第二百六十五話 営業課長、試作品の思わぬ弱点を見つける
「課長。見てください! 蓋が立ったままです!」
工房に入るなり、ミハイルが保温容器を掲げた。
その顔には、まるで自分が発明したかのような満足げな笑みが浮かんでいる。
「昨日も見たぞ」
「今日は違います。昨日よりも自信を持って立っています!」
「蓋に自信があるかどうかは知らないが……」
俺は容器を受け取った。
エルダが改良した二つ目の試作品だ。
既存の留め具の形状を変え、蓋を開いたときに小さな段差が引っ掛かるようにしてある。新しい部品を追加せず、蓋を開いた状態で保持する仕組みだった。
「昨日の確認では、開閉もずいぶん滑らかになったんですよね?」
「ええ。引っ掛かりを強くしすぎず、解除するときの力も軽くできたわ」
エルダが答えた。
「ただし、まだ十分な試験はしていない。今日は繰り返し使ったときの状態を確認するつもりよ」
ダリオも作業台の横に立っていた。
「形状を変えた部分に負担が集中していないか、そこも見ておきたいな」
「分かりました。では、まずは普通に開閉してみましょう」
俺がそう言うと、ミハイルが元気よく手を挙げた。
「私が担当します!」
「頼む。ただし、勢いよく扱う必要はないぞ」
「丁寧に、正確に、そして華麗に!」
「最後の一つは必要ない」
ミハイルは少し不満そうな顔をしたが、容器の前に立った。
蓋を開く。
カチッ。
留め具が引っ掛かり、蓋が開いた状態で止まる。
閉じる。
カチッ。
今度は無理なく解除できた。
「問題ありません!」
「まだ一回目だ」
「では、二回目!」
同じ動作を繰り返す。
三回、十回、二十回。
エルダが動きを確認し、ダリオが留め具の状態を見ている。
俺はミハイルの手元に目を向けた。
「開け方を変えてみてくれ」
「開け方ですか?」
「毎回、同じ角度から同じ力で操作するとは限らない。少しだけ斜めから開けたり、片手で扱ったりしてみよう」
「なるほど。お客様の動きに近づけるわけですね」
ミハイルは蓋を開く角度を少し変えた。
カチッ。
問題なく止まる。
次は片手で開け、反対の手で容器を押さえる。
これも問題ない。
「順調ですね!」
「そうだな。では、次は容器を少し傾けてみよう」
俺は容器を持ち上げた。
蓋は開いたままだ。
ゆっくり右に傾ける。
最初は何も起きなかった。
だが、もう少し角度をつけたところで――。
カタン。
蓋が小さく揺れた。
「ん?」
ミハイルが手を止めた。
俺は容器を元の位置に戻した。
蓋はまだ開いた状態を保っている。
「今の動き、見たか?」
「はい。少し揺れましたね」
エルダが留め具を確認する。
「引っ掛かりが外れかけたのかしら」
「もう一度、同じ角度まで傾けてみます」
俺は容器を持ち直した。
今度はゆっくりと、先ほどと同じ方向へ傾ける。
カタン。
そして、蓋がわずかに動いた。
「うわっ!」
ミハイルが思わず手を伸ばした。
蓋は完全には閉じなかったものの、留め具の引っ掛かりが外れ、蓋が自重で動いてしまったのだ。
「これは……」
ダリオが容器を受け取った。
「平らな場所では問題ないのに、傾けると止まらなくなるのか」
「そうみたいですね」
俺は蓋の動きをもう一度確認した。
「ガルドさんが使うとき、容器を傾けることはありますよね」
「もちろん。中身を注ぐなら、容器を傾けるわ」
エルダが答えた。
「つまり、実際の使用では起きる可能性がある問題ね」
ミハイルの顔から笑みが消えた。
「でも、蓋を開いたまま固定する機能自体は成功していますよね?」
「平らな場所でならな」
「では、傾けたときだけ注意してもらえば……」
「それでは改良の意味が薄くなる」
俺は静かに答えた。
「使う人に、毎回この角度なら大丈夫、この角度なら危ないと覚えてもらうのか?」
「それは……面倒ですね」
「面倒なだけならまだいい。注いでいる最中に蓋が動けば、手元が狂う可能性もある」
エルダが頷いた。
「蓋を置く手間をなくそうとして、別の不安を増やしてしまったわね」
ミハイルは容器を見つめた。
「せっかく便利になったのに……」
「だから試験をするんだ」
俺は蓋を開いた状態に戻した。
「使う前に分かったのは幸運だよ」
「そうですね。お客様に使ってもらってから気づくよりは、ずっといいです」
ダリオが留め具を外した。
「引っ掛かりが浅いのかもしれないな。もう少し深くすれば、傾けても外れにくくなるんじゃないか?」
「その可能性はあります」
エルダは図面を取り出した。
「ただ、深くしすぎると、今度は閉じるときに外れにくくなるわ」
「確かに。昨日も引っ掛かりが強すぎて、解除に力が必要になりましたね」
俺は留め具の形状を指で示した。
「今の仕組みでは、蓋の重みが横方向にかかると、引っ掛かりが浅くなる方向へ力が働いているんじゃないでしょうか」
エルダが留め具を動かした。
「そうね。平らな状態では蓋の重みが下向きにかかる。でも、容器を傾けると、蓋の重さが横にもかかる。その力で引っ掛かりが外れる方向へ動いている」
「それなら、引っ掛かる部分の形を変えれば……」
ミハイルが口を開いた。
「深くするだけでなく、横から力がかかったときにも外れにくい形にするんですね!」
「考え方はいいわ。でも、解除するときの動きも残さないといけない」
エルダは紙に簡単な図を描いた。
「ここを深くするだけでは、閉じるときに力が必要になる。だから、引っ掛かる面の角度や、解除する方向も考える必要があるわ」
ダリオが図を覗き込んだ。
「それと、もう一つ気になることがある」
「何ですか?」
「この引っ掛かり部分だ。形を変えたことで、ここに力が集中している」
ダリオが留め具の先端を指した。
よく見ると、角の部分にわずかな擦れ跡があった。
「これは最初からあったものですか?」
俺が尋ねると、エルダは首を横に振った。
「取り付けた直後にはなかったわ。試験を繰り返すうちに付いたものだと思う」
ミハイルが目を近づけた。
「本当だ。ほんの少しだけ角が丸くなっています」
「まだ目で見て分かるほどではないけれどね」
エルダは留め具を光にかざした。
「引っ掛かる部分が繰り返し擦れている。これが続けば、固定する力が弱くなる可能性があるわ」
「つまり、今は傾けると外れやすく、使い続けるとさらに外れやすくなるかもしれない、ということですね」
「そういうこと」
ミハイルが腕を組んだ。
「うーん……。便利になるために作った部分が、便利さを壊してしまうとは」
「なかなか厳しい評価だな」
「でも、事実です!」
「その通りだ」
俺は頷いた。
「今回の問題は二つある。一つは、容器を傾けたときに蓋の固定が外れやすいこと。もう一つは、繰り返し使うことで引っ掛かり部分が摩耗する可能性があることだ」
エルダは図面の横に二つの項目を書いた。
「この二つを分けて確認しましょう。まず、容器を傾けたときの力のかかり方。次に、繰り返し開閉した後の引っ掛かりの変化」
「同時に形を変えると、どちらの改善で結果が変わったのか分からなくなりますね」
「ええ。まずは一つずつ試すわ」
ミハイルが帳面を開いた。
「記録します。試験内容は、傾けたときの固定状態と、開閉を繰り返した後の摩耗状態ですね」
「そうだ。ただし、まだ原因を断定するなよ」
「分かっています。今回の試作品は、傾けると蓋が動くことが確認された。引っ掛かり部分には擦れ跡が見つかった。ここまでですね」
「よくできた」
ミハイルは嬉しそうに胸を張った。
「私も成長しました!」
「その調子で、記録も正確に頼む」
「はい!」
ところが、ミハイルは帳面の端に何かを書き足した。
「何を書いている?」
「今回の試作品の名前です」
「名前?」
「はい。平らな場所では優秀なのに、傾くと弱くなる。そこで――」
ミハイルは得意げに顔を上げた。
「水平専用・蓋おさえ君です!」
「名前で問題を解決するな」
「でも、特徴は分かりやすいですよ!」
エルダが笑いをこらえながら言った。
「その名前を付けるなら、容器を傾けられない商品になってしまうわね」
「それは困ります!」
ダリオも笑った。
「名前を付ける前に、まずは普通に使えるようにしないとな」
「はい……。名前は保留にします」
「名前だけでなく、完成の判断も保留だ」
俺は試作品を作業台に戻した。
蓋を開いたまま固定できる。
閉じるときも、昨日より軽い力で操作できる。
部品を増やさずに、便利さを加える方向性は間違っていない。
しかし、実際に容器を傾けると、蓋が外れやすくなる。
さらに、使い続けることで引っ掛かり部分が摩耗する可能性も見つかった。
改良によって新しい機能が生まれた一方で、新しい弱点も生まれていたのだ。
「エルダ。次は、引っ掛かりの形を変えた試作品を二つ作れますか?」
「二つ?」
「一つは傾けたときに外れにくい形。もう一つは、擦れが集中しにくい形です。まずは別々に確認したい」
「分かったわ。解除のしやすさも忘れずに確認する」
「お願いします」
ミハイルが帳面を閉じた。
「課長。ガルドさんには、まだ見せないんですか?」
「今の状態では見せられないな。便利になった部分だけを見せて、弱点を隠すわけにはいかない」
「でも、完成まで時間がかかりますね」
「そうだな。ただ、急いで渡して使いにくいと思われたら、今までの改良も意味がなくなる」
俺は試作品をもう一度見た。
「商品は、作った側が便利だと思うだけでは足りない。使う人が安心して使えるところまで確認して、初めて提案できる」
エルダが小さく頷いた。
「今度は、傾けても蓋が外れにくく、それでいて簡単に閉じられる形ね」
「それに、何度使っても状態が変わらないことも必要です」
「条件が増えましたね」
ミハイルが言った。
「増えたんじゃない。最初から必要だったことが、試験で見えてきたんだ」
「なるほど……」
ミハイルは納得したように頷いた。
そして、帳面を開き直した。
「では、次の試作品の名前も考えておきます!」
「まだ早い」
「今度は傾けても大丈夫な名前にします!」
「だから名前は後でいい」
工房に笑い声が広がった。
俺たちは、もう一度留め具の形状を見直すことにした。
便利さを一つ増やす。
その裏側で、どんな負担が生まれるのか。
それを見落とさないことも、商品を売る側の責任なのだ。
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営業メモ ②⑥④
改良によって新しい機能を追加したときは、その機能が正常に働く条件だけでなく、実際の使用環境で弱点が出ないか確認することが重要です。
今回のように、平らな場所では問題がなくても、容器を傾けると固定が外れる場合があります。また、繰り返し使うことで摩耗が進む可能性もあります。
営業でも、提案したメリットだけを説明するのではなく、使用条件や注意点まで把握しておく必要があります。短期的な便利さだけでなく、長く安心して使えるかどうかが、信頼につながります。
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次回予告
第二百六十六話 営業課長、二つの改良案を比べる
蓋が外れやすい問題と、留め具の摩耗。
エルダは二つの弱点に対し、異なる形状の試作品を用意することにした。
「こちらは外れにくさを優先した案。もう一つは摩耗を抑える案よ」
ところが、試験を始めると、それぞれに違った問題が見つかる。
「両方とも良いところがあるのに、どちらも一筋縄ではいかないですね!」
ミハイルの感想に、アルトは新たな比較の必要性を感じるのだった。




