第二百五十二話 営業課長、繰り返し使って初めて見える問題に挑む
工房の作業台に、改良型の保温容器が四つ並んでいた。
その横には、試験結果を記録するための紙と、開閉回数を数えるための小さな木札が置かれている。
今日の目的は、単純だった。
留め具を何度も開閉し、使い続けたときに問題が起きないか確認する。
見た目がきれいでも、一度閉めて問題がなくても、それだけでは十分ではない。
毎日使う商品なら、毎日の使用に耐えられる必要がある。
「今回は、開閉を繰り返す試験をするわ」
エルダが四つの容器を指さした。
「通常工程の部品を使ったものと、別工程の部品を使ったもの。それぞれ二つずつ用意したの」
「条件をそろえて比較するわけだな」
「ええ。開閉するときの力も、できるだけ同じになるようにするわ。途中で留め具の状態も確認する」
アルトは記録用紙を確認した。
「何回まで試す予定だ?」
「まずは百回。その途中で異常が出たら、そこで止めて状態を確認する。百回で問題がなくても、それだけで長期間使えると判断するわけではないけれど」
「最初の比較としてはいいな」
ミハイルが勢いよく手を挙げた。
「課長! 回数を数える役目は僕にお任せください!」
「頼もしいな。正確に頼むぞ」
「はい! 僕の計算能力を見せて差し上げます!」
アルトは少し不安を覚えた。
「数えるだけだからな。難しい計算は必要ないぞ」
「そこはご安心ください。僕は一から百まで数えられます!」
「それは普通に安心できる話のはずなんだが……」
エルダが小さく笑った。
「では、お願いするわね」
こうして、試験が始まった。
*
「一回!」
ミハイルが声を上げた。
エルダが蓋を開け、再び閉める。
「二回!」
カチッ。
「三回!」
カチッ。
最初のうちは順調だった。
アルトは留め具の動きを観察し、エルダは閉じるときの感触を確認する。
ミハイルは木札を一枚ずつ動かしながら、回数を数えていた。
「二十回!」
「もう二十回か」
アルトが記録用紙に数字を書き込む。
「まだまだいけます! 次は三十回を目指しましょう!」
「目指すというより、順番に数えるだけだぞ」
「目標があった方が頑張れます!」
「そうか……」
ミハイルは、やけに張り切っていた。
ところが、四十回を過ぎた頃から、少し様子が変わった。
「四十六回!」
カチッ。
「四十七回!」
カチッ。
「四十九回!」
アルトが顔を上げた。
「ミハイル。四十八回は?」
「……あれ?」
「今、四十七回の次に四十九回と言ったぞ」
「おかしいですね。四十八回が逃げたのでしょうか」
「数字は逃げない」
「では、僕が見失ったんですね!」
「それはそうだろうな」
エルダが手を止めた。
「一度、記録を確認しましょう。回数が曖昧になったら、試験結果の意味がなくなるわ」
「はい!」
ミハイルは木札を並べ直した。
しかし、木札は四十七枚ではなく、四十九枚あった。
「……あれ?」
「今度はどうした?」
「木札が二枚多いです」
「数え間違いだな」
「いえ、違います! 僕はちゃんと数えました!」
「その言葉を、さっきも聞いた気がするぞ」
ミハイルは木札を一枚ずつ確認し始めた。
すると、木札の裏側に小さな印が付いているものが二枚あった。
「これは何だ?」
アルトが尋ねると、ミハイルは少し気まずそうに答えた。
「応援用です」
「応援用?」
「はい。頑張っている容器に、応援の気持ちを込めて追加しました!」
「木札を追加しても、容器は頑張らないぞ!」
「でも、気持ちは伝わるかと……」
「試験に気持ちを混ぜるな!」
エルダは笑いながらも、木札をすべて回収した。
「ミハイル。これからは、私が開閉回数を数えるわ。あなたは記録用紙への記入をお願い」
「わかりました……」
「数える人と記録する人を分ければ、間違いにも気づきやすくなる」
アルトはそう言って、記録用紙を整えた。
「試験では、作業そのものだけじゃなく、記録の正確さも大事だからな」
「はい。今度は数字に応援を入れません!」
「最初から入れないでくれ」
*
試験を再開してからは、順調に進んだ。
五十回。
六十回。
七十回。
エルダが一定の動きで開閉を繰り返す。
アルトは、十回ごとに留め具の状態を確認した。
通常工程の部品を使った容器は、今のところ大きな変化がない。
別工程の部品を使った容器も、一つは問題なく動いていた。
しかし、もう一つの容器では、六十回を過ぎた頃から、閉じるときにわずかな抵抗が出始めた。
「少し感触が変わってきたわね」
エルダが手を止めた。
「最初より引っかかる感じがある」
アルトも蓋を開閉してみた。
確かに、最初よりも閉じるときに力が必要だった。
「これは記録しておこう。まだ壊れてはいないけれど、変化が出ている」
「ええ。ここから先は、無理に続けず、いったん状態を確認しましょう」
エルダは留め具を取り外した。
目立った破損はない。
しかし、接触する部分に、わずかな擦れ跡が見つかった。
「ここね」
「摩耗しているのか?」
「まだ断定はできないけれど、擦れた跡があるわ。最初からあった傷なのか、開閉を繰り返してできたものなのか、確認する必要がある」
アルトは記録用紙に、六十回を過ぎた頃から抵抗が増えたことを書き込んだ。
「通常工程の部品では、同じような変化は出ていないな」
「そうね。ただ、試験した数はまだ少ない。これだけで別工程の部品が原因だとは決められないわ」
ミハイルが、心配そうに容器を見た。
「課長。これは大変です。容器が疲れてしまったんでしょうか?」
「疲れたというより、使うことで部品に変化が出た可能性がある」
「では、休ませれば元に戻りますか?」
「人間の疲労とは違うんだ」
「そうですか……。では、温かい飲み物を差し入れるのは?」
「容器の中に入れるな!」
エルダが吹き出した。
「ミハイル、容器に飲み物を入れるのは本来の使い方よ」
「そうでした! それなら、いつも通りですね!」
「でも、今は試験中だから、余計な条件を加えないでね」
「はい!」
アルトは、擦れ跡のある部品を小さな袋に入れた。
「この部品は、ほかのものと混ぜずに保管しておこう。あとで試験前の状態と比較できるようにする」
「わかったわ」
*
午後の試験では、残りの容器も開閉を繰り返した。
結果は、同じではなかった。
通常工程の部品を使った二つは、百回まで大きな変化が見られなかった。
別工程の部品を使った二つのうち、一つは百回まで問題なく動いた。
もう一つは、六十回を過ぎた頃から抵抗が増え、擦れ跡も確認された。
「同じ別工程でも、結果が違うのね」
エルダが記録を見ながら言った。
「部品の形の違いが影響しているのかもしれない。取り付け位置も関係している可能性がある」
アルトは、四つの試験結果を並べた。
「今回わかったことは、百回の開閉で問題が出なかったものもあれば、途中で感触が変わったものもあったということだ」
「ええ。百回まで問題がなかったからといって、長期間の使用に問題がないとは言えないわ」
「逆に、六十回で抵抗が増えたものは、その原因を調べる必要がある」
ミハイルが、記録用紙を見つめていた。
「課長。僕は、今回の試験で大切なことを学びました」
「何だ?」
「百回数えるより、百回正確に数える方が大変だということです!」
「それは間違いないな」
「そして、応援用の木札は不要だということも!」
「そこも覚えてくれてよかった」
「次回からは、応援の気持ちは声で伝えます!」
「それも試験中は控えてくれ」
「はい!」
アルトは、擦れ跡のある留め具を手に取った。
小さな跡だった。
目立つ傷でもない。
新品の状態では、ほとんど気づかなかっただろう。
だが、開閉を繰り返すことで、その小さな違いが少しずつ表に出てきた。
「エルダ。擦れ跡の位置と、留め具の厚み、それから取り付け位置をもう一度比べてみよう」
「そうね。どこが接触しているのか、詳しく調べてみるわ」
「必要なら、仕入れ先にも試験結果を共有しよう」
「わかった。向こうでも同じ条件で試してもらえるかもしれないわね」
アルトはうなずいた。
今回の試験は、製品の欠点を探すためだけのものではない。
使い続けたときに何が起きるのかを知り、安心して使える商品に近づけるためのものだ。
問題が見つかったことは、必ずしも悪いことではない。
出荷する前に気づけたのなら、改善する機会になる。
*
夕方。
アルトは試験結果を持って、ガルドの店を訪れた。
「今日は、繰り返し開閉する試験をしたんだ」
「どうだった?」
「四つの容器で試した。三つは百回まで大きな変化がなかったけれど、一つは六十回を過ぎた頃から閉まり方に変化が出た」
「全部が同じ結果じゃなかったのか」
「そうなんだ。だから、まだ原因を確定できない。今は、部品の形や取り付け位置、固定具との関係を調べている」
ガルドは記録用紙を見た。
「百回も開け閉めしたのか。ずいぶん大変な試験だな」
「使う人は、毎日何度も開け閉めするからね。売る側が一度試しただけで問題ないと言うわけにはいかない」
「確かにな」
ガルドは納得したようにうなずいた。
「結果が出るまでは、新型の注文を急がない方がいいな」
「助かるよ。確認できたことは、きちんと報告する」
「こっちも、店に置く場所を考えておく。今度は、使い方を説明する札も用意したいな」
「いい考えだ。商品の特徴だけでなく、開け閉めするときの注意点も必要なら案内できる」
ガルドは笑った。
「客に使い方を説明する前に、ミハイル君に説明しておいた方がいいかもしれないな」
「……どうしてだ?」
「この前、留め具に応援していたんだろう?」
「もうそこまで広まっているのか……」
アルトは額に手を当てた。
「ミハイル君は、うちの店でも人気者になれそうだぞ」
「人気者の方向が違う!」
*
工房に戻ると、エルダが試験用の留め具を並べていた。
「アルト。少し気になることがあるの」
「何かわかったのか?」
「擦れ跡が出た部品と、百回まで問題がなかった部品を比べていたんだけど……」
エルダは二つの留め具を並べた。
「擦れ跡が出た方は、留め具の端がほんの少しだけ内側に曲がっているように見えるの」
「取り付ける前から?」
「そこまではわからない。取り付けたときに曲がったのか、開閉を繰り返すうちに変形したのか、確認が必要ね」
アルトは二つの部品を見比べた。
「最初の形を記録しておけば、途中でどう変わったか比較できるな」
「ええ。次は取り付ける前の部品を測って、試験の途中でも同じ場所を確認するわ」
アルトはうなずいた。
「今度は、開閉回数だけでなく、部品の形の変化も追おう」
ミハイルが、そっと近づいてきた。
「課長。次の試験では、僕も何か役に立てますか?」
「もちろん。回数の記録と、試験前後の部品の整理を頼みたい」
「お任せください! 今度は応援用の木札を使いません!」
「それは助かる」
「代わりに、百回ごとに拍手をします!」
「拍手もいらない!」
エルダの笑い声が工房に響いた。
アルトは、記録用紙の最後に次の確認事項を書き加えた。
――試験前後で、留め具の形がどう変わるかを確認する。
小さな擦れ跡は、ただの傷なのか。
それとも、長く使うことで起きる変形の始まりなのか。
答えは、まだ出ていない。
けれど、今回の試験で見つかった変化を見過ごすわけにはいかなかった。
商品を売るということは、売った後の使われ方にも責任を持つということなのだから。
営業メモ ②⑤①
商品を確認するときは、新品の状態だけで判断しないこと。
実際の使用を想定して繰り返し試験を行い、途中で変化がないかを確認する。異常が見つかった場合は、無理に試験を続けず、状態を記録して原因を調べる。
また、試験回数だけでなく、使用前後の部品の状態も比較すると、目に見えにくい変化を発見しやすくなる。
「今は問題ない」と「長く使っても問題ない」は別の判断。確認できた範囲を正確に伝えることが、商品の信用を守る。
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次回予告
第二百五十三話 営業課長、傷の正体を見極める
百回の開閉試験で、一つの留め具に擦れ跡が見つかった。
エルダは、試験前後の部品の形を比べるため、測定方法を工夫することにする。
ところが、ミハイルが測定具を持ち上げて、妙なことを言い出した。
「課長! この部品、試験前より少し痩せた気がします!」
「部品に体重の概念はない!」
小さな傷の正体を追うアルトたちに、次の課題が待ち受けていた。




