7話
昼食を終えて研究室に戻った私は、酢酸エチルの合成を始める。エタノールと酢酸を混ぜて加熱する。このときに酢酸を過剰に使用することで反応時間を短縮することができる。
これを蒸留することで精製しても良いが、蒸留には時間がかかる。それを省略するために、先ほど分けてもらった重曹が必要不可欠になる。
「ここに約五パーセントの重量水を加えると、酢酸が取り除けるのよ。簡単でしょう」
私は意気揚々と説明するが、アルバートは興味なさそうな表情をしている。
「そうなんですね……」
重曹は塩基であるため、中和反応により酢酸を容易に除去することができる。これだけの操作で純度の高い酢酸エチルを得ることができるのだから、蒸留に比べると大幅な時間短縮だ。
また、この時に生成する酢酸ナトリウムは日持向上剤として最もよく使われる食品添加物である。幅広い細菌類の生育を抑える効果があり、短時間ではあるが食品の腐食を抑制することができる。
横目で見るとアルバートがあくびをしている。よく分からないことを説明され、退屈なようだ。私は注意する。
「アルバート、今後はあなたにもこの作業をしてもらいたいから、しっかり見て。それに、実験中に気を抜いていると大変なことになるのよ」
「ふぁい。すいません」
本当に理解しているのだろうか。化学実験は常に危険と隣り合わせだ。爆発火災や、危険な化学物質の被液、副生した毒ガスの吸入などで命を落とす危険性がある。
私は呆れながら、作業を進めた。
「これで酢酸エチルの量産化も大丈夫ね。それじゃあ次に行きましょうか」
それから、サリチル酸メチル、サリチル酸そしてアスピリンを次々と量産していく。これは前と同じ手順なので特に問題は起こらなかった。
私はもう一つの課題である、新しい薬剤の開発に取り組む。とはいっても、重曹を手に入れた今、それもほとんど完了しているようなものだ。私は重曹を手に取った。
「まず、重曹はそのまま農薬として使いましょう」
「農薬ですか?」
重曹は酢酸と同様に、環境や人体に影響が少ない特定農薬として知られている。水に溶解して散布すればそれだけで効果が得られる。
「それから、サリチル酸を重曹で処理すればサリチル酸ナトリウムになるわ」
「それは何に使えるんですか?」
「サリチル酸ナトリウムは注射剤ね」
「注射ですか……」
アルバートはあからさまに厭そうな顔をする。注射が苦手なようだ。今後言うことを聞かないようであれば、これで脅そうかな。
サリチル酸ナトリウムは、アスピリンと同じく解熱鎮痛剤だが、水溶性の化合物である。水性製剤にして静脈注射をすることができるので、アスピリンとの差別化が可能だ。経口投与ができない場合にこれを使おう。
「これで終わりですか?」
アルバートの表情が生き生きしている。終わったと思い込んでいるようだ。
「いいえ、まだよ。次の作業に移りましょう」
ここまで終えた私は、アルバートを引き連れて農家に向かう。
「次は一体なにをするんですか?」
「炭酸カリウムを抽出しましょう」
重曹から得られたヒントがもう一つだけあった。それがこの炭酸カリウムだ。
重曹の別名は炭酸水素ナトリウムといい、炭酸カリウムとはいとこのような関係だ。
「まずは農家から草木灰をもらってきて」
「わかりました」
草木灰とはその名の通り、草や木を燃やして灰にしたもので、天然の有機質肥料・土壌改良剤として農業に使われるものだ。ここに炭酸カリウムが多く含まれている。自分たちで草木灰をつくっても良かったが、工程を少しでも減らしたかったため、農家にもらうことにした。
「もらってきましたよ」
アルバートが草木灰を持ってきたので私たちは研究室に戻る。
「まずはそれを水に浸しましょう。そうすると水溶性の炭酸カリウムが水に溶けだすの」
アルバートは樽に水を張り、そこにどさどさと草木灰を入れていく。
「やりました。次はどうすればいいですか」
「このまま待っていてもいいんだけど、かき混ぜた方が早く抽出できるかもしれないから棒でかき混ぜてみて。それが終わったらろ過をして、草木灰を取り除きましょう。最後にその水を加熱して蒸発させれば、固体の炭酸カリウムが取れるはずよ」
アルバートは笑顔で「はい」と答えると作業を続ける。
あれ、と思った。さっきまでやる気のなかったアルバートが積極的に動いている。やはり有機合成よりもこういった作業の方が好きなのだろうか。
炭酸カリウムは、それ自体が食品添加物や肥料などに使えるが、それ以上に重要なのはカリウムという元素だ。これは動物や植物に必須であり、人間がカリウム不足になると低カリウム血症になる。その治療薬を含め、様々なカリウム塩を合成するために炭酸カリウムは使えるだろう。
ここまで頑張って付き合ってくれたアルバートには悪いが、サリチル酸ナトリウムと炭酸カリウムの二種類だけは量産をせず、少量だけ合成することにした。
サリチル酸ナトリウムは経口投与できない人限定で使うものだし、炭酸カリウムを肥料として使うなら、草木灰をそのまま使う方が効率良いだろう。人手や時間に限りがある以上、他の薬剤の量産に回した方が良いはずだ。
私たちは量産したアスピリンや酢酸、果実酒などを村中に配っていく。その中でも特に喜ばれたのは果実酒だ。
果実酒が大量に供給されたことで高級品ではなくなり、だれでも気軽に飲めるようになったため、それを祝した宴が開かれた。村人たちが果実酒を飲み、陽気に騒いでいる。
やはりみんなお酒が大好きなようだ。その姿を見て、私の方針が間違っていなかったことを確信する。この村に娯楽をいかに増やしていくか、それが今後の課題だろう。
私もアシスタントたちと乾杯する。
「みんな、お疲れ様」
「お疲れさまでーす」
「みんなの協力のおかげでここまでくることができた。本当にありがとう」
私は頭を下げた。
私ひとりではここまでやることはできなかった。仲間の大切さが身に染みた。これからもよろしく。そう心の中で呟く。
私が顔をあげると、みんなはお酒に夢中で誰も見ていなかった。私は何もなかったかのようにその場を離れた。
やがて宴もたけなわとなり、解散しようとしていた時だった。
「聖女様ありがとう。聖女様万歳!」
ひとりの男が言うと、堰を切ったように村のあちらこちらで私を称える声が響き渡ってきた。
それに苦笑いをしながら、皆に伝えた。
「私は聖女ではありません。科学者です」
私の話に村人たちは耳を傾けている。
「科学の力には無限の可能性があります。この村をもっと発展させることも可能です。これからも私に任せてください。私がこの村を救って見せます」
私は高らかに宣言した。




