4話
エタノールの消毒剤を全家庭に配り終えても、酢酸発酵の終了まではまだ一週間以上ある。その間に、残り半分のエタノールを使って溶媒の合成を行う。考えられるものはジエチルエーテルと酢酸エチルだ。
私はどちらの溶媒を合成するか考えていた。
ジエチルエーテルは、エタノールを脱水縮合すれば合成することができるので、今すぐに合成可能だ。しかし、沸点や引火点が低く、危険性が高い特殊引火物だ。
また、空気中で徐々に酸化して過酸化物を形成するため、爆発する恐れもある。元の世界では、工業的にほとんど使われなくなったものだ。
一方で酢酸エチルは、エタノールと酢酸を脱水縮合すれば合成できる。ジエチルエーテルと比べると安全性が高い。元の世界では、好んで使用されていた溶媒のひとつだ。
しかし、今はまだ手元に酢酸がないし、酢酸の製造にはエタノールの何倍も時間がかかる。
私はこれらを天秤にかけ、ジエチルエーテルの合成を行うことにした。今は危険性よりも時間を優先させるべきだ。
それに、ジエチルエーテルを使用したことはあるが、引火したことはない。昔はガスバーナーで蒸留をしていたらしいので、焚き火で加熱してもおそらく大丈夫だろう。
今回はジエチルエーテルの合成を反応蒸留で行うことにした。
反応蒸留とはその名の通り、反応と蒸留を同時に行う操作である。生成物が反応を阻害する場合、蒸留をしてその生成物を除去すれば反応が円滑に進行するようになる。
私は適当な触媒を少量加えてからエタノールを加熱する。反応が進行すると、沸点の低いジエチルエーテルが徐々に受器に溜まっていく。私はじっとその様子を見ていた。
順調そうだ。そう思った刹那、ボッという音が聞こえた。焚き火から火の粉が飛んだのだろうか。ジエチルエーテルに引火してごうごうと燃えている。
これはまずい。急いで消火しないと。
私はあわてて受器に砂を入れて、窒息消火を行った。まだ少量だったのが幸いし、すぐに鎮火したが、火を消し終えた私はげんなりした。
今日はもうやめようかな。帰って横になりたいな。そう思ったが、とにかく時間がない。
研究はトライアンドエラーだ。仕方がない。次頑張ればいい。と自分に言い聞かせた私は気力を振り絞り、合成を再開する。
反省を活かして、私は焚き火を弱めることにした。そして、生成したジエチルエーテルを火元から遠ざけることで無事に合成することができた。この作業を一週間かけて行い、エタノールをすべてジエチルエーテルに変換した。
合成が完了したタイミングで酢酸の発酵状態を最終確認する。酸っぱい匂いがする。それを指に取り、舐めて確認する。おそらく問題なさそうだ。
酢酸もエタノールと同じ要領で蒸留した。合成に使う酢酸は瓶の中へ保管し、残りは農薬用として水で希釈して小分けする。これを定期的に散布すれば、作物の害虫退治や病気の予防になるはずだ。
「聖女様。次はなにをするんでしょうか?」
手伝いに来てくれた村の青年に聞かれた。
次にやること、それは決まっている。消毒剤ができた以上、今度は医薬品をつくる。サリチル酸メチルを入手したときから考えていたことだ。
「次はサリチル酸メチルの抽出をします。そのあと加水分解をしてサリチル酸へ、それをアセチル化して、アセチルサリチル酸 (アスピリン) を合成します」
「えっと……。さり、めち?」
青年に伝えるとその表情はぽかんとしている。当然だろう。この世界の科学技術はあまり発展していない。専門用語を理解できるはずもない。その説明の時間も惜しいので放っておく。
サリチル酸メチルは、シラタマノキに含まれている鎮痛成分であり、湿布などに使用される。すでにこの村でも使用しているが、抽出せずにそのままシラタマノキの果汁を使用していた。
しかし、抽出、単離をして純度を高くしたほうがより効果的なはずだ。これを抽出するために、苦労してジエチルエーテルを合成したのである。
今回の目的はそれだけではない。むしろこちらのほうが重要である。
単離したサリチル酸メチルを加水分解してサリチル酸を合成する。加水分解とは、読んで字の如く、水を加えて原料を分解する反応だ。
このように有機合成では、化学物質を合成するときに原料は分解されてなくなる。何かを“つくる”ことは何かを“こわす”ことと同義と言えるだろう。
それから酢酸を脱水縮合して無水酢酸をつくり、サリチル酸と無水酢酸からアセチルサリチル酸を合成する。アセチルサリチル酸はアスピリンとも呼ばれる解熱鎮痛剤だ。発熱や頭痛、歯痛などを和らげるために使用されている。
「シラタマノキの果実を粉砕してください」
私はシラタマノキの果実を青年に渡してお願いする。この青年は有機合成を知らない。任せられるのは肉体労働だけだ。
粉砕してもらったものに水を加えて棒でかき混ぜる。これを加熱して水と一緒にサリチル酸メチルを蒸留 (水蒸気蒸留) したあと、留分にジエチルエーテルを加える。
ジエチルエーテルは油なので水とは混和せず、水に浮くようになる。この上澄みをすくってとり、水で洗浄したあとにジエチルエーテルを除去すれば、サリチル酸メチルの単離は完了である。
続いて、サリチル酸メチルを加水分解すると、サリチル酸とメタノールに変換される。サリチル酸は熱水には溶解するが、冷水には溶解しにくいため、結晶が析出してくる。
このように、溶解度の差を利用して結晶を析出させる方法を晶析という。この結晶を集めて乾燥させればサリチル酸が得られる。
このサリチル酸自体は白癬菌(水虫の原因菌)に対する抗真菌作用を持っている。お風呂に入ることが容易にできないこの村では、重要な薬剤になるかもしれない。
解熱鎮痛作用も持っているが、副作用が強く、胃潰瘍などを引き起こす可能性がある。そのため、最後のひと手間が重要になる。そのひと手間がアセチル化だ。
酢酸を熱分解してケテンを発生させて、さらに酢酸と反応させれば無水酢酸が合成できる。
サリチル酸と無水酢酸を混ぜて加熱したあとに、エタノールと水を加える。それを冷却すると、サリチル酸のときと同様に結晶が析出してくるので、これを乾燥させれば終了だ。
「できた! アスピリンの完成!」
私は歓喜の声を上げた。
「ああ、終わったんですか?」
私の実験を退屈そうに見ていた青年が、あくびをしながら言った。私と彼の温度差を感じ、若干切ない気持ちになる。
本来なら機器分析で純度を確認したいところだけれど、こんなところでできるはずもない。再結晶を念入りにやっておけば大丈夫なはずだ。本来なら製剤化もしたいところだけど、それも難しいだろう。
得られたサリチル酸メチルとアスピリンをそれぞれ小型の瓶に分け、各家庭に配布した。
「サリチル酸メチルは布に染み込ませ、患部に巻き付けてください。アスピリンは体調の悪いひとに少しずつ飲ませてください」
これでひとまずできることはやった。あとは結果を待つだけだ。
私が薬剤を合成してから数か月経過したころに、目に見えて効果があらわれてきた。
村長に呼び出された私は村の中心地へ向かうと、村人たちが集合していた。
「わしの腰痛が楽になった」
「頭痛が治りました」
「作物が順調に育っております」
次から次へと村人たちから私のところへ報告が上がる。どうやら結果は良好なようである。ほっとした私は村人たちに言う。
「薬剤が足りなくなったら、いつでも遠慮なく言ってください」
「さすがは聖女様。感謝してもしきれません」
私の隣にいた村長が慇懃に頭を下げる。
「何度も言いますが、私は聖女ではありません」
私は笑顔で否定した。
「聖女様、これからもこの村をお守りください」
相変わらず人の話を聞かない村長は、私の否定を無視すると、私に祈りを奉げる。
村長に続いて村人たちも、神を崇めるかのように、私に祈りを奉げている。
「みなさん、顔を上げてください。私はみなさんと同じただの人間です。私ひとりにできることなんてたかが知れています。みなさんと一緒に、この村をより良い村にしたいと思っています。ご協力よろしくお願いします」
私は頭を下げる。その瞬間辺りは熱狂に包まれた。その姿を見て強く思う。
私はこの村を救いたい。私ならそれができる。この物語の主役は私なんだ。
ようやくここで生きていく覚悟が決まった。




