20話
「発熱していて、咳もひどくて。もうどうしたらいいのか……」
研究室にいた私は、駆け込んできた畜産家の奥さんの話を聞いていた。どうやら畜産家が病気にかかったようだ。私はアルバートとシェーナを引き連れてすぐに現場へ向かう。
話を聞く限りでは肺炎、いや、もしかしたらインフルエンザかもしれない。私は手をエタノールで消毒し、布マスクを着けると病人に近づく。
「みなさんは外に出ていてください。感染が拡大する可能性があります」
私はみんなを追い出して、畜産家の容態を確認する。発熱、咳、全身倦怠感、筋肉痛などがあるようだ。やはりインフルエンザの症状に似ている気がする。これがインフルエンザなら、オセルタミビル(タミフル)が必要だ。たしか、文字通り、シキミに含まれるシキミ酸から合成できるはずだ。
「これはインフルエンザという感染症で間違いありません。感染拡大を防止するために、感染者を隔離してください。これからすぐに治療薬をつくります。アルバートはここに残って、もし急変したらすぐに知らせに来て」
「えっと、わかりました。何か注意することはありますか?」
「エタノールでこまめに消毒することとマスクを着用すること。これで感染する確率を低減させることができるから。あとはアスピリンを絶対に投与しないで」
そう言うと、私は研究室に戻ろうとしたが、シェーナが畜産家の前から動こうとしない。私はシェーナの肩を軽く叩く。
「シェーナ戻るよ。急いで」
「え。あ、はい」
私は急いで研究室に戻ると、頭の中でシミュレーションを開始した。いや、開始しようとしたが、シキミという植物を知らないし、シキミ酸からどのように合成すればいいのかもわからなかった。オセルタミビルの構造式も思い出せない。六員環だった気がするけど……。ダメだ、やはりわからない。
私が途方に暮れていると、シェーナが近づいてくる。
「あれはインフルエンザではないと思うのですが……」
「インフルエンザじゃない? どういうことかしら?」
「インフルエンザにしては感染被害が少ないように感じます。ご家族の方も感染していないようです。それに……」
「症状は間違いなくインフルエンザだった。ご家族の方は潜伏期間中でこれから発症するかもしれない。それに濃厚接触したとしても絶対に感染するわけでもない。あそこにはエタノールもあったし、しっかり消毒していたのでしょう」
シェーナの反論に、私は言葉を重ねた。
まだ何か言いたそうにしているシェーナを無視して考える。今はシェーナに構っている暇はない。ただでさえ薬の合成には時間がかかるのに、これ以上時間の浪費はできない。
インフルエンザ自体の致死率はそう高くない。無治療でも自然治癒する感染症だ。焦らずコツコツやっていけば大丈夫なはずだ。
翌朝、アルバートが研究室に駆け込んできた。
「畜産家の容態が急変しました」
「何があったの?」
インフルエンザで急変したということはインフルエンザ脳症だろうか。成人では珍しい合併症だ。
「それが、突然呼吸困難を起こして。今は奥さんが見ているんですけど、よくわからなくて報告に来ました」
「え? 呼吸困難?」
まさか肺炎か。インフルエンザは誤診だったのか。いや、もしかしたらインフルエンザの合併症で肺炎になったのかもしれない。
私は慌てて研究室を飛び出て、畜産家のもとへ向かったが、家に着いた時にはすでに息を引き取っていた。
「インフルエンザでこんなに早く人が亡くなることは稀です。やはり違う感染症なのではないでしょうか。もう一度検討しなおしましょう」
シェーナが遺体を前にして言う。
「インフルエンザでも高齢者や持病のある人は、突然死することもあるわ」
「でも……」
「それなら、他に感染者がいないか確認しましょう」
私は村中を駆け回り、ほかに感染者がいないか確認していく。どうやら複数人が異常を訴えているらしい。やはりインフルエンザだ。私は確信した。
そういえば、シェーナは以前不審な動きをしていた。まさか、ウイルスによるバイオテロを仕掛けたのではないか。だから、かたくなにインフルエンザを否定するのか。でもインフルエンザの致死率は高くないから、バイオテロとしては効率が悪い。いったい何を企んでいるのだろう。
私はシェーナを一瞥するが、特に変わった様子は見られなかった。
私たちは異常を訴えている人たちの容態を一人ひとり確認していく。すると、多くの感染者に水疱が形成されていることに気が付く。
これは一体なんだ……?
私の思考が停止する。インフルエンザにも肺炎にもこんな症状はなかったはずだ。
「これは炭疽だと思います。インフルエンザではありません」
感染者を確認したシェーナが冷静に言った。
炭疽? 聞いたことがある。たしか家畜の感染症だったはずだ。ヒツジが死んだ原因はそれか。でも今はヒツジのことなんて関係ない。
「炭疽は家畜の感染症でしょう。関係ないわ」
否定した私に対してシェーナはかぶりを振る。
「炭疽は人獣共通感染症です。ヒツジなどの草食動物は感受性が高く、空気中のわずかの炭疽菌でも感染して急性敗血症で死亡します。人は感染した動物の毛皮などに触れたり、炭疽菌を吸い込んだりすることで感染します。人が感染する場合、感染の仕方によって、皮膚炭疽、肺炭疽、腸炭疽そして髄膜炭疽に分類されます。感染者の約九五パーセントが皮膚炭疽といわれていて、この方たちの症状は皮膚炭疽のものです。人間同士では感染しないので、そこまで大きな被害になっていないのでしょう」
私は言葉を失って立ち尽くす。私が購入したヒツジが原因ってこと?
シェーナが大きく息を吐いた。
「肺炭疽になることは稀ですが、畜産家の方は接触機会が多かったですし、感染したヒツジの死骸も埋めていますから、その時に炭疽菌を吸い込んで感染したのでしょう。初期段階はインフルエンザに似ていますが、第二段階へ移行すると突然呼吸困難になり、二十四時間以内に亡くなることがほとんどです。でも、他の方たちは皮膚炭疽です。自然治癒する可能性もありますが、未治療時の致死率は二十パーセントほどだったと思います。すぐに対処すれば間に合うはずです」
炭疽の原因って何? 治療薬は抗生物質? 抗真菌薬? なにが効くの?
「どうしますか? 指示をください。お願いします」
シェーナが私の両肩を掴み、直視してくる。
「私は、その……」
どうしよう。私は頭が真っ白になった。
「……これを感染者のみなさんに静注してください」
血の気が引いた顔のシェーナに何かを渡される。
「これは何……?」
私は声を絞り出した。
「急いでください。時間がありません。手分けしましょう」
何が何やらさっぱりわからないが、解決策が思いつかない私は素直に従った。
症状を訴えている人たちに次々と静脈注射をしていく。一通り投与を終えると、私たちは研究室に戻った。
冷静になった私は、改めて尋ねる。
「さっき渡してくれたものは何だったの?」
「これです」
先ほどとは打って変わって穏やかな表情のシェーナは、手に持っているものを見せてきた。
「これは……、アオカビ?」
「はい。アオカビです。可愛いですよね」
よくわからないことを言っているが、私は理解した。彼女はペニシリンを単離していた。ペニシリンはアオカビが生産する化合物で抗生物質だ。多くの感染症の治療薬として使えるはずである。今回の炭疽にも有効だったのだろう。
こんなものいつの間に。一体どうやって。
私は彼女を訝しんだが、何も言うことができなかった。今回は間違いなくシェーナに助けられたからだ。それにケチをつけるようなことはしたくなかった。
アオカビを見ていたシェーナが私に言う。
「様子を見ながらこれを数時間に一回投与しましょう。それをしばらく継続すれば大丈夫だと思います」
「うん」
「それと、ヒツジの死骸はすぐに焼却しましょう。死骸をそのままにしておくと危険です」
「……わかった」
あれから二週間が経過した。症状があった人たちはみんな完治したようだ。もう大丈夫だろう。
炭疽の問題が解決したため、今日は慰労会という名目で、村人たちを研究室に招待している。今日の主役は私ではない。シェーナだ。
村人たちやアシスタントたちが彼女をもてなしている。
私はみんなから離れた壁際で、シェーナを凝視してひとり考えていた。
この女は一体何者なんだろう。ペニシリンなんてどうやって手に入れた。この世界にいて、なぜそんなことができる。
そんな私の視線に気が付いたのか、シェーナがニコッと微笑み、私の近くに寄ってきた。
「お疲れ様でした」
私の体が強ばる。
「お疲れ様。今回はありがとう。本当に助かったよ」
「いえいえ。運がよかっただけです」
運? 本当に?
私は唾をのむ。一瞬、沈黙の時間が流れ、突然シェーナが言い出す。
「あなたは異世界からやってきた転移者なんですよね?」
「ええ、そうだけど……」
最初に村長からもそう説明があったはずだ。いまさら何を言っているのだろうか。彼女に対する疑念は深まるばかりだ。
「実は、わたしもそうなんです」
微笑みながらシェーナが言った。
私は虚をつかれて言葉を失う。
この女も転移者だったのか。言われてみると違和感があった。
最初に出会った場所は、私が転移してきたところに近いところだった。
元の世界の言葉、から揚げや化学の専門用語も知っていた。この世界の住人であれば知るはずのない言葉だ。他にも……。
「わたしのことを覚えていませんか?」
シェーナは自分のことを指差し、私に尋ねてきた。
出会った時から既視感を覚えていた。この笑顔を私は知っている気がする。どこで会ったのだろう。
「お久しぶりです、月見里さん。椎名です」
頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
そして、彼女は私に言った。
「あの感染症事件、犯人はあなたですよね?」




