第二百五十四話 営業課長、閉め方ひとつの違いに気づく
「つまり、部品が痩せたわけではないんですね?」
ミハイルが、少し残念そうに試験台の上を見つめていた。
「残念ながら、部品に食事を与える必要はない」
「そうですか。昨日、工房の食堂に相談しようと思っていたのですが」
「何を相談するつもりだったんだ?」
「部品用の特別メニューです。栄養を考えた献立を――」
「やめなさい」
アルトは即座に止めた。
部品に食事を与える前に、人間の食事代が増える。
それだけは避けなければならない。
エルダは、試験を終えた容器の留め具を手に取った。
「冗談はそこまで。昨日見つけた擦れ跡について、もう少し調べたい」
「原因が分かったんですか?」
「まだ。けれど、気になることがある」
エルダは、蓋と本体を並べた。
「同じ容器でも、閉めるときの蓋の角度によって、留め具にかかる力が違うみたいなんだ」
「角度ですか?」
「そう。正面からまっすぐ閉めた場合と、片側を先に押さえて閉めた場合。わずかだけど、留め具の当たり方が変わる」
ミハイルは容器をのぞき込んだ。
「なるほど。つまり、閉め方に個性があるんですね」
「容器に個性を持たせる必要はない」
アルトは苦笑した。
「使う人によって閉め方が違う。それだけの話だ」
「では、使う人にも試験に参加してもらいましょう」
エルダが提案した。
「工房の人間だけで試しても、実際の使われ方とは違うかもしれない。ガルドにも協力してもらって、何人かに普段どおり閉めてもらおう」
「それなら、店で試せますね」
アルトはうなずいた。
「ただし、商品として売る前の確認だ。お客さんに不具合のあるものを渡すわけにはいかない。試験用だと説明して、無理な力をかけないようにしてもらおう」
「分かりました」
ミハイルが勢いよく手を挙げた。
「私も参加します!」
「もちろんだ」
「では、私が最初に閉めます!」
「どうしてそんなに張り切るんだ?」
「営業担当として、商品の使い心地を誰よりも理解しておきたいのです!」
アルトは少し感心した。
その直後、ミハイルは容器を両手で持ち上げた。
「まずは、私の必殺技で――」
「普通に閉めろ」
「はい!」
必殺技は封印された。
◆
翌日。
ガルドの店の奥に、試験用の容器が三つ並べられていた。
「これが例の留め具か」
ガルドは蓋を持ち上げ、慎重に眺めた。
「見た目は前のものと変わらないな」
「大きく変えたわけではありません。留め具の形と取り付け位置を調整している段階です」
エルダが説明する。
「今日は、普段どおりに蓋を閉めてもらって、引っ掛かりがないか確認したいんです」
「分かった。客に使わせるわけじゃないんだな?」
「はい。試験用です。販売はまだしません」
アルトが念を押した。
ガルドは一つ目の容器を手に取った。
蓋をまっすぐ下ろし、留め具を押さえる。
カチッ。
小気味よい音がした。
「問題ないな」
次に、二つ目。
ガルドは片側を先に押さえ、反対側を下ろしてから留め具を閉じた。
カチッ。
こちらも問題はなさそうだった。
「普段は、こうやって閉めることもある。急いでいるときなんかは特にな」
「なるほど」
エルダは記録を取った。
続いてミハイルが挑戦する。
「では、私も普段どおりに」
「お前の普段どおりって何だ?」
「丁寧で、優雅で、無駄のない動作です」
「それなら期待しておこう」
ミハイルは容器を置き、蓋を閉めた。
カチッ。
「完璧です!」
「今のは普通だったな」
「普通を極めた結果です!」
アルトは聞かなかったことにした。
その後、エルダと工房の職人にも試してもらった。
すると、ある違いが見えてきた。
「ちょっと待って」
エルダがミハイルの手元を見た。
「もう一度、同じ閉め方をしてくれる?」
「はい!」
ミハイルは蓋を開け、片側を押さえてから反対側を閉じた。
カチッ。
「今度は、反対側からも試して」
「分かりました」
今度は反対側を先に押さえる。
カチッ。
音は同じだったが、エルダは留め具の動きをじっと見ていた。
「やっぱり……」
「何かありましたか?」
「片側から閉めたときだけ、留め具の端が少し強く当たっている」
エルダは容器を受け取り、留め具の接触部分を確認した。
「昨日の擦れ跡と同じ位置だ」
アルトも身を乗り出した。
「つまり、蓋の閉め方によって、擦れる場所が変わる?」
「そう。しかも、蓋の位置がほんの少しずれると、留め具の端に力が集中する」
「それが繰り返されると、擦れ跡ができる可能性があるんですね」
「そう考えられる。ただ、まだ断定はできない」
エルダは慎重だった。
「部品の形状にも個体差がある。取り付け位置にもわずかな違いがある。閉め方だけが原因とは限らない」
アルトはうなずいた。
「一つの原因に決めつけるのは早いな。使い方と部品の状態、取り付け位置。それぞれを分けて確かめよう」
「では、試験項目を増やします」
ミハイルが記録帳を開いた。
「閉め方は、正面から、右側から、左側からの三種類ですね」
「そうだな」
「さらに、急いで閉める場合と、ゆっくり閉める場合も必要でしょうか?」
「それも確認したい。ただし、乱暴に扱う試験とは分ける。実際にありそうな使い方を確認するんだ」
「承知しました!」
ミハイルは記録帳に書き込んだ。
そして、少し考え込んだ。
「課長」
「何だ?」
「お客さんの閉め方が原因だった場合、説明書に『正しい閉め方』を大きく書けば解決しますか?」
アルトはすぐには答えなかった。
「説明は必要かもしれない。でも、それだけで解決しようとするのは危険だ」
「どうしてですか?」
「お客さんは、工房の人間と同じように丁寧に扱ってくれるとは限らない。忙しいときもあるし、荷物を持っているときもある。片手で閉める人だっているだろう」
ガルドがうなずいた。
「旅人は特にそうだな。荷物を持ったまま、片手で蓋を閉めることもある」
「だから、普通に使っただけで壊れやすいなら、商品側を見直す必要がある」
アルトは容器を指さした。
「使い方を説明することと、使いやすく作ることは別の仕事だ。どちらか一方に押しつけてはいけない」
ミハイルは真剣な顔で書き留めた。
「なるほど……。つまり、お客さんに『もっと上手に使ってください』と言う前に、こちらがもっと上手に作る必要があるんですね」
「そういうことだ」
「では、私ももっと上手に閉めます!」
「お前はまず、普通に閉められれば十分だ」
「普通の道は険しいですね……」
ガルドが笑った。
◆
工房に戻ると、エルダは留め具の取り付け部分を確認し始めた。
「やはり、取り付け位置のわずかなずれが気になる」
「治具で固定しているんじゃなかったか?」
アルトが尋ねる。
「固定はしている。ただ、蓋側の部品を取り付けるとき、押さえる位置が少しずれる可能性がある」
「印をつけるだけでは難しいか?」
「印はある。でも、部品そのものの形がわずかに違えば、同じ位置に置いても当たり方が変わる」
エルダは部品を二つ並べた。
見た目はほとんど同じだった。
しかし、端の角度を比べると、ごくわずかな差がある。
「これくらいの違いでも、蓋を閉めたときには影響するのか」
「可能性はある。だから、部品の形状と取り付け位置を組み合わせて確認したい」
「作業が増えそうだな」
「増える。でも、今ここで確認しておかないと、後で大きな手間になる」
ミハイルが横から口を挟んだ。
「では、私が部品を全部並べて、見た目で判定します!」
「見た目だけで分かるなら、苦労しない」
「では、鼻で……」
「やめろ」
「冗談です!」
アルトは深く息を吐いた。
「ミハイル。今回は、部品ごとに番号をつけて、形状、取り付け位置、閉め方、試験回数を記録してくれ。どの条件で擦れ跡が出たのか、後から追えるようにする」
「分かりました!」
「それから、同じ条件で何度か繰り返す。偶然一度だけ起きたことを、原因だと決めつけない」
「はい!」
エルダは、試験用の部品を手に取った。
「次は、取り付け位置を少しずつ変えたものを作って比べてみる。どの位置なら、左右どちらから閉めても留め具に無理がかからないか確認したい」
「それが分かれば、治具の改良にもつながるな」
「そう。部品の形だけを直しても、取り付け方が安定しなければ同じ問題が起きる」
アルトは試験台を見回した。
まだ完成には遠い。
けれど、問題の輪郭は少しずつ見えてきた。
「よし。量産は引き続き保留だ。ガルドにも、確認が終わるまでは納品時期を約束しないと伝えておこう」
「分かりました」
ミハイルが記録帳を閉じた。
「課長。今回の件で、私も一つ学びました」
「何だ?」
「商品は、作る人の手だけで完成するわけではない。使う人の手に渡ってから、本当の使いやすさが分かるのですね」
「いいことを言うじゃないか」
「ですので、私も今日から片手で何でもできる営業担当を目指します!」
「まずは両手で書類を落とさない営業担当を目指せ」
「段階を踏むのですね!」
エルダが小さく笑った。
そのとき、彼女の手元にあった部品の一つが、試験台の上でわずかに光った。
「……待って」
エルダの表情が変わる。
「この部品、取り付け位置を変えていないのに、擦れ跡が出ている」
アルトが近づく。
「どういうことだ?」
「さっきの試験とは別の部品よ。閉め方も同じ。なのに、こちらだけ跡がついている」
エルダは部品を裏返した。
その裏側には、小さな加工痕が残っていた。
「もしかすると、取り付け位置だけじゃない。部品の加工そのものに、まだ見落としている違いがあるのかもしれない」
アルトは、二つの部品を見比べた。
原因は一つではない。
そして、まだ見つかっていない違いがある。
「エルダ。次は加工工程まで確認しよう」
「ええ。仕入れ先にも、もう一度詳しく聞く必要がありそうね」
ミハイルが記録帳を開いた。
「加工工程……。いよいよ部品の出生の秘密に迫るわけですね!」
「出生ではない」
「では、製造履歴ですね!」
「最初からそう言ってくれ」
工房に笑いが広がった。
しかし、アルトの目は二つの部品から離れなかった。
同じ形に見える部品でも、わずかな違いが使い心地を変える。
その違いを見つけることが、次の仕事になりそうだった。
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営業メモ ②⑤③
お客様の使い方を確認することは大切だが、使い方だけを原因にしてはいけない。
商品側に改善できる点がないか、実際の使用場面を想定して確かめる。
「正しい使い方を説明すること」と「誰でも使いやすい商品にすること」は、両方そろって初めて信頼につながる。
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次回予告
第二百五十五話 営業課長、部品の製造履歴を追いかける
同じように見える留め具に残された、小さな加工痕。
アルトたちは仕入れ先を訪ね、部品がどの工程で作られたのかを調べ始める。
ところが、ミハイルが製造記録を読み違え、工房に思わぬ疑惑を持ち込んでしまう。
部品の違いは、いったいどこから生まれたのか。




