プロローグ
「まだできないの? もう時間ないよ」
「すいません。反応がうまくいかなくて」
「それはこの論文に書かれているけど、読んでないの?」
「すいません。確認不足でした。申し訳ありません」
私はとにかく謝罪を繰り返した。
「今の君では、誰も救うことができないよ」
私の名前は、月見里飛鳥。研究者だ。
国立大学薬学研究科の博士課程を修了後、製薬会社に入社して数年が経過した。合成医薬品開発チームに所属し、有機合成化学を駆使して、医薬品原薬(有効成分)の研究開発を担当している。
毎日、研究室の中で実験を行っているが、なかなかうまくいかない。有機合成化学はいわゆるトライアンドエラーを必要としており、失敗の連続だ。それはある程度仕方のないことである。
それでもサラリーマンである以上、常に結果を求められる。今日も、実験の進捗を確認した上司の近藤課長に呼び出され、小言を言われてしまった。落ち込む私は、自分の席に戻ると辺りを見回した。
田中君は順調そうだ。彼は同期の出世頭で、抗がん剤の開発をしている。現在、最注目のプロジェクトになっているTZOR-302の担当者だ。このプロジェクトが成功すれば、うちの会社は大きく売り上げを伸ばすだろう。もしかしたら、業界トップも夢ではないかもしれない。彼は物語でいうところの英雄だ。
斎藤さんも表情が明るい。彼女は私の後輩だが、とても優秀な研究者だ。次々と医薬品の候補物質を生み出している。彼女の実験は美しく、まるで魔法のようだ。彼女は僧侶か賢者といったところか。
新入社員の椎名さんは、海外で博士号を取得した秀才らしい。まだあまり話したことはないが、美人である彼女には、後光が差しているようだ。私の視線に気が付いたのか、ニコッと微笑みかけてくれる。彼女の笑顔は、見ているだけで癒されると、もっぱらの噂だ。男性にも人気がある彼女は聖女である。
一方、私はどうだろうか。
まず、見た目が地味だ。実験の邪魔にならないよう、肩まで伸びた黒髪を適当にまとめている中肉中背のアラサー女。服装にはこだわりがなく、アクセサリーもつけない。彼氏がいつからいないのか、覚えてすらいない。
では、仕事の方はどうか。努力をしているつもりだが、なかなか結果を出せず、さほど重要でない案件ばかり振られている。いわゆるごみ案件だ。会社から必要とされていない証拠だろう。
これが物語であれば、私は完全にモブキャラだ。読者からそこまで必要とされていない存在。いてもいなくてもどちらでもいい存在。
でも、私の人生にとっては私が主役だ。主役になれないならこの会社、いや、この世界は私のいるべき場所ではない。こんな世界はなくなってしまえばいい。
「あれ~、もう空か~」
自宅に帰った私は酒を煽っていた。
缶を左右に振り、空であることを確認すると、グシャっと握りつぶして机に突っ伏した。周りには数本の空き缶が転がっている。
「もう嫌だ。会社に行きたくない」
私はつい愚痴をこぼす。最近は何をやってもうまくいかない。こんなに頑張っているのに何で誰も認めてくれないのだろう。
ふと顔を上げると、本棚の中にある“異世界”の文字が視界に入る。
「ネット小説や漫画のように異世界へ転移しないかな~」
もともと、ネット小説の異世界転移ものが好きで読みふけっていた。最近では、私自身の異世界転移を妄想することが多くなっている。今日もまた妄想を始める。
前提として、転生だけは絶対にしたくない。一度死ななければならないなんて論外だ。私は私のままでいたい。あくまで望むのは転移である。
もし異世界に転移できたとしたら、役職は何がいいだろうか。主人公もしくはそれに準ずる者でなければ転移する意味がない。
まず勇者は無理だろう。王様から命令を受ける勇者は、上司から命令を受ける今の私と何も変わらない。おそらく小言を言われる。
魔法使いや戦士などの戦闘職ではどうだろうか。何もできないまま、魔物にすぐ殺されそうだ。
私が聖女なんかになろうものなら、こき使われたあげく、ニセモノ扱いされて、最終的に追放か処刑される気がする。
「やっぱり、錬金術師かな」
結局、いつも通りの結論にたどり着く。
私は、人々を病気から救いたいから、世の中の役に立ちたいから、製薬会社に入社して医薬品の研究開発をしている。その点でファンタジー世界の錬金術師はうってつけだろう。願わくは、チート級の錬金術でポーションを作製しながら、田舎でまったりとスローライフをおくりたいものだ。
そんなことを考えているともう深夜だ。明日も朝が早い。そろそろ寝なきゃ。
私はそのまま眠りについた。
(ここはどこだろう)
気が付くと、私は一面真っ白な空間にいた。身体がふわふわと浮遊しているような感覚に陥る。全身に力が入らない。
(これは夢の中か)
私がそう思った瞬間、突然頭の中で声が響く。
『あなたは今いる場所が、自分のいるべき場所ではないとお考えですね?』
私は答えようとしたが、声が出ない。心の中で(あなたは誰? ここはどこ?)と念じた。しかし、私の質問に回答はなく、同じ質問が繰り返される。
『あなたは今いる場所が、自分のいるべき場所ではないとお考えですね?』
私は心の中で答える。
(はい。この世界では私の力を発揮できません。私が主役になれる場所が、きっとどこかにあるはずです)
『それでは、あなたの望む世界へ転移いたします。どうぞよい人生を』
その瞬間、目の前がパッと明るくなった。眩い光に目がくらむ。
次に目を開けたとき、私は山の中で倒れていた。あたり一面に木々が生い茂っており、少し離れたところには川が見える。とても自然豊かなところだ。ここは一体……。
「まさか、本当に異世界転移しちゃったの……?」
私は呆然としながら、ひとりごちた。
たしかに、異世界への転移に憧れていたが、それはあくまで妄想の中の話だ。本当にそんなことが起こるとは微塵も思っていない。
これは夢の続きに違いない。私は頬をつねる。……痛い。
動揺するな、まずは冷静になろう。私はスマホを取り出し、助けを呼ぶことにした。しかし、スマホはまったく反応しない。いったいなんなの……。
どのくらいそこで立ち尽くしていただろう。やけ酒をしていたからか、妙にのどが渇く。とりあえず、川まで移動して水を飲むことにした。
とても清らかな川で、魚が元気に泳ぐ姿が見える。私は水を手ですくって飲むと、スッと体に染み渡る。おいしい。
これからどうしようか。どれだけ考えても答えは見つからない。考えれば考えるほど、不安が襲ってくる。いったん思考を停止して、とにかく行動を起こすことにした。
しばらく川沿いを歩いていると、魚を捕るための仕掛けがあった。もしかしたら、麓には人が住んでいるのかもしれない。まずは人を探して、元の世界に戻る方法を聞こう。
このまま川伝いに下るか、山の頂上を目指すか。一般的には、山で遭難したら登ったほうがいいと聞くけれど、私は川伝いに下ることにした。これまでのところ、人の痕跡があったのがこの川だけだからだ。行き詰ったら引き返せばいい。
どうやらこの判断は正しかったようだ。しばらく歩いていると村が見えてきた。しかし、人の姿が見当たらない。私は恐る恐る村の中に足を踏み入れる。
ずいぶんと寂れたところだ。建物は傾き、剥げた屋根や壁、風が板戸をガタガタと揺らしている。畑では作物が枯れ、土がやせているのがわかる。道は舗装されているはずもなく、至る所がデコボコしている。どこか遠くに取り残されたような、そんな感覚を覚える。ネット小説ではこのようなところのことを辺境の地というのだろうか。
「誰だ、お前は」
急に後ろから声がした。心臓が止まりそうになる。
振り向いて声の主を確認したとき、思わず息を呑んだ。若い男が怪訝な顔をしている。そしてその手には槍が握られ、私に向けられている。
私はここに至った経緯を話した。おそらく、こんな荒唐無稽な話を信じてはくれないだろう。それでも必死に説明した。このままでは殺されるかもしれない。
私が話し終えると、男が無言でこちらを直視する。何かを思案しているようだ。
その目を見た私は恐怖で震えている。それでも、この男から目をそらすわけにはいかない。いつ襲ってくるかわからない。
「おーい、みんな。来てくれ!」
突然、男が村中に響き渡るように叫ぶ。
ぞろぞろと人がやってくるのが見える。百人、いや、もっといる。この人数に襲われたらひとたまりもない。
「聖女様が来たぞ!」
それが合図となり、歓声が沸き起こる。村人たちが「ようこそ聖女様」、「奇跡だ」などと言い、私を取り囲む。
なんだかよくわからないが、“聖女”という単語に反応した私は、反射的に叫んだ。
「私は聖女ではありません!」




