3話
「はぁ……」
何度目になるか、私は深いため息をついた。
あのあとすぐに家に戻り、意気込んでいた私であったが、すぐに壁にぶち当たった。
「そもそも、どの植物にどんな成分が含まれているかなんてわからないよ。サリチル酸メチルは、香りが特徴的だから運よくわかったけど……」
つい愚痴をこぼしてしまう。先ほどの勢いは完全に失われていた。
草や木、果実などには様々な化学物質が含まれている。元の世界では、多くの化学物質が単離されており、その中には医薬品やその原料になり得るものも数多くある。
しかし、元の世界では多くの化学物質が市販されており、容易に入手可能だ。わざわざ草木から抽出や単離、精製することなど、ほとんどないと思う。少なくとも私は一度もなかった。
また、知りたいことはその度に書籍やインターネットを利用して調査すればいいため、合成化学者である私は、天然物質に関する知識をあまり持っていない。
サリチル酸メチルを発見したときのようにトライアンドエラーで挑戦することも考えた。しかし、機器分析ができないこの世界では、その化学物質の構造を特定することは困難である。それが薬になるのか毒になるのかの判断がつかないため、下手をしたら今度こそ服毒により命を落とす可能性がある。
今の私には、やるべきことが分かっていても、どうすればいいのか皆目見当がつかないのだ。
今夜は私の歓迎の宴を催してくれるそうだ。それまでになんとかアイディアを捻り出したい。宴の席で何かしらの解決策を発表できれば、みんなも気持ちよく飲み、騒げるはずだ。
私は時間ぎりぎりまで悩むことにした。
「聖女様。歓迎の宴だ。さあ、飲んで、飲んで」
「ありがとうございます」
酒場のマスターから差し出された飲み物を受け取る。
「大丈夫かい。元気がないようだが」
「大丈夫です。すいません、ご心配をおかけして」
結局、何もアイディアを思いつかなかった私は、ぼんやりしていて何も話を聞いていなかった。周りを見渡すと、村人たちが陽気に盛り上がる姿が見える。この空気を悪くしてはいけない。私もこの席を楽しもう。細かいことを考えるのは明日だ。
私は手渡された飲み物に口をつける。あれ、この味は……。私はマスターに尋ねる。
「これはお酒ですか?」
「そうだよ。葡萄からつくった酒だ。うまいだろ」
ワインか……。そうだ。前にシラタマノキの果実を果実酒に使うと言っていたではないか。元の世界でも、お酒は紀元前から嗜まれていたものだ。この村にあっても不思議ではない。なぜこんな簡単なことに気づけなかったのだろうか。
私は頭の中でシミュレーションを開始する。
いわゆる酒の主成分は水とエタノールである。このエタノールは、手指や身の回りの消毒に使用できて、細菌や真菌、ウイルスにも効果がある。
元の世界でも多用されるほど優れた消毒剤だ。この村で使用すれば、多くの感染症から身を守ることができるだろう。
また、エタノールを酸化させれば酢酸になり、優れた殺菌・静菌効果を示す。これは人や環境への影響が少ない特定農薬として使われている化学物質だ。これで農業の生産効率が上がるかもしれない。
さらに、合成原料として利用すれば、ジエチルエーテルや酢酸エチルなどの液体を合成することができる。これらは合成や抽出を行う上で有用な溶媒だ。
私の目の前がパッと明るくなった。これだ。これしかない。私は勢いよく立ち上がる。
「お酒を分けてもらえませんか? できるだけ大量に」
そう言ってマスターを見ると、目をぱちくりさせている。
しまった。名案が浮かんだので勢い任せに言ったものの、この村におけるお酒は高級品だ。それを大量に要求したら怪しすぎるし、そんなに大量に譲ってくれないだろう。
聖女の立場を利用すれば可能かもしれないが、村人たちから反感を買うかもしれない。
そんなことを考えていると、冷静さを取り戻したマスターが言う。
「悪いが、この宴に出ている分ですべてだ。もうほとんど残っていない」
そうか。高級品以前の問題だった。
そもそも、農業がうまくいっていないため、この村は食糧難である。つまり、お酒も余分にあるわけないのだ。今回は聖女の歓迎ということで、貴重なお酒を出してくれたのだろう。
病気を防ぐためには、消毒剤のエタノールが必要、農業の生産効率を上げるためには、農薬として使用できる酢酸が必要。
でも、その農業がうまくいっていないのだから、米やブドウ、イモ類などが不足しており、酒造りに回す余裕がない。
酒造りができないのであれば、エタノールは手に入らない。エタノールがないのであれば酢酸は手に入らない。酢酸が手に入らないのであれば……。八方塞がりだ。
「詰んだ~!」
私は上空を見上げて叫んだ。
周りの人が驚いて私を見ている。その視線に気づかないふりをして大きくのけぞった。
もういいや。やっぱり考えるのは明日にして、今日は飲んじゃおう。コップを掲げ、夜空に向かって「乾杯」と呟いた。
翌朝、目が覚めた私は頭痛に悩まされていた。二日酔いだ。何もする気が起きない。しばらくダラダラと過ごしていると、二日酔いがだんだんと覚めていく。それに伴って、現実に引き戻されていく。
せっかく浮かんだアイディアは、お酒が手に入らないために頓挫してしまった。早いところ他のアイディアを考えないといけない。
私はまた山を散策することにした。まだ若干お酒が残っているが、深呼吸をするとすがすがしい気持ちになる。
気分転換をすることで、新しいアイディアが舞い降りてくるのは、研究者あるあるだ。とりあえずあてもなく歩き続ける。
ふと見ると、昨日摘み取ったシラタマノキの果実が目に入った。
そういえば、この山にはまずくて食べられない実がたくさん成っている、と村長が言っていたはずだ。それらは、飲酒用のお酒には使えないかもしれないが、今回必要なお酒は飲酒用ではないし、蒸留するのだから問題はないはずだ。
今度こそ大丈夫だ。これしかない。
私は昨日と同様に村へ急いで戻ると、村長の家に勢いよく飛び込んだ。
「村長さん、山になっている果実を摘み取ってもよろしいでしょうか?」
私の勢いに押された村長は、目を瞬かせて「どうぞ」と言った。
再び山に登った私は、岩に腰掛け、右腕の拳を顎に当てて俯く。食べられない果実を使うといってもなんでもいいわけではない。
適度にデンプンやグルコース、フルクトースなどの糖を含んでいないとお酒にはならない。果実の選択が重要になる。時間をかけてじっくり考えよう。
私が選んだ果実はノブドウだ。熟考を重ねた結果、私は一つの結論にたどり着いた。どれが最適な果実なのか、そんなこと私にわかるはずがない。でもノブドウはブドウの仲間なので、おそらくワインができるだろう。
……少し浅はかな考えかもしれないが。だめだったとしてもトライアンドエラーでなんとかなるはずだ。
村の青年にも協力してもらってノブドウを摘み取っていく。どれくらい必要なのかよくわからないので、籠いっぱいになるまで摘み取ると村へ戻る。
ノブドウを樽に入れ、ブドウ踏みの要領で踏みつぶす。グジュグジュとして変な感触だ。足にまとわりついてくる。
いつまでノブドウ踏みをやればいいのだろうか。よくわからないが、だんだんと楽しくなってきた。童心に返って、テンション高くはしゃぐ。
樽内のすべての果実が潰れたら、別の樽へ移動してまたノブドウ踏みをする。これを繰り返し、用意したノブドウをすべて踏みつぶした。
このノブドウ果汁を一週間ほど放置すれば、アルコール発酵により、ノブドウに含まれるグルコースやフルクトースからエタノールができるはずだ。
この日の仕事を終えた私は家に戻り、今後のことを考えていた。これから先のことは、すべてこのエタノールが起点になる。今日と同じ作業を繰り返してできる限り多くのワインをつくろう。そんなことを考えていた時だった。
「うっぷ」
なぜか急に吐き気をもよおした。
これを繰り返す? 冗談でしょう。
ハイテンションのままノブドウ踏みをやり続けた結果、足がパンパンになっており、疲労困憊である。気持ちは子供だったけど実際はアラサー、身体は正直だ。
これをまたやらなければならないことに絶望しかない。もうだめだ。今日はこのまま寝よう。
翌日以降もノブドウワインの仕込みを行う。ときどき村人たちが手伝ってくれたが、彼らにも仕事がある。ほとんどの作業をひとりで行っていた。最初はハイテンションでノブドウ踏みをしていた私だが、当然のようにペースは落ちていった。
最初に仕込んだノブドウワインの発酵終了まで残り一日になったので、次の準備を始めなければならない。想定していたほどの量は仕込めなかったが、いつまでもワイン造りに時間をかけることはできないので仕方がない。
このままノブドウワインを放置していてもエタノールが徐々に酸化されて酢酸になるだろうが、それでは時間がかかる。今のこの村にそんな余裕はない。今後の酢酸発酵には種酢が必要だ。
この村にお酒があるのであれば、当然、食酢もあるはずだ。私はいつもどおり、村長の家に勢いよく飛び込んだ。
「村長さん、お酢を分けてください」
「お酢ですか?」
「はい、お酢です。持っていませんか?」
「ここにはありません。おそらく、食堂ならあるでしょう」
私はお礼を言って村長の家を出ると、食堂へ向かい、お酢を分けてもらった。
次の日に私は樽の中身を確認した。しっかり発酵して、ノブドウワインになっているようだ。ここに、食堂からもらった食酢を種酢として加え、棒でかき混ぜる。
酢酸は、種酢に含まれる酢酸菌が空気中の酸素を利用してエタノールを酸化することでつくられる。
食酢を製造する際によく行われる静置発酵は、まろやかで旨味のあるお酢になるが、エタノールの内部まで酸素が行き渡りにくいため、発酵に時間がかかる。
今回は時間短縮のため、酸素が全体に行き渡るように定期的にかき混ぜていく。
酢酸ができるまでにどのくらいの期間が必要なのかわからないので、一か月と仮定した。あとは臭気と味覚で判断しよう。
その間に、酢酸作りに使用しないワインを蒸留して、できる限り純度の高いエタノールに精製しよう。
蒸留とは、沸点差を利用して化学物質を分離する精製操作である。ワインの主成分は水とエタノールであり、沸点はそれぞれ百度、七十八度だ。つまり、七十八度で蒸発した留分を集めればエタノールが得られる。
しかし、水とエタノールは共沸するので純粋なエタノールを得ることはできない。精留という方法が使用できれば良いのだけれど、この世界の設備では単蒸留しかできないため、複数回の蒸留が必要だ。
まず、ワインからノブドウの皮や種子を取り除くためにろ過を行う。
ろ過とは、液体と固体を分離する操作だ。小さな穴が開いた紙や布に液体と固体の混合物を通すと、液体は穴を通過する。しかし、穴より大きい固体は通過することができないので、固体と液体を簡単に分けることができる。
ろ過に使用できそうな布を村長からもらうと、ワインを柄杓ですくって布を通していく。樽を持ち上げて中身を移すことができれば楽だけど、私にそんなことはできない。地道にやっていこう。
不純物を除いたワインを加熱すると、エタノールが蒸発して気体になる。この蒸気を冷却すれば液体に戻り、エタノールが得られる。この作業を数回繰り返せば、約九十六パーセントのエタノールになる。
数週間かけて、私はすべてのノブドウワインを蒸留した。得られたエタノールの半分は、消毒剤に使うので、水で約八十パーセントに希釈し、瓶に小分けした。
これで村人たちを感染症から守ることができるはずだ。私は急いで村中を駆けまわり、消毒剤を配る。
「これは消毒剤です。布に染み込ませて、手や身の回りのものを拭いてください。そうすれば、病気を予防できるはずです」




