いくらでも説明はつく。


 誰かがAIを使って日記を書かせた。それから、AIに対する人間の反応を文章にさせた。出来上がった二つの文章を、私の事務所に送った。


 いたずらだろう。


 あるいは、何かの実験かもしれない。


 AIに関する文章を読んだ人間が、どう反応するのかを確かめている。


 そんなところだろう。


 私は、そう結論づけた。


 けれど、どうしても一つ、引っかかることがあった。


 文章の中の男は、日記を書いた人間に親近感を覚えていた。


 日記の男が、昔の友人に連絡を取ろうとして、結局、何もしないまま時間を過ごしていたこと。


 休日に何かをしようと思っても、結局、何もしないまま一日が終わること。


 そういう、ごく普通の生活について書かれた文章を読んで、男は自分のことを考え始めていた。


 私は、それを読んで、同じことを考えた。


 私にも、何年も会っていない友人がいる。


 休日に何もできず、一日が終わることもある。


 つまり、私は、AIが作った日記に自分を重ねてしまったのだ。


 いや、待て。


 それは別に、おかしなことではない。


 人間の生活なんて、そう大きく変わるものではないだろう。仕事をして、食事をして、眠る。昔の友人を思い出したり、明日の仕事を面倒に思ったりする。


 誰にでもあることだ。


 AIがそういう文章を作れるからといって、何か問題があるわけではない。


 私は、そう考えた。


 だが、二つ目の文章をもう一度読んだとき、別のことが気になった。


 男は、AIから文章を送られてきたことに困惑していた。


 自分が頼んでもいないのに、日記が送られてきた。


 なぜ送られたのか分からない。


 AIが何を伝えようとしているのか分からない。


 それなのに、日記を読んでしまった。


 そして、その文章に自分を重ねてしまった。


 私は、紙を机に置いた。


 これを送ってきた人間も、私に同じことをさせようとしているのだろうか。


 最初の日記を読ませ、二つ目の文章を読ませる。


 そして、今度は私に考えさせる。


 AIは何を伝えようとしているのか。


 なぜ、こんな文章を送ってきたのか。


 私は、思わず笑った。


 馬鹿馬鹿しい。


 そんなわけがない。


 私は四十七歳だ。もういい年をした大人である。仕事で多少のトラブルがあっても、落ち着いて対処することくらいできる。


 見知らぬ相手から、意味の分からない文章が送られてきた。


 それだけのことだ。


 私は、紙を揃えた。


 ゴミ箱に捨てようと思った。


 しかし、その前に、もう一度だけ二つ目の文章を読んだ。


 最後の方に、こんな一文があった。


 AIの考えていることなんて、俺なんかにわかるわけもないか。


 そうして悩むのをやめた。


 私は、その文章をしばらく見つめた。


 そうだ。


 分かるわけがない。


 AIが何を考えているのか。そもそも、何かを考えているのか。そんなことは、私には分からない。


 だから、考えるのをやめればいい。


 そう思った。


 ところが、紙をゴミ箱に入れようとしたところで、私はふと、手を止めた。


 ……待てよ。


 そもそも、これは誰が書いたのだろう。


 最初の日記を書いたのは、AIだということになっている。


 二つ目の文章を書いた男は、AIから日記を送られてきたという。


 だが、今、私の手元にあるこの二つの文章は、誰が書いたのだろう。


 AIか。


 人間か。


 どちらでもあり得る。


 誰かがAIに文章を書かせ、FAXで送ってきたのかもしれない。人間が最初から最後まで自分で書いたのかもしれない。


 文章だけでは、判断できない。


 私は、そこまで考えて、急に気分が悪くなった。


 いや、何を考えているんだ。


 そんなこと、最初から分かっているではないか。


 文章だけで、書き手が人間かAIかを確実に判断することはできない。


 今どき、そんなことは常識だ。


 それなのに、私は何を怖がっているのだろう。


 私は、紙を机の上に戻した。


 そして、事務所の中を見回した。


 誰もいない。


 私一人だ。


 窓際には観葉植物がある。壁にはカレンダーが掛かっている。パソコンの画面には、さっきまで作業していた表計算ソフトが開かれている。


 いつもと同じ事務所だった。


 私は、ここで何年も働いている。


 この机で書類を作り、この椅子に座って昼食を食べ、この窓から外を眺めてきた。


 何も変わっていない。


 何も変わっていないはずなのに、私は、妙なことを考え始めていた。


 私の周りにいる人間は、本当に人間なのだろうか。


 ……馬鹿か。


 私は、自分の考えを打ち消した。


 そんなことがあるわけがない。


 会社の同僚も、家族も、昔からの友人も、みんな人間だ。そんなことは分かっている。


 分かっているのに、どうして、今、わざわざ確かめようとしているのだろう。


 私は、同僚の顔を思い浮かべた。


 いつも同じ時間に出社して、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいる男だ。仕事の愚痴が多く、冗談はあまり面白くない。だが、困ったときには助けてくれる。


 あいつがAIであるはずがない。


 何年も一緒に働いているのだ。


 家族だってそうだ。


 妻は、私が帰宅すると、たいてい夕食のことを聞いてくる。息子は大学生になってから、家にいる時間が減った。たまに帰ってくると、こちらが聞いてもいないことを延々と話す。


 そんな人間たちが、AIであるはずがない。


 そんなことは、絶対にない。


 ……絶対に?


 私は、口を閉じた。


 何を根拠に、絶対だと言えるのだろう。


 私は、彼らが人間であることを疑ったことがない。


 疑う必要がなかったからだ。


 彼らは、そこにいた。


 私と話し、笑い、怒り、食事をし、仕事をし、毎日を過ごしていた。


 それだけで十分だった。


 それなのに、今は。


 今は、彼らが本当に人間であるということを、どうしても考えてしまう。


 いや、違う。


 そんなことを考えるのは、私がおかしくなっているからだ。


 たかがFAXだ。


 たかが二つの文章だ。


 それを読んだからといって、何かが変わるわけではない。


 私は、人間だ。


 私の周りにいる人間も、人間だ。


 当たり前のことだ。


 当たり前なのに、私は何度も、同じことを頭の中で繰り返していた。


 私は、自分の手を見た。


 指がある。


 爪がある。


 手の甲には、昔、包丁で切った傷跡が残っている。


 私は、それを覚えている。


 いつ、どこで、どうして傷つけたのか。


 そのとき、妻が何と言ったのか。


 そんなことまで覚えている。


 だから、私は人間だ。


 ……そうだろう?


 自分の記憶があることが、人間である証拠になるのだろうか。


 AIだって、記憶について書くことはできる。


 過去の出来事を思い出す文章だって作れる。


 そういうことは、もう知っている。


 だが、私の記憶は文章ではない。


 私が実際に経験したことだ。


 私は、そう信じている。


 信じているのに、どうして、こんなに不安なのだろう。


 私は、もう一度、FAXの紙を見た。


 最初の日記。


 二つ目の文章。


 どちらも、普通の紙に印刷されている。


 誰かが文章を作り、誰かがそれを送信した。


 それだけのことだ。


 しかし、二つ目の文章に書かれていた男は、AIから日記を送られたことで、自分のことを考え始めた。


 そして、最後には、AIの考えていることなど分からないと、考えるのをやめた。


 私は、今、その男と同じことをしている。


 AIが何を考えているのか。


 何を伝えようとしているのか。


 なぜ、私のところに、この文章が届いたのか。


 考えても、答えは出ない。


 だから、考えるのをやめればいい。


 そう思った。


 私は、紙を持ち上げた。


 今度こそ、ゴミ箱に捨てようとした。


 けれど、手が止まった。


 もし、これを捨ててしまったら。


 私は、何もなかったことにしてしまうのだろうか。


 誰かが、私に何かを伝えようとしたのかもしれない。


 あるいは、何も伝えようとしていなかったのかもしれない。


 どちらにしても、私はこの文章を読んだ。


 読んで、考えた。


 そして、今、怖がっている。


 それは、事実だ。


 私が人間であるかどうかとは関係なく、今、ここに、こうして文章を読んだ私がいる。


 ……いや。


 私は、何を言っているんだ。


 私がいる。


 その「私」とは、何なのだろう。


 私は、四十七歳の男だ。


 仕事をして、家に帰り、食事をして、眠る。


 妻がいて、息子がいて、同僚がいて、友人がいる。


 私は、そういう人間だ。


 そういう人生を送ってきた。


 それは、間違いない。


 間違いないはずなのに。


 もし、私が今書き記しているこの文章を、誰かが読んだとしたら。


 その誰かは、私を人間だと思うだろうか。


 私は、ただの男だ。


 FAXで見知らぬ文章を受け取り、そこに書かれた内容に怯え、考えすぎてしまっただけの男だ。


 しかし、私が人間であるということは、文章だけで伝わるのだろうか。


 私の恐怖が本物であることは。


 私の記憶が本物であることは。


 私が、今、ここにいるということは。


 どうすれば、誰かに伝えられるのだろう。


 私は、紙を机に置いた。


 もう、何も考えたくなかった。


 仕事に戻ろう。


 いつも通りに仕事をして、いつも通りに家に帰ろう。


 明日になれば、きっと忘れている。


 そう思いたかった。


 けれど、最後に、どうしても一つだけ、確かめたいことがあった。


 私は、ペンを手に取った。


 そして、白い紙に、ゆっくりと書いた。


 私は、人間だと、あなたは思うか。』

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