第二百六十八話 営業課長、三つ目の試作品に手応えを感じる
「課長! 三号が完成しました!」
工房に入った瞬間、ミハイルの声が響いた。
「今度は名前を先に付けなかっただろうな?」
「もちろんです!」
ミハイルは胸を張った。
「今回は、完成するまで名前を考えないと決めました!」
「それは成長したな」
「ただし、頭の中では候補が十個ほどあります」
「成長したのか、していないのか分からんな……」
エルダが笑いながら作業台を指差した。
そこには、新しい留め具を取り付けた保温容器が置かれていた。
前回の試験では、一号は固定力が強いものの解除に力が必要で、二号は操作しやすいものの、容器を傾けると蓋が揺れやすかった。
そこで今回は、一号の形状を基本にしながら、引っ掛かり部分の角度だけを変更している。
「変更したのは一か所だけ?」
「ええ。引っ掛かりの深さは大きく変えず、解除するときに接触する面の角度を調整したわ」
エルダは図面を広げた。
「これなら、固定する力を保ちながら、解除するときの擦れを減らせる可能性がある」
「可能性、ですね」
「そう。まだ試していないものを、できると言うわけにはいかないわ」
俺は頷いた。
「では、まずは基本動作から確認しよう」
ミハイルが容器の前に立った。
「開閉試験、開始します!」
蓋を開く。
カチッ。
しっかりと引っ掛かった。
ミハイルが蓋を軽く揺らす。
問題ない。
次に閉じる。
カチッ。
今度は、前回の一号よりも軽い力で解除できた。
「おおっ!」
ミハイルの目が輝いた。
「課長! これは期待できます!」
「まだ喜ぶのは早いぞ」
「はい。喜びは試験終了後に取っておきます!」
「喜ぶこと自体は禁止していない」
エルダが留め具を確認した。
「最初の感触は良さそうね。次は容器を傾けてみましょう」
俺は容器を持ち上げた。
ゆっくりと右に傾ける。
蓋は動かない。
次に左へ。
こちらも問題ない。
さらに角度をつける。
カタンという音もなく、蓋は開いた状態を保っていた。
「これはいいですね!」
ミハイルが思わず声を上げた。
「一号で見つかった弱点は、かなり改善されているようだ」
ダリオも容器を受け取り、同じ動作を試した。
「確かに、固定は安定している。解除するときも無理な力はいらないな」
「ただし、まだ一回目よ」
エルダが釘を刺した。
「ここから繰り返し試して、変化がないか確認しましょう」
「もちろんです!」
ミハイルは帳面を開いた。
「では、五十回の開閉試験を始めます!」
「今回は数え間違えるなよ」
「前回のようなことはありません!」
ミハイルは真剣な顔で指を一本立てた。
「一回目!」
蓋を開く。
閉じる。
二回目。
三回目。
順調に進んでいった。
二十回を超えても、目立った変化はない。
三十回。
四十回。
ミハイルの手つきにも、少しずつ慣れが見えてきた。
そして五十回目。
カチッ。
蓋が開いたまま固定された。
「五十回、終了です!」
「よし。では、もう一度傾けてみよう」
俺が容器を持ち上げる。
右へ。
左へ。
少し強めに傾けても、蓋は外れなかった。
「問題ありませんね!」
「最初の状態と比べても、固定の感触は大きく変わっていないわ」
エルダが留め具を外した。
しかし、そこで手を止めた。
「少し待って」
「どうした?」
「ここを見て」
エルダが留め具の先端を指差した。
そこには、ごく小さな擦れ跡があった。
「また擦れ跡ですか?」
ミハイルが顔を近づけた。
「前回のように、角が丸くなっているわけではないけれど……」
エルダは光の角度を変えながら確認した。
「接触面の一部に、細い筋ができている」
ダリオが留め具を受け取った。
「五十回でこれだけなら、すぐに問題になるとは限らない。ただ、どの部分が擦れているのかは確認した方がいい」
「固定力には変化がなかったんですよね?」
ミハイルが尋ねた。
「今の試験では、目立った変化はなかったわ。でも、擦れが続けば、いずれ動きに影響する可能性はある」
俺は留め具を見た。
三号は、これまでの二つよりも良い結果を出している。
固定力もあり、解除も軽い。
しかし、完全に問題がなくなったわけではなかった。
「擦れ跡が付いた場所を記録しておこう。次は、もう少し回数を増やして変化を見る」
「百回まで試しますか?」
「まずは百回だ。その後、同じように固定力と解除の感触を確認する」
エルダが頷いた。
「分かったわ。途中でも状態を確認して、急に変化が出ないか見ていく」
ミハイルが帳面に記録した。
「五十回時点。固定状態に大きな変化なし。解除も良好。接触面に細い擦れ跡あり」
「いい記録だ」
「ありがとうございます!」
その後、俺たちは試験を続けた。
六十回。
七十回。
八十回。
九十回。
ミハイルの腕が少し疲れてきたようだった。
「課長……」
「どうした?」
「蓋を開ける動作というのは、意外と腕にきますね」
「普段使う人は、これを毎日何度も繰り返すんだぞ」
「そう考えると、試験する側も大変ですね」
「だからこそ、使う人の負担を考える必要がある」
「分かりました。もう少し頑張ります!」
百回目。
カチッ。
蓋はしっかりと固定された。
閉じる動作も滑らかだった。
しかし、エルダが再び留め具を確認すると、先ほどよりも擦れ跡がはっきりしていた。
「少し広がっているわね」
「固定力は?」
俺が尋ねる。
エルダは蓋を開閉し、容器を傾けた。
「今のところ、問題は見られないわ」
ダリオも確認した。
「ただ、擦れた部分がこれ以上変化したら、解除の感触が変わるかもしれない」
「原因は、引っ掛かり部分の角度でしょうか?」
ミハイルが尋ねた。
「その可能性はある。でも、まだ決めつけない方がいい」
エルダは擦れ跡を指で示した。
「接触面の角度だけでなく、取り付け位置がわずかにずれている可能性もあるわ。蓋側の受け部分の形状も確認したい」
「つまり、三号は良い結果が出たけれど、擦れの原因はまだ分からないということですね」
「そういうこと」
俺は容器を作業台に戻した。
「今回の結果は前進だ。ただ、百回使えたから完成というわけではない」
ミハイルが首を傾げた。
「では、何回使えれば完成なんでしょう?」
「回数だけで決めるものではないな。実際にどのくらいの期間、どんな使い方をされるのか。その条件に対して、十分な耐久性があるかを確認する必要がある」
「なるほど……。百回は通過点なんですね」
「そうだ」
エルダが図面をまとめた。
「三号は、今までの中で一番良い結果が出ている。だから、この形状を基準にして次の確認を進めたいわ」
「ただし、擦れ跡の原因を調べることが条件ですね」
「ええ。取り付け位置を測り直して、接触する場所も確認する」
ダリオが頷いた。
「必要なら、蓋側の受け部分も一緒に調べよう。片方だけ見ても、接触の原因は分からないからな」
ミハイルは帳面を閉じた。
「課長。これなら、そろそろガルドさんに見せてもいいんじゃないですか?」
「実物を見てもらって意見を聞くことはできる。ただし、完成品として渡すのはまだ早い」
「試作段階だと説明して、実際に使う場面を見てもらうんですね」
「そうだ。こちらだけで考えていると、気づかないこともある」
俺は三号の蓋を開いた。
カチッ。
蓋は安定して止まる。
その状態を見て、ミハイルが嬉しそうに言った。
「課長! ついに完成が見えてきましたね!」
「そうだな。ようやく手応えが出てきた」
「では、名前を考えてもいいですか?」
「まだ早い」
「ええっ!」
「試作品の名前より、擦れ跡の原因を先に調べよう」
「分かりました……。では、名前は仮のままにしておきます」
「仮の名前は何だ?」
ミハイルは少しだけ胸を張った。
「三号です!」
「それは番号だろう」
エルダが吹き出した。
「本人なりに、ずいぶん我慢しているみたいね」
「そこは評価してやってくれ」
工房に笑い声が広がった。
三号は、これまでの試作品の中で最も良い結果を出した。
しかし、小さな擦れ跡は残っている。
それが単なる表面の変化なのか、それとも長く使うことで問題につながる兆候なのか。
そこを確かめなければ、ガルドに安心して勧めることはできない。
「エルダ、次は取り付け位置と接触面を確認しよう」
「分かったわ。ダリオにも見てもらう」
「俺も手伝おう」
俺はミハイルに向き直った。
「記録は今回の百回分を整理しておいてくれ。次の試験で比較できるように」
「はい!」
ミハイルは元気よく返事をした。
そして帳面の最後に、そっと書き加えた。
『三号、今のところ最有力候補。名前は未定』
俺はそれを見て、苦笑した。
どうやら、試作品の名前を決める日は、まだ少し先になりそうだった。
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営業メモ ②⑥⑦
改良の成果が出たときこそ、残っている小さな変化を見逃さないことが大切です。
今回の試作品は、固定力と操作性の両方で改善が見られました。しかし、百回の開閉後には接触面に擦れ跡が確認されています。
営業でも、試験結果の良い部分だけを取り上げて、完成したと判断してはいけません。確認できた成果と、まだ検証が必要な点を分けて伝えることが、長期的な信頼につながります。
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次回予告
第二百六十九話 営業課長、わずかな擦れ跡の原因を追う
三号の試験は順調だった。
しかし、百回の開閉後に見つかった擦れ跡が気になる。
「取り付け位置が原因なのか、それとも接触面の形なのか……」
エルダとダリオは、留め具と蓋側の受け部分を詳しく調べることにした。
ところが、同じ三号でも取り付け方によって擦れ方に違いが出る可能性が見えてくる。
「まさか、取り付ける人によって結果が変わるんですか?」
ミハイルの疑問から、新たな確認が始まる。




