第二百六十六話 営業課長、二つの改良案を比べる
「課長! 二つの新型が完成しました!」
工房に入ると、ミハイルが作業台の前で両手を広げていた。
その前には、保温容器用の留め具が二つ並んでいる。
「ずいぶん得意げだな」
「当然です。今回は私も試作品の比較表を作りました!」
「比較表?」
「はい。こちらが一号、こちらが二号です!」
ミハイルは左右の留め具を指差した。
エルダが苦笑する。
「名前はまだ決めていないわよ。勝手に番号を付けただけ」
「番号も立派な名前です!」
「そういうことにしておこう」
俺は二つの留め具を手に取った。
前回の試作品では、容器を傾けると蓋の固定が外れやすくなり、引っ掛かり部分には擦れ跡も見つかった。
今回は、その問題に対して二つの方向から改良を試みたらしい。
「まず、一号から説明してくれ」
エルダが一つ目の留め具を手に取った。
「一号は、蓋が外れにくいことを優先した形よ。引っ掛かりを少し深くして、横から力がかかっても外れにくくしている」
「つまり、固定力を強くしたわけですね」
「そう。ただし、解除するときの力が増える可能性がある」
続いて二つ目を示した。
「二号は、引っ掛かり部分の接触面を広くしたの。力が一点に集中しないようにして、擦れや摩耗を抑える狙いよ」
「こちらは耐久性を優先した案ですね」
「ええ。ただ、接触面が広がったことで、動きが重くなる可能性もあるわ」
ミハイルが帳面を開いた。
「一号は外れにくさ、二号は摩耗しにくさ。どちらも優秀です!」
「まだ試験前だぞ」
「優秀になる予定です!」
「予定で商品を売るな」
ミハイルは静かに帳面へ視線を戻した。
「では、試験を始めましょう」
俺たちは作業台の上に保温容器を二つ並べた。
まずは一号からだ。
エルダが留め具を取り付け、蓋を開く。
カチッ。
しっかりと引っ掛かった。
容器を少し傾ける。
問題ない。
さらに角度をつける。
蓋は揺れたものの、固定は外れなかった。
「おお、これはいいですね!」
ミハイルが声を上げた。
「前回の問題は改善しているようだな」
俺は容器を元に戻した。
今度は蓋を閉じてみる。
ところが――。
「ん?」
思ったよりも力が必要だった。
俺は指の位置を変えて、もう一度押した。
カチッ。
ようやく解除され、蓋が閉じた。
「少し固いですね」
「引っ掛かりを深くした分、解除にも力が必要になったわね」
エルダが留め具を確認した。
「両手で扱うなら問題ないかもしれない。でも、片手で閉じようとすると少し苦労するわ」
ミハイルが実際に試した。
右手で容器を押さえ、左手で蓋を閉じようとする。
「よいしょ……」
カチッ。
閉じることはできたが、指先に力が入っている。
「確かに、少し固いです」
「ガルドさんが忙しいときに、毎回この力が必要になるのは困るな」
俺は一号を作業台に戻した。
「固定力は改善した。ただし、解除の操作性が悪くなっている」
ミハイルが記録する。
「一号。傾けても外れにくい。閉じるときには強い力が必要」
「いい記録だ」
次は二号だ。
エルダが留め具を取り付ける。
蓋を開く。
カチッ。
一号よりも軽い動きだった。
「おっ、こちらは軽いですね」
ミハイルが蓋を開閉する。
動きは滑らかで、解除にもほとんど力がいらない。
「操作性はこちらの方が良さそうです」
俺は容器を傾けた。
少し傾ける。
問題ない。
もう少し角度をつける。
すると、蓋が小さく揺れた。
「また揺れましたね」
「固定が浅いのかしら」
エルダが確認する。
今度は容器を少しずつ元に戻し、同じ動きを繰り返した。
三回目。
カタン。
蓋がわずかに動いた。
完全に外れたわけではないが、引っ掛かりがずれている。
「一号ほど安定していないな」
ダリオが言った。
「接触面を広げたことで、引っ掛かりの位置が変わったのかもしれないわ」
エルダは留め具を外して、形状を確認した。
「固定する部分の深さは前回とほとんど変えていない。接触面を広げた分、力のかかり方が変わっている可能性がある」
「では、二号は摩耗しにくくても、傾けたときの固定力が足りないということですね」
「今のところは、そう見えるわね」
ミハイルが二号の横に小さく丸印を書いた。
「操作性、良好。固定力、要改善」
「その調子だ」
俺は二つの試作品を並べた。
一号は固定力が高いが、解除に力が必要。
二号は操作しやすいが、傾けたときの安定性に不安がある。
「どちらも一長一短ですね」
ミハイルが言った。
「そうだな。だからといって、単純に二つの中間にすれば解決するとは限らない」
「中間では駄目なんですか?」
「一号の引っ掛かりを少し浅くして、二号の接触面を少し狭くする。そうすれば良くなる可能性はある。でも、両方の弱点が残る可能性もある」
エルダが頷いた。
「形状を少しずつ変えて、どの部分が動きに影響しているか確かめる必要があるわ」
ダリオが一号を持ち上げた。
「もう一つ、確認したいことがある」
「何でしょう?」
「繰り返し使ったときの変化だ。今の試験は、どちらも作った直後の状態でしか見ていない」
確かに、その通りだった。
一度開閉できたからといって、長期間使えるとは限らない。
俺はミハイルの帳面を覗いた。
「二つとも、同じ回数だけ開閉試験をしてみよう」
「何回にしますか?」
「まずは五十回。その後に、もう一度傾けたときの固定状態と、解除のしやすさを確認する」
「分かりました!」
ミハイルが一号を担当し、俺は二号の試験を担当した。
開く。
閉じる。
開く。
閉じる。
単純な動作だが、繰り返していくと、わずかな違いが見えてくる。
一号は、三十回を過ぎたあたりから、解除するときの感触が少し変わった。
「最初よりも、少し引っ掛かる感じがします」
ミハイルが報告した。
エルダが確認する。
「確かに。解除するときに、留め具の端が受け部分に擦れているわ」
「固定力が強い分、解除時の接触も強くなっているのかもしれませんね」
「そうね。ただ、まだ摩耗が原因とは断定できないわ。動きの変化と形状を確認しましょう」
一方、二号は四十回を過ぎても、開閉自体は軽かった。
しかし、五十回目を終えて蓋を傾けると、最初よりも少し揺れが大きくなっていた。
「こちらも変化がありますね」
俺は蓋を元の位置に戻した。
エルダが二号の接触面を確認する。
「擦れ跡が少し広がっているわ。接触面を広げたことで、別の部分にも力がかかっている可能性がある」
「摩耗を抑えるつもりが、別の場所に負担が移ったんですか?」
「その可能性はあるわね」
ミハイルが二つの留め具を見比べた。
「一号は固くなり、二号は揺れやすくなった……」
「そういう結果になったな」
「どちらも、最初の状態のままではありませんね」
「それが今回分かったことだ」
俺は二つの試作品を作業台に並べた。
「最初の操作感だけで判断していたら、一号は固定力が強くて優秀、二号は軽くて使いやすいと評価していたかもしれない」
「でも、繰り返し使うと違いが出てきましたね」
「そうだ。商品は一回使って終わりじゃない。毎日使う人がいる。最初だけ便利でも、使い続けるうちに不具合が出るなら、改良としては不十分だ」
ミハイルは真剣な顔で頷いた。
「では、次は三号を作るんですね!」
「すぐに三号を作るとは限らない」
「えっ?」
「一号と二号の結果を整理して、どの形状を変えるべきか考える。原因が分からないまま次を作っても、同じ失敗を繰り返すだけだ」
エルダが図面を手に取った。
「まずは一号の解除時に擦れている場所と、二号の揺れが出る場所を比べてみるわ。それから形状を調整する」
「二つの良いところを組み合わせるだけではなく、問題が起きた理由を確かめるんですね」
「その通りよ」
ダリオが頷いた。
「作る側としても、どこを直すのか分かっていた方が無駄な加工を減らせる」
俺はミハイルの帳面を指差した。
「今回の結果は、ガルドさんにも説明できるように整理しておこう。まだ完成品ではないが、どんな改善を試して、何が分かったのかは伝えられる」
「失敗したことも説明するんですか?」
「もちろんだ」
「失敗した試作品を見せたら、信用を失いませんか?」
「隠して完成したように見せる方が、信用を失う」
俺は一号を手に取った。
「試験で問題が見つかった。だから改善する。その過程を正直に伝えれば、少なくとも、こちらが何も確認せずに商品を渡すつもりではないと分かってもらえる」
ミハイルは少し考えてから、帳面に書き込んだ。
「なるほど……。売るために良いところだけを並べるのではなく、使う人が判断できる情報を伝えるんですね」
「そういうことだ」
そのとき、ミハイルが突然顔を上げた。
「課長!」
「今度は何だ?」
「一号と二号、どちらも欠点がありますが、二つ合わせれば最強になるのではありませんか?」
「どういう意味だ?」
「一号の固定力と、二号の軽さを合わせるんです!」
エルダが首を傾げた。
「それが簡単にできれば苦労しないわね」
「では、二つの留め具を合体させて……」
「部品を増やさない改良だったはずだぞ」
「そうでした!」
ミハイルは慌てて帳面を閉じた。
「危うく、部品を二倍にするところでした!」
「そこは危うくで済ませないでくれ」
工房に笑い声が広がった。
二つの試作品は、どちらも完成には届いていない。
だが、それぞれの長所と弱点が見えたことで、次に確認すべきことは明確になった。
一号の固定力を保ちながら、解除を軽くする。
二号の操作性を保ちながら、傾けたときの安定性を高める。
そして、繰り返し使っても状態が変わりにくい形を探す。
「次は、形状を一か所ずつ変えて試しましょう」
エルダが言った。
「お願いします。急がず、原因を確かめながら進めましょう」
俺は二つの試作品を保管棚に置いた。
失敗したからといって、何も得られなかったわけではない。
むしろ、何が良くて、何が足りないのかが見えてきた。
それは、次の提案を考えるための大切な材料だった。
そして、ミハイルの帳面には、最後にこんな一文が書き加えられていた。
『一号と二号は、まだ合格ではない。なお、合体も禁止』
「……最後の一文は必要か?」
「私への注意書きです!」
「自覚があるなら、よろしい」
工房には、再び笑い声が響いた。
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営業メモ ②⑥⑤
複数の改良案を比較するときは、最初の使いやすさだけで判断してはいけません。
今回のように、一方は固定力が強くても解除しにくく、もう一方は操作しやすくても安定性に欠ける場合があります。
それぞれの長所と短所を分けて記録し、同じ条件で試験することで、改善すべき点が明確になります。
営業でも、複数の提案を比較するときは、価格や見た目だけでなく、使い続けたときの負担や維持費まで確認することが大切です。
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次回予告
第二百六十七話 営業課長、改良の優先順位を決める
一号と二号の試験結果を整理したアルトたち。
しかし、固定力、操作性、耐久性のすべてを一度に改善しようとすると、形状の調整は複雑になっていく。
「全部を良くしたい気持ちは分かるけれど、どこから手を付けるの?」
エルダの問いに、アルトはガルドが実際に使う場面を思い出す。
そして、改良の優先順位を決めるため、もう一度お客様の使い方に立ち返ることにした。




