1話
「うーん」
目を覚ました。まだ夜明け前なのか、あたり一面は真っ暗闇である。妙に薄気味悪い。少し背伸びをする。寝相が悪いためか、それともこんなところで寝ているためか、身体の節々が痛む。
変な臭いがする。辺りの臭いをかぐとその正体が分かった。私だ。汗臭い。温泉にでも行って癒されたいが、そんな時間はない。
今日は会社に行ったらあれをしてこれをして。出社後のシミュレーションを頭の中で行う。研究者は計画が重要だ。このシミュレーションは私のルーティーンである。
そんなことを考えていたが、私はここがどこであるのかを理解している。しかし、理解していても、いまだにその事実を受け入れることができず、現実逃避をしていた。
部屋の外から声が聞こえる。内緒話をしているのだろうか。声が小さく、しっかりと耳を傾けないと話が聞こえない。
「聖女様が来てくれたおかげでこの村も安泰だな」
「あのお方こそ真の聖女様だ」
そんな会話を聞いて、私はこれまでの出来事を思い返した。この世界に転移してから既に五年の月日が流れ、その間、私は聖女と呼ばれていた。
この世界に転移した私は、村人たちに連れられて村長の家に向かっていた。それに抵抗することなく、おとなしく従う。もしかしたら殺されるかもしれない。その恐怖が頭から離れないからだ。
「聖女様、よくお越しくださいました。わしはこの村の村長をしております」
村長はとても穏やかな表情を浮かべている。少なくとも敵意はないようだ。少しだけ安心した私は、勢い任せに質問を重ねる。
「いったい、ここはどこなんですか? 私はなぜここにいるんですか? もしかして、私はすでに死んでいて、ここは天国なんでしょうか?」
異世界転移なんてものは所詮フィクションであり、現実に起こるはずがない。槍を向けられる場面など、私の人生には存在しない。
「どうか落ち着いてください、聖女様。この村では二百年に一度、異世界から聖女様をおよびし、守護していただいているのです」
異世界転移をさも当たり前のように言う。私はまだ受け入れられないのに……。それに、よりにもよって聖女? なりたくない役職ベストスリーである。
そもそも、聖女とは何なのだろう。不思議な力で魔物を倒したり、結界により村を守ったり、祈りを捧げることで荒地を豊穣の地にしたり、癒しの力で傷病人を治癒したり……。
私はネット小説などの聖女像を頭に浮かべ、すぐにそれを消し去った。そのような不思議な力を持っているはずもない。
私が無言で考え事をしていると、不満が顔に出ていたのか、村長は何か言い訳じみたことを口にする。
「二百年周期ですと、どうしても時間があいまいになってしまって。まだ数年先のことと考えておりましたので、歓迎の準備ができておらず申し訳ない。汚いところですがどうぞ」
村長は手のひらを上に向け、その手を椅子の方へ向けた。その席に、ガラス瓶に入った水が用意される。これが今できる最大限のもてなしのようだ。
迎え入れる態勢が整っていないことに対して、不機嫌になっていると思われたのだろうか。だが、私にとってそんなことなど問題ではなかった。まだよくわからないが、面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ。とりあえず否定しておこう。
「申し訳ありませんが、私は聖女ではありません。ただの人間です。お願いですから元の世界へ戻してください」
不安で涙があふれそうになる。
「聖女様、残念ながら元の世界に戻ることは不可能なのです。これはあなたの運命なのですから」
「運命? 何か勘違いしているんじゃないでしょうか。私は超能力のような不思議な力を持っていません。結界を張ることも、魔物退治もできません」
「ちょうのうりょく? まもの? 言っていることがよくわからないのですが……」
困ったような表情を浮かべている。そんな言葉が、この世界の人に伝わるわけがない。でも、本当に困っているのは私の方だ。あなたたちではない。
「とにかく聖女様、この村をどうかお救いください」
そう懇願されても、私にはどうすることもできない。私はただの人間だ。この人たちには気の毒だが、それが事実である。これ以上は余計な期待を持たせないほうがいいだろう。しっかり否定しないと。
「ですから、私は聖女ではなくて……」
「まあまあ。とりあえず村を案内しましょう。聖女様」
「いや、あの……」
必死に否定しようにも、村長はまったく聞く耳を持ってくれない。周りに助けてくれる仲間もいない。いるのは、なぜか陽気に盛り上がっている村人たちだけだ。半ば強引に村を案内される。
これから私はどうなってしまうのだろうか。
やむを得ず、村長に村を案内してもらう。ここに来た時にも思ったが、ずいぶん寂れたところだ。建物は今にも倒壊しそうで、畑では作物が枯れ果てている。ブタなどの家畜はいるが、痩せて弱々しい。都心で生まれ育った私には見慣れない光景だ。
すれ違う人たちを一瞥した。先ほどは恐怖のあまり気が付かなかったが、明らかに覇気がない。病的に痩せている人も少なくない。
「ご覧の通り、畑は全滅、人々は疲弊し、病に侵されております」
私の心を見透かしたように村長が言った。
おそらくは、畑が病害や自然災害などによって被害を受けているのだろう。その対応に追われて人々は疲弊し、食糧不足による栄養失調、さらに病気の感染……。
「聖女様、この村を、我らをどうかお助けください」
村長が私の目を見つめ哀願した。
この現状を目の当たりにした私は、ようやく理解した。この人たちだけでは、この問題を解決することができない。人々を癒し、農地を豊かにする、そんな不思議な能力を持つ聖女がこの村には必要だ。
これまでに何度も否定してきたが、聞く耳を持ってくれなかった。それだけ危機に瀕しており、私に頼るほかなかったのだろう。
この村を救いたいと心から思った。それでも、私にはそんな力はない。
……いや、待てよ。もしかしたら。そんな気持ちがよぎる。異世界転移したくらいだ。不思議な力が使えてもおかしくはない。私の常識など、ここでは通用しない。
私は胸の前で手を組み、瞼を下ろして、心の中で祈りを捧げた。
(神よ、この村の人々は疲弊しています。もし私が本当に聖女であるならば、どうか私の願いを聞き入れ、この村を救いたまえ)
……何も起こらない。どれくらいの時間を祈りに捧げただろう。だんだんと恥ずかしくなってきた。顔が真っ赤に染まっていくのがわかる。なんとかごまかすために話を変える。
「ところで、山には様々な木の実が成っているようですね。川には魚がいました。それらを食べれば良いのではありませんか?」
「たしかに、果実やきのこがたくさん成っています。食べられるものもありますが、たいていのものは毒があるか、まずくて食べられません。魚は捕れる量にも限りがあるので、十分とは言えません」
元の世界では、毒があったとしても、調理によって無毒化して食べられるものはたくさんあったはずだ。ワラビやゼンマイなどの山菜、ウナギ、そしてフグの卵巣などがそれに該当するだろう。すべて先人たちの知恵だ。おそらく、この村でもいろいろ試したに違いない。それでも駄目だったのだろう。
「それでは、行商人から食料を譲ってもらえば良いのではないでしょうか?」
「ここに行商人はほとんど来ません。へんぴな村ですので。こちらから他の村に行くこともままなりません。それに、小麦の備蓄にも余裕がないのです」
小麦は貨幣として使われるのだろう。いわゆる物々交換だ。それにも余裕がないのであれば、外部と取引することもできない。この村の力のみで問題を解決しなければならない。
だからといって私にはどうすることも……。
私の表情が暗くなったのを察したのか、村長が言う。
「今日はもうお疲れでしょう。聖女様の家をご用意しましたので、ゆっくりお休みください。これから案内します」
部屋に案内された後、疲れ切っていた私はすぐに眠りに落ちた。




