第八話 営業課長、異世界の文字と格闘する
「アルト様、おはようございます。」
朝日がカーテンの隙間から差し込む。
アルトは大きく伸びをした。
(さて……。)
今日の目標は決まっている。
文字を覚えること。
前世では契約書も企画書も山ほど読んできた。
それなのに今は、絵本すら読めない。
(これは地味につらい……。)
◇ ◇ ◇
朝食を終えると、エマが昨日の絵本を持ってきた。
「アルト様、この本がお気に入りですよね。」
(お気に入りというか……。)
(唯一の教材です。)
エマは膝の上にアルトを乗せ、ゆっくりページをめくる。
「わんわん。」
犬の絵。
「にゃんにゃん。」
猫の絵。
「ぴよぴよ。」
ひよこ。
(かわいいな。)
……ではなく。
アルトの視線は、絵の下に書かれた文字へ向いていた。
(これが、この世界の文字か。)
丸みのある、不思議な形。
もちろん読めない。
だが。
(規則性はある。)
営業資料でも、最初は専門用語だらけだった。
それでも繰り返し見れば、少しずつ理解できる。
(まずは一文字ずつだ。)
◇ ◇ ◇
数日後。
アルトの日課ができた。
朝は父を観察。
昼は屋敷を探検。
夕方は魔力を見る。
そして夜は――
文字の勉強。
「わんわん。」
エマが指をさす。
(犬。)
「にゃんにゃん。」
(猫。)
「おうまさん。」
(馬。)
アルトは絵ではなく、文字だけを見る。
(この形は……犬か。)
(じゃあ、この形は猫。)
赤ちゃんとは思えない集中力だった。
「アルト様?」
エマが首をかしげる。
「絵じゃなくて文字を見てます?」
(バレた。)
「あぅ。」
慌てて犬の絵を指差す。
「わん!」
「きゃー!」
「初めて真似しました!」
エマは大喜び。
(違う。)
(ごまかしただけなんだけど。)
◇ ◇ ◇
その日の午後。
書斎の前をハイハイしていると、扉が少し開いていた。
(おっ。)
中には本棚が並んでいる。
分厚い本。
地図。
古びた巻物。
アルトの目が輝いた。
(宝の山だ……。)
一冊だけでも読めれば。
そう思った瞬間――
「アルト様。」
低い声。
ガルドだった。
「ここは危険です。」
ひょい、と抱き上げられる。
(また捕まった。)
「本はもう少し大きくなってからですね。」
(いや、今読みたい。)
もちろん、その願いは届かない。
◇ ◇ ◇
夜。
レオンが帰宅すると、アルトはいつものように出迎えた。
「あー!」
「おお!」
レオンは嬉しそうに笑う。
「今日は何をしてた?」
(文字の勉強。)
「ばぶ。」
「そうか!」
「父さんと同じで剣の素振りか!」
(どう聞いたらそうなる。)
セシリアが吹き出した。
「あなた、まだ四か月ですよ?」
「はっはっは!」
屋敷中が笑いに包まれる。
アルトもつられて笑った。
(まあ、いいか。)
この勘違いも、少しずつ好きになってきた。
◇ ◇ ◇
その夜。
アルトは今日覚えた文字を頭の中で反復する。
(犬。)
(猫。)
(馬。)
まだ読めるとは言えない。
でも昨日より進歩した。
前世でもそうだった。
一日で成果は出ない。
十日続ければ変わる。
百日続ければ武器になる。
焦らない。
積み重ねる。
それが営業課長として学んだ、一番大切なことだった。
その時、窓の外から月明かりが差し込む。
淡い光が部屋を照らし、アルトの周囲を包む白い魔力が、ほんの少しだけ揺らいだ。
(……?)
風もないのに。
まるで、文字に反応するかのように。
アルトは不思議そうにその光を見つめる。
まだ理由は分からない。
だが、その小さな違和感が、やがて世界の魔法理論を変える第一歩になることを、この時のアルトは知る由もなかった。
⸻
営業メモ⑦
『才能は、毎日の積み重ねには勝てない。』
一日で覚えられなくてもいい。
昨日の自分より、一歩前へ。
それが一番強い。
⸻
次回――「初めてのお客様。営業課長、赤ちゃん営業を始めます。」




