第二百七十話 営業課長、見えない負担を数字にする
「課長! 大変です!」
朝から工房に響き渡ったミハイルの声に、アルトは帳面から顔を上げた。
「今度は何だ?」
「蓋が、落ち着きません!」
「それは昨日も聞いた」
「昨日より落ち着きがないんです!」
「蓋に機嫌でもあるのか?」
「少なくとも、私よりは気難しいです!」
エルダが作業台の向こうから顔を出した。
「蓋の機嫌を取る前に、昨日の試作品を持ってきな」
ミハイルは慌てて、三つ目の試作品を運んできた。
蓋を開ける。
閉める。
持ち上げる。
歩く。
曲がる。
昨日の試験では、まっすぐ歩いている間は大きな問題がなかった。しかし、方向を変えると蓋がわずかに揺れ、留め具の接触部分に横向きの擦れ跡が広がっていた。
「昨日の結果を整理しよう」
アルトは帳面を開いた。
「歩き方だけじゃなく、持つ位置によっても揺れ方が変わった。まず、そこを確かめる」
「つまり、持ち方の問題ですね!」
「そう決めつけるのは早い」
「では、持ち方のせいかもしれない問題ですね!」
「言い方を変えただけだろ」
ミハイルは真面目な顔で頷いた。
「言葉の節約は大切です」
「今はその節約を試作品の改善に使ってくれ」
エルダが小さく笑った。
「それで、どうやって調べる?」
アルトは取っ手を指で示した。
「まず、持つ位置を決める。昨日は私とミハイルで握る場所が違った。それでは比較にならない」
エルダは取っ手に細い印を二つ付けた。
「ここからここまでを握る。これなら誰が持っても同じ位置になるね」
「分かりやすいですね!」
ミハイルが取っ手を握った。
ところが、指先が印から大きくはみ出している。
「ミハイル。そこじゃない」
「はい?」
「印の間だ」
「ああ、なるほど。私は印を目安に、広く握っていました」
「それは目安じゃなくて、範囲外だ」
アルトはミハイルの手をそっと動かした。
「指の位置を揃える。握る強さまで完全に同じにはできないが、少なくとも持つ場所は合わせられる」
「分かりました。今度こそ正確に握ります!」
ミハイルは両手で取っ手を握りしめた。
「力を入れすぎだ」
「えっ?」
「試作品を運ぶんだ。握り潰す仕事じゃない」
「なるほど……。私は商品への愛情が強すぎたようです」
「商品は愛情より、適切な力で扱ってくれ」
エルダが吹き出した。
まずはアルトが印の間を握り、決めた歩数だけ工房の床を歩いた。
十歩進み、決めた位置で右に曲がる。
それを三回繰り返す。
次にミハイルが同じ手順を試した。
さらにエルダも加わった。
「揺れ方はどうだ?」
アルトが尋ねると、エルダは蓋の動きを確認した。
「昨日より差が小さいね。少なくとも、持つ位置を揃えたことで比較しやすくなった」
「でも、揺れは残っています」
ミハイルが蓋を軽く押さえた。
「そこが大事だ。持つ位置を揃えても揺れるなら、持ち方だけが原因じゃない」
アルトは蓋の留め具を見た。
「次は、揺れそのものを記録しよう」
「揺れを記録する?」
「目で見て、大きい小さいと言っているだけでは、昨日との違いが分からない」
エルダは少し考え、薄い木片と定規を持ってきた。
「蓋の端に目印を付けて、動いた距離を比べるのはどうだい?」
「それでいこう」
蓋の端と本体側に、それぞれ小さな印を付ける。
蓋が動いたとき、その印のずれを定規で測る。
もちろん、細かな数字を正確に測れる道具ではない。
だが、同じ場所で、同じ向きから、同じ方法で比べれば、昨日より揺れが大きくなったかどうかを判断する手掛かりにはなる。
「まず、机の上で動かしてみよう」
アルトが蓋を軽く左右に動かす。
「右に動いたときは、印がこちらへずれる」
「左なら反対ですね」
「そうだ。方向も記録する」
ミハイルは帳面に線を引いた。
「右、左、右、左……」
「それだけじゃない。何歩歩いた後か、何回曲がった後かも書く」
「右、左、歩数、曲がった回数……」
ミハイルの手が止まった。
「課長」
「何だ?」
「帳面が、蓋の動きで埋まりそうです」
「蓋の動きを調べているんだから当然だ」
「いえ、そうではなく……。私の字が、蓋より先に揺れています」
見ると、記録欄の文字が斜めに傾いていた。
「それは試作品の問題じゃない」
エルダが帳面を覗き込み、笑いをこらえた。
「ミハイル、まずは落ち着いて書きな」
「はい。私の揺れも改善します」
「そっちは後回しでいい」
次に、三人は試作品を持って工房の通路を歩いた。
十歩。
右に曲がる。
さらに十歩。
左に曲がる。
これを決めた回数だけ繰り返す。
アルトが測り、エルダが接触部分を確認し、ミハイルが記録する。
一回目。
二回目。
三回目。
「数字が出ました」
ミハイルが帳面を見せた。
「持つ位置を揃えた状態でも、曲がった後に蓋の印が少しずれています」
「まっすぐ歩いた後は?」
「ほとんど変わりません」
「接触跡は?」
エルダが留め具を確認した。
「やっぱり横に広がっている。昨日より少しだけね」
アルトは頷いた。
「持つ位置の違いは、揺れ方に影響していた。だが、位置を揃えても揺れは残った」
「ということは、持ち方だけでは説明できないんですね」
「そうだ」
アルトは蓋の端を指で押した。
ほんのわずかだが、横方向に動く感触がある。
「この遊びが、曲がるときの動きに関係している可能性がある」
「留め具の隙間ですか?」
「まだ分からない。蓋の支点なのか、留め具なのか、それとも両方なのか」
エルダは蓋を外さず、接触部分をじっと見た。
「擦れ跡が広がっている場所は、昨日と同じだね。動く方向も似ている」
「なら、そこを重点的に調べましょう」
ミハイルが勢いよく立ち上がった。
「今度は、蓋を左右に振る試験を追加します!」
「勝手に試験を増やすな」
「えっ、駄目ですか?」
「必要な試験ならやる。ただし、何を確かめたいのか決めてからだ」
アルトは帳面に三つの項目を書いた。
持つ位置。
蓋の横方向の動き。
留め具の接触跡。
「次は、この三つを分けて調べる。持つ位置を揃えたまま、蓋の横方向の動きだけを変えてみる。そこで揺れ方が変われば、原因を絞り込める」
エルダは頷いた。
「余計なところをいじらず、一つずつ確かめるんだね」
「そうだ。ここで焦って留め具を削ったら、せっかく見つけた手掛かりを失う」
ミハイルは帳面を抱えた。
「つまり、数字にして見えない負担を見つけるんですね」
「いい言葉だな」
アルトが褒めると、ミハイルは胸を張った。
「ありがとうございます! 今後は私も、見えない負担を数字にしていきます!」
「まずは、帳面の文字の傾きを直してくれ」
「そこも数字にできますか?」
「できるが、今は必要ない」
工房に笑い声が広がった。
しかし、アルトの視線は試作品から離れなかった。
持ち方を揃えても残った揺れ。
横方向に広がる擦れ跡。
そして、指先に伝わる小さな遊び。
まだ原因は確定していない。
だが、曖昧だった違和感が、少しずつ形になり始めていた。
「エルダ。次は蓋を外して、支点と留め具を別々に確認しよう」
「分かった。削るのは、その後だね」
「その通り」
ミハイルが手を挙げた。
「課長!」
「今度は何だ?」
「原因が見つかったら、私にも分かるように説明してください!」
「もちろんだ」
「できれば、絵付きで!」
「分かった」
「あと、できれば昼食前に!」
アルトは帳面を閉じた。
「最後の条件だけは、検討しておく」
ミハイルは満足そうに頷いた。
どうやら彼にとって、最も見えない負担は空腹らしい。
だが、今回の試験で一つだけ確かなことがある。
商品を使う人の負担は、目に見える不具合だけではない。
小さな揺れも、何度も繰り返されれば、使いにくさになる。
そして、その小さな違和感を見逃さないためには、感覚を記録できる形に変える必要があるのだった。
営業メモ ②⑥⑨
感覚的な問題を改善するときは、「何となく使いにくい」で終わらせない。
持つ位置、動かす回数、使用条件など、比較できる条件を揃え、変化を記録する。
ただし、数字が出たからといって、すぐに原因が確定するわけではない。
数字は結論ではなく、次に何を確かめるべきかを教えてくれる手掛かりである。
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次回予告
第二百七十一話 営業課長、蓋の隙間に隠れた原因を探る
持ち方を揃えても残る蓋の揺れ。
アルトたちは、蓋の支点と留め具を別々に調べることにする。
ところが、蓋を外したミハイルが、とんでもない発見をしてしまう。
「課長! 蓋が、外れた状態のほうが素直です!」
「商品としては困る発見だな……」




