10話
これでようやく、私の本職である化学実験を開始できる。頭の中でシミュレーションをして、早速実験に取り掛かろう。
「まずは、硫酸と亜硫酸水素ナトリウムを合成しようかな」
硫黄を燃やして発生する二酸化硫黄を重曹水に溶解すれば亜硫酸水素ナトリウムが、二酸化硫黄をさらに酸化してできる三酸化硫黄を水に溶解すれば硫酸ができる。
「この亜硫酸水素ナトリウムは、食品の防腐剤として使うことができるの。お酒に入れると酸味が抑えられるわ」
ワインに含まれるエタノールが徐々に酸化して酢酸になっていくと酸味が増す。亜硫酸水素ナトリウムは、この酸化を抑制することができる。
「それはいいですね!」
聞きなれた“酒”という単語に反応し、アルバートが目を輝かせる。本当に意味が分かっているのだろうか。
“化学の王様”や“工業の血液”など様々な異名を持つ硫酸は、重要な基幹原料だ。これを手に入れたことで、急激にできることが増える。
「次は硫酸カリウムね。これは硫酸と前に抽出してもらった炭酸カリウムから合成できるから。見ていてね」
硫酸を水に溶かし、そこへ炭酸カリウム水溶液を少しずつ加えると、泡がぷくぷくと出てくる。
「反応して二酸化炭素が発生しているの。一気に混ぜ合わせると吹きこぼれて危険だから、よく覚えておいて。特に硫酸に触れると、皮膚だけでなく内臓にも影響がでる可能性があるし、全身に浴びたら命を落とすから」
「気を付けます。これは何に使えるんですか?」
「硫酸カリウムも肥料ね。かなりの優れものよ」
硫酸カリウムは汎用性の高い肥料であり、多くの作物に利用できる。イモ類には特に有効だ。これは天然から入手することが難しいので、量産する必要があるだろう。
私は発生する気泡を見ながら考える。この二酸化炭素を利用して炭酸水がつくれないだろうか。大人には果実酒があるからいいけど、下戸の人や子供たちは飲むことができない。科学の力で新しい飲み物をつくってあげたい。
……いや、やはりだめだ。万が一、硫酸が混入したら大変なことになる。そもそも、炭酸にするためにはある程度の圧力が必要だ。この計画は最初から破綻している。
重曹と酢酸を水中で混ぜるという方法もあるが、これらは農薬や他の用途で使用するため、炭酸水を大量につくることは難しいだろう。別の方法を考えよう。
「次の作業はアルバートにやってもらうわ。この硫酸を少しだけ垂らしてみて」
「こうですか?」
次は、触媒としての利用だ。酢酸エチルを合成する際に、触媒として硫酸を少量加えると反応が加速する。
これに重曹を加えると酢酸だけでなく、硫酸も中和反応により除去できる。これで生産効率はぐんと上がり、時間的余裕が生まれるだろう。
「次は硫酸ナトリウムと塩化水素の合成をしましょう」
塩化ナトリウム、つまり塩を水に溶かし、そこに硫酸を少しずつ加えていくと塩化水素と硫酸水素ナトリウムが生成する。この硫酸水素ナトリウムを重曹で処理すると硫酸ナトリウムが合成できる。
「それも肥料ですか?」
「硫酸ナトリウムは、食品添加剤や下剤として使えるの。有機合成なら脱水剤としての利用が多いかしら」
実験室レベルでは、硫酸ナトリウムは脱水用途で利用されることが多い。しかし、ろ過が大変なので、量産においてはほとんど使われないものだ。
塩化水素は気体であり、取り扱いが難しいので、水やエタノールなどの溶媒に溶解させて保管する。水に溶かしたものが塩酸である。
「この塩化水素を利用して、塩化カリウムとクロロ硫酸を合成しましょう。塩化カリウムは薬として使えるのよ」
「そうですか」
塩化水素を炭酸カリウムで処理すれば塩化カリウムだ。これも肥料として使えるが、塩素イオンが含まれているので注意が必要である。それよりも、医薬品として低カリウム血症の治療に使えることが重要だろう。食糧難などでカリウム不足になった場合には重宝することになる。
二酸化硫黄と塩化水素から合成できるクロロ硫酸は、アルコールと反応させると硫酸エステルを合成することができる。これは界面活性剤として使われる。
「次は、有機塩素化合物をつくりましょう」
「はあ……」
さすがに飽きてきたのか、アルバートは気の抜けた返事をした。
「もう少しだから。頑張って」
私は両手の拳を胸の前で構えて笑顔で言った。
塩酸を使用することで、有機塩素化合物の合成も容易になる。例えば、硫酸を触媒として用いて、アルコールと塩酸を反応させれば塩化アルキルができる。有機塩素化合物は反応性が高く、原料として非常に優秀だ。
皮膚炎用の外用薬は、硫黄とサリチル酸を石鹸などに混ぜればそれでよく、農薬としては粉を散布すれば良い。
「最後は加硫ね。生ゴムに硫黄を加えて、直径三センチくらいの球体に成形してから加熱しましょう」
ラテックス(ゴムの木の樹液)に薄めた酢酸を加えると固まって生ゴムができる。これに硫黄を数パーセント加え、高温で加硫させると天然ゴムになる。
加硫とは、ゴムの炭素鎖同士を硫黄で網目状につなぎ合わせることである。この加硫をすることで、ゴムの弾力性や耐久性が高まる。タイヤなどの製品に使われている技術である。
私は加硫をした球体をアルバートに手渡す。
「これを地面に叩きつけてみて」
「わかりました。おら!」
アルバートはその球体を思い切り地面に叩きつけた。球体は大きくバウンドし、アルバートの顎に直撃する。これはスーパーボールのようなものだ。
私はその姿を見て口元を緩める。
「これを村の子供たちに渡しましょう。きっと楽しんでくれるわ」
「そうですね。早速行きましょう」
アルバートが顎を抑えながら言った。
私たちが子供たちの遊び場へ向かうと、子供たちは元気よく走り回っていた。追いかけっこをしているようだ。この村では、物を使って遊ぶ習慣はほとんどない。せいぜい木の枝を使ったチャンバラごっこくらいのものだ。
私の姿を見つけた子供たちが駆け寄ってくる。
「聖女様、どうしたの」
「今日は新しいおもちゃを持ってきたの」
私は子供たちにスーパーボールを見せる。
「これを地面に叩きつけたり、壁にぶつけたりして遊ぶのよ。見ていてね」
そう言うと、スーパーボールを壁に向かって思い切り投げる。壁に当たると同時に、バキッという音がして、突き抜けていった。
しまった、ここの壁では脆すぎた。どうしよう……。
きょろきょろしていると、子供たちの目が点になっていた。アルバートもだ。
「こら悪がきども! おまえらまた……。あれ、聖女様?」
初老の男性が出てきた。少しお酒臭い。子供たちはいつもこの人に怒られているのだろうか。勢いよく怒鳴り込んできたが、私を見るなり急におとなしくなる。
壁を破壊した私は素直に謝罪する。
「すいません。私の不注意で壁を壊してしまいました」
「いいんですよ、別に。気にしないでくださいよ」
ゴマをするように言うと、初老の男性は帰っていった。その姿を見ながら、私は自分のことを棚に上げ、子供たちに言う。
「壁にぶつけるのはやめて、地面に叩きつけようね」
「うん、わかった」
新しいおもちゃを手に入れてはしゃぐ子供たちを見ながら私は考える。今は楽しそうに遊んでいるけど、スーパーボールでできることには限りがある。おそらくすぐに飽きるだろう。スーパーボールすくいをしてもいいかもしれない。これも娯楽のひとつだ。
……いや、それよりももっと規模が大きく、楽しいものがあるではないか。
思いついてしまった以上、いてもたってもいられなくなった私は、アルバートにお願いする。
「ごめん、アルバート。もうひとつだけやりたいことがあるの。協力してもらえないかしら。絶対損させないから」
ここまで付き合い続けているアルバートはさすがにやめたいだろう。私は申し訳ない気持ちでいっぱいだ。それでも、この計画には彼の力が必要だ。やってもらわないと困る。
「はあ……。ここまで来たら、最後まで付き合いますよ。何ですか?」
「ありがとう。屋台をつくってほしいの」
「屋台ですか? 何のために」
「できる限りいっぱいつくってね。お祭りをしましょう」




