第二百六十九話 営業課長、揺れの原因を切り分ける
「課長! 今日は蓋を落ち着かせる日ですね!」
工房に入るなり、ミハイルが宣言した。
「その表現はもういい」
「では、蓋の揺動確認の日です!」
「それなら問題ない」
「少し寂しいですね……」
「仕事に寂しさを求めるな」
エルダが笑いながら、作業台に三つ目の試作品を置いた。
前回の試験では、固定力と解除のしやすさに手応えがあった。
五十回の開閉でも目立った問題はなかった。
しかし、容器を持って歩くと蓋が小さく揺れ、留め具の接触部分には擦れ跡が見つかった。
今回は、その揺れの原因を調べる。
「まず、原因を決めつけないことだ」
俺は容器を作業台に置いた。
「蓋が揺れたからといって、すぐに留め具が悪いとは限らない」
「容器の持ち方も関係するかもしれませんね」
エルダが答えた。
「そうだ。容器そのものの重さ、持ち上げ方、歩くときの振動。それぞれを分けて確認したい」
ダリオが記録用紙を並べた。
「条件を一度に変えると、どれが影響したのか分からなくなる。今日は順番に試そう」
「分かりました!」
ミハイルが筆記具を構える。
「では、最初は容器を持たず、台の上で確認しましょう」
俺は蓋を開いて固定した。
容器を台に置いたまま、蓋の端を軽く指で押す。
少し動く。
だが、固定は外れない。
「これは正常な範囲か?」
「完全に動かないわけではないわ。留め具にもわずかな遊びがあるから、少しの動きはあると思う」
エルダが答えた。
「問題は、その動きがどの程度まで大きくなるかですね」
「そういうことだ」
俺は蓋から手を離した。
次に、容器を持ち上げる。
ゆっくりと持ち上げ、静かに置く。
ゴトッ。
蓋はわずかに揺れた。
「今の動きはどうだ?」
「少し揺れました。でも、固定は外れていません」
ミハイルが記録する。
今度は、同じ高さから少しだけ強く置いた。
ゴトッ。
先ほどよりも大きく揺れた。
「置き方によって違いが出ますね」
ダリオが蓋の動きを確認した。
「衝撃が加わると、蓋にも力が伝わる。留め具だけの問題ではないかもしれない」
「では、次は歩く試験です」
俺は容器を持ち上げた。
まずはゆっくり歩く。
作業台の周りを一周する。
蓋はほとんど動かなかった。
「問題なしですね!」
ミハイルが言った。
「まだ一周だ。もう一度やろう」
同じ速度で歩く。
今度も大きな揺れはない。
ところが、三回目。
作業台の角を回ったとき、蓋が小さく動いた。
カタッ。
「今、揺れました!」
ミハイルが声を上げた。
「角を曲がったときだな」
「まっすぐ歩いているときより、横方向に動いたときの方が揺れやすいのかもしれません」
エルダが容器を受け取った。
「持ち手の位置も関係していそうね。曲がるときに容器が少し傾いたのかもしれない」
「では、まっすぐ歩く試験と、方向を変える試験を分けましょう」
ダリオが記録用紙に線を引いた。
「同じ歩数でも、動き方が違えば結果が変わるはずだ」
ミハイルが頷いた。
「まっすぐ歩く、右に曲がる、左に曲がる。三つに分けます!」
「いいな」
俺たちは試験を続けた。
まっすぐ歩く。
右に曲がる。
左に曲がる。
それぞれ二回ずつ行った。
すると、右に曲がったときに一度、左に曲がったときにも一度、蓋が揺れた。
「方向は関係ないようですね」
「ただ、曲がる動作で揺れやすい可能性はある」
エルダが言った。
「容器を持つ人の腕が、曲がるときに横へ動くからかもしれません」
俺は容器を作業台に戻した。
「次は、持つ人を変えてみよう」
ミハイルが目を丸くした。
「人を変えるんですか?」
「同じ容器でも、持ち方や歩き方は人によって違う。俺だけの結果では判断できない」
「なるほど。では、私が持ちます!」
ミハイルは容器を持ち上げた。
最初はゆっくり歩く。
問題ない。
次に角を曲がる。
カタッ。
蓋が揺れた。
「おおっ!」
ミハイルが足を止める。
「今のは、さっきより大きかったですね」
エルダが蓋を確認する。
「持ち手を握る位置が違うわね」
「えっ?」
「アルトは持ち手の下の方を握っていたけれど、ミハイルは上の方を握っている」
ミハイルは自分の手を見た。
「本当ですね」
「握る位置が違えば、容器に伝わる力も変わる可能性がある」
ダリオが言った。
「つまり、持ち手の位置によって、揺れ方が変わるかもしれない」
俺は二人の手元を見比べた。
「それなら、もう一つ確認したい。容器を持つとき、蓋を開いたままにする必要はあるが、持ち手を握る位置が限定されるようでは困る」
「確かに。お客様が好きな位置で持てないのは不便ですね」
ミハイルが答えた。
「そうだ。商品側が、使う人に無理な持ち方を要求してはいけない」
エルダは持ち手と蓋の位置関係を確認した。
「持ち手の位置を変える改良も考えられるけれど、それは今回の留め具の試験とは別の話ね」
「まずは、今の形状でどんな条件だと揺れが出るのか整理しましょう」
俺は記録用紙を見た。
* 台に置いた状態では、蓋にわずかな遊びがある。
* 持ち上げて置くと、置き方によって揺れの大きさが変わる。
* まっすぐ歩くと揺れは小さい。
* 曲がる動作では揺れが出ることがある。
* 持つ人によって揺れ方に違いがある。
「こうして見ると、留め具だけが原因とは言えないな」
「ええ。でも、留め具の接触部分に擦れ跡があることも事実よ」
エルダが答えた。
「容器の動きが原因なのか、留め具の形状が原因なのか。それとも両方が重なっているのか……」
「まだ判断できないですね」
ミハイルが記録用紙を見つめた。
「そうだ。だから、次は条件をもう少し絞り込む」
俺は容器を持ち上げた。
「例えば、同じ持ち方で歩く人だけを変える。あるいは、同じ人が持ち方だけを変える。そうすれば、違いが見えやすくなる」
ダリオが頷いた。
「持ち手の位置を印で示して、同じ場所を握ってもらう方法もあるな」
「いいですね。まずは持つ位置をそろえた状態で、歩く試験を繰り返しましょう」
エルダが図面を片付けた。
「それから、蓋の揺れだけでなく、擦れ跡の変化も確認するわ」
ミハイルが手を挙げた。
「課長。一つ提案があります!」
「聞こう」
「歩く人を全員同じにすればいいのではありませんか?」
「それでは、人による違いを確認できないだろう」
「では、全員が同じ歩き方を練習するのはどうでしょう?」
「商品を使うために歩き方の訓練が必要なのか?」
「……必要ないですね」
エルダが笑った。
「ミハイル、試験のために人を商品に合わせるのではなく、商品が人の使い方に対応できるかを見るのよ」
「分かりました。商品を鍛える方向ですね!」
「商品に訓練をさせることもできないけれどな」
工房に笑い声が広がった。
俺は三つ目の試作品を見つめた。
ここまでの改良で、固定力と操作性は確実に良くなっている。
しかし、実際の使用を想定すると、歩くときの揺れという新しい問題が見えてきた。
しかも、その揺れ方は持ち方や動作によって変わる。
原因を留め具だけに絞ることはできない。
「エルダ。次は、持ち手の位置をそろえた試験を先に行いましょう」
「分かったわ」
「それで揺れが減るなら、持ち方の影響が大きい可能性がある。変わらないなら、留め具や蓋の構造をさらに調べる必要がある」
「結果を見てから次の試験を決めるのね」
「そうです。急いで形を変えるより、今は原因を確かめたい」
ミハイルが記録用紙をまとめた。
「課長。今回も完成とは言えませんね」
「そうだな」
「でも、原因に近づいている気はします」
「その感覚は大事にしていい。ただし、記録で確かめることも忘れないように」
「はい!」
ミハイルは試作品を棚に戻そうとした。
そのとき、エルダが声をかけた。
「待って。留め具の擦れ跡をもう一度見せて」
ミハイルが容器を戻す。
エルダは留め具を外し、接触部分をじっと見た。
「……少し気になるわね」
「何か見つかりましたか?」
俺が尋ねる。
エルダは擦れ跡の近くを指で示した。
「ここ。前回よりも、擦れた跡が横に広がっている」
ダリオが顔を近づけた。
「確かに。単純に上下へ動いているだけではなさそうだ」
俺はその跡を見つめた。
蓋の揺れは、上下だけではない。
持ち運びの途中で、左右にも小さな力が加わっている可能性がある。
「次の試験では、揺れの方向も確認した方がよさそうですね」
「ええ。蓋がどちらへ動いたときに、どの部分が擦れるのか調べましょう」
ミハイルが慌てて帳面を開いた。
「記録項目が増えました!」
「増やしすぎないように、必要なものだけにしてくれ」
「はい。蓋の揺れの方向、持ち手の位置、歩く動作……」
「その三つから始めよう」
俺は工房の窓から外を眺めた。
商品を改良するというのは、単純に形を変えることではない。
使う人の動きや環境を理解し、その中で何が起きているのかを確かめることだ。
そして、その小さな違いを見逃さないことが、最後には大きな信頼につながる。
「課長!」
ミハイルの声がした。
「今度は何だ?」
「次の試験では、私が歩く係を担当します!」
「それはいいが、無理に歩き方を変えるなよ」
「分かりました! 自然体で歩きます!」
そう言ってミハイルは、なぜか背筋を伸ばし、胸を張った。
「……それは自然体なのか?」
「営業課長にふさわしい歩き方を研究しています!」
「まずは普通に歩いてくれ」
工房に、また笑い声が響いた。
三つ目の試作品は、まだ完成していない。
だが、揺れの原因を一つずつ切り分けるための手がかりは、少しずつ集まり始めていた。
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営業メモ ②⑥⑧
不具合の原因を調べるときは、複数の条件を一度に変えず、一つずつ切り分けて確認することが重要です。
今回の蓋の揺れも、留め具の形状だけでなく、持ち手の位置や歩く動作が影響している可能性があります。
営業でも、問題が起きたときに最初から原因を決めつけるのではなく、使用環境や操作方法を確認し、事実を整理してから改善策を提案することが大切です。
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次回予告
第二百七十話 営業課長、見えない負担を数字にする
持ち手の位置や歩き方によって、蓋の揺れ方が変わることが分かった。
次は条件をそろえ、揺れの方向と回数を記録することになった。
ところが、試験結果を並べてみると、意外な傾向が見えてくる。
「同じ回数歩いたのに、擦れ跡の大きさが違いますね」
エルダの指摘に、アルトは新たな確認方法を考える。
感覚だけでは分からない小さな負担を、どうやって数字にするのか。




