第二百六十七話 営業課長、改良の優先順位を決める
「課長。私は、全部を良くしたいです!」
工房に入るなり、ミハイルが宣言した。
「朝からずいぶん意欲的だな」
「はい! 一号の固定力、二号の操作性、それに耐久性。全部を兼ね備えた、完璧な留め具を作りましょう!」
エルダが図面から顔を上げた。
「言うのは簡単だけれど、全部を一度に変えると、何が原因で結果が変わったのか分からなくなるわ」
「では、一つずつ全部を変えましょう!」
「それは一つずつではないわね」
「……あれ?」
俺は思わず笑った。
どうやらミハイルは、改良する項目を増やすことと、改良を進めることを混同しているらしい。
作業台には、一号と二号の試作品が並んでいた。
一号は固定力が強いものの、解除に力が必要だった。二号は軽く操作できるが、容器を傾けると蓋が揺れやすい。さらに、どちらも五十回の開閉試験で動きに変化が見られていた。
「まずは、何を一番先に改善するべきか決めよう」
俺は二つの試作品を指差した。
「ガルドさんが実際に使う場面を考えるんだ」
「蓋を開けたまま中身を取り出す場面ですね」
「それだけじゃない。中身を注ぐとき、容器を移動するとき、使い終わって洗うとき。それぞれの動作を考えてみよう」
エルダが頷いた。
「蓋を開けたまま固定できても、注ぐときに外れるなら困るわね」
「反対に、絶対に外れないほど強く固定して、閉じるのに両手が必要になっても困ります」
「つまり、固定力と操作性の両方が必要ということですね!」
ミハイルが口を挟んだ。
「そうだ。ただし、優先順位は同じではない」
「どう違うんですか?」
俺は容器を手に取った。
「まず、蓋が予期せず動く問題だ。これは使っている人が驚いたり、手元を狂わせたりする可能性がある。だから、最優先で確認したい」
「では、固定力ですね」
「正確には、必要な場面で蓋が安定していることだ。固定力だけを強くすればいいわけじゃない」
エルダが図面に線を引いた。
「傾けても外れにくい。でも、閉じるときには無理な力がいらない。その両立を目指すのね」
「次に操作性。毎回の動作が重ければ、使う人の負担になる」
「耐久性は三番目ですか?」
ミハイルが尋ねた。
「いや、耐久性も無視できない。最初は問題なくても、何度か使ううちに固定できなくなったら困る。ただ、どの部分がどのように変化するのかを、今はもう少し確認したい」
ダリオが二号を手に取った。
「優先順位を決めることと、ほかの問題を後回しにすることは違うわけだな」
「そうです。最初に取り組む問題を決めるだけで、残りを忘れるわけではありません」
ミハイルは帳面に書き始めた。
「最優先は、蓋が予期せず外れないこと。次に、開閉のしやすさ。さらに、繰り返し使ったときの変化を確認する……」
「いいな。では、実際の使い方をもう少し具体的に考えよう」
俺は容器を作業台に置いた。
「ガルドさんは、どんなときに蓋を開いたままにしたいと言っていた?」
ミハイルが答える。
「忙しいときに、片手を空けたいとおっしゃっていました」
「そうだ。では、そのとき容器をどう扱う?」
「中身を取り出すか、注ぐか……」
「そう。容器を持ち上げたり、少し傾けたりすることもある。蓋が開いたまま固定される機能は、そうした動作と一緒に使われる可能性がある」
エルダが容器の蓋を開いた。
「なら、試験も台の上だけでは足りないわね」
「ただし、いきなり中身を入れて試す必要はありません。まずは空の状態で、どの程度傾けると蓋が動くのか確認しましょう」
「その後で、実際の使用に近い条件を加えるのね」
「はい。安全を確認しながら、段階的に進めましょう」
ミハイルが手を挙げた。
「課長。ガルドさんの動きを再現するために、私が店員役をやります!」
「それはいいな」
「そして、課長がお客様役です!」
「なぜ俺がお客様なんだ?」
「課長なら、細かいところまで指摘してくださいます!」
「褒めているようで、面倒な役を押しつけているな」
エルダが笑った。
「それなら、私が容器を準備するわ。ダリオは試験の状態を見ていて」
「分かった」
俺たちは作業台の周りを片付け、ガルドの店で使う場面を簡単に再現することにした。
ミハイルが店員役になり、容器を台の上に置く。
「いらっしゃいませ! 本日は保温容器をご覧になりますか?」
「客が来る前に、蓋を開けておいてくれ」
「かしこまりました!」
ミハイルが蓋を開く。
カチッ。
蓋は固定された。
そこへ俺が客の役で近づく。
「飲み物を一つ頼む」
「ありがとうございます!」
ミハイルは容器を少し傾けようとした。
その瞬間、蓋がわずかに揺れた。
「おっと!」
ミハイルが動きを止める。
「今の動きだ」
俺は蓋を確認した。
「客に渡すために注ぐとき、蓋が動いたら気になる。これでは、安心して使えない」
「確かに……。店員役をしてみると、容器を傾けないわけにはいきませんね」
「そういうことだ」
エルダが容器を受け取った。
「今の動きを基準にして、どの角度まで安定しているか確認しましょう」
「それと、蓋を閉じる動作も見ておきたいですね」
ダリオが言った。
「注ぎ終わった後、すぐに蓋を閉じられないと作業が止まる」
「そうだな。固定することだけでなく、解除して閉じるまでの一連の動作を考える必要がある」
ミハイルが帳面を開いた。
「では、固定、注ぐ、解除、閉じる。この四つを一連の動作として確認します!」
「いい整理だ」
「そして、最後にお客様へ笑顔で商品を渡す!」
「それは留め具の試験項目ではない」
「接客品質も大切です!」
「それは別の営業メモに書いておこう」
工房に笑いが起きた。
エルダは一号と二号を並べ、形状をじっと見比べていた。
「一号の引っ掛かりは深いけれど、解除するときに擦れる。二号は接触面が広いけれど、傾けたときに安定しない」
「一号の形を少しだけ変えれば、両方を改善できる可能性はありませんか?」
俺が尋ねると、エルダは頷いた。
「あると思う。引っ掛かりの深さを維持しながら、解除する方向の角度を変えれば、必要な力を減らせるかもしれない」
「ただし、変えるのはその部分だけですね」
「ええ。ほかの寸法は今のままにして、まずは一つの変更がどう影響するか確認するわ」
ダリオが図面を覗き込む。
「加工する前に、今の形状も測っておこう。比較できるようにしておけば、変化が分かりやすい」
「お願いします」
ミハイルが記録を始めた。
「試作品三号。改良目的は、固定力を保ちながら解除を軽くすること。変更箇所は引っ掛かり部分の角度……」
「まだ三号とは決まっていないぞ」
「えっ?」
「改良の方向は決まったが、試作品の番号は作ってからでいい」
「なるほど。名前を付けるのは完成してからですね!」
「名前を付けること自体、急がなくていい」
ミハイルは少し残念そうだった。
エルダが図面を作業台に広げる。
「それにしても、最初に考えていたより確認することが増えたわね」
「実際に使う場面を考えれば、必要なことが見えてきます」
俺は蓋を開いた状態の容器を見た。
「ただ、全部を一度に解決しようとすると、何を優先するのか分からなくなる。だから、まずは使う人が困る可能性の高いところから直していく」
「順番を決めるだけで、作業が進めやすくなりますね」
エルダが言った。
「営業も同じです。お客様が求めていることを全部並べるだけでは、提案にならない。何が一番困っていて、何を先に解決すべきなのかを考える必要があります」
ミハイルが頷いた。
「では、今回の改良で一番大切なのは、蓋が勝手に閉じないことですね」
「そうだ。便利にするための機能が、使う人を不安にさせてはいけない」
その後、エルダは一号の形状を参考に、引っ掛かり部分の角度を少し変えた図面を描いた。
加工する場所は一か所だけ。
まずはその変更によって、固定力と解除のしやすさがどう変わるかを確認する。
二号の接触面については、今回の試作では変更しない。
「これなら、結果が分かりやすいわ」
エルダが図面をまとめた。
「加工が終わったら、同じ条件で試験しましょう」
「お願いします」
ミハイルは帳面を閉じた。
「課長。今日の試験で分かったことがあります」
「何だ?」
「全部を一度に良くしようとすると、何を直したのか分からなくなる。でも、優先順位を決めて一つずつ直せば、次に何をすればいいのか見えてきます」
「その通りだ」
「それから、私が一番先に直すべきなのは、話を最後まで聞かずに動き出す癖ですね!」
「自分で気づいていたのか」
「はい。今日も試作品の名前を先に考えていました」
「そこは改善の優先順位が高そうだな」
エルダとダリオが笑った。
ミハイルは少しだけ頬を膨らませた。
「次は、試作品の番号を付ける前に、ちゃんと確認します!」
「まずは、その調子で頼む」
俺たちは次の試験に向けて準備を始めた。
便利な商品を作るために、機能を増やす必要はない。
使う人が本当に困っていることを見つけ、その問題から順番に解決していく。
その積み重ねが、長く使ってもらえる商品につながるのだ。
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営業メモ ②⑥⑥
複数の課題があるときは、すべてを同時に解決しようとせず、利用者への影響が大きい問題から優先して取り組みます。
今回の場合、蓋が予期せず動く問題を先に確認し、そのうえで解除のしやすさや耐久性を改善していきます。
営業でも、お客様の要望をすべて並べるだけでは十分ではありません。何が最も困っていることなのかを見極め、解決する順番を提案することが大切です。
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次回予告
第二百六十八話 営業課長、三つ目の試作品に手応えを感じる
引っ掛かり部分の角度だけを変更した、新しい試作品が完成した。
一号の固定力と、二号の操作性。その両方を目指した改良だった。
「今度こそ、いい結果が出るかもしれませんね!」
期待を込めて試験を始めるアルトたち。
ところが、蓋の開閉を繰り返していると、これまでとは違う小さな変化が見つかる。
改良の手応えと、新たな課題。
三つ目の試作品は、果たして合格に近づけるのか。




