第二百三十九話 営業課長、決まっていない注文に振り回される
「課長! 大変です!」
朝一番、ミハイルが事務所に飛び込んできた。
「昨日の予告どおり、注文したいというお客様が来ました!」
「予告どおりなのはいいことだ。で、何を注文したいんだ?」
「それが……まだ決まっていないそうです!」
アルトはペンを置いた。
「数量は?」
「未定です!」
「納品希望日は?」
「できれば早く!」
「納品希望時間は?」
「都合のいい時間!」
「商品は?」
「うちの商品なら、何でも検討したいそうです!」
「それは注文じゃない。願望の詰め合わせだ」
「でも、課長! お客様は買う気があるんですよ!」
「買う気があることと、買うものが決まっていることは別だ」
ミハイルは、まるで世界の真理を初めて聞いたような顔をした。
「では、どうすればいいんでしょう?」
「まずは話を聞こう。相手が何をしたいのか、そこからだ」
「承知しました! 僕が行ってきます!」
「待て。先に質問を整理しろ」
「はい!」
ミハイルは机に向かい、紙を一枚取り出した。
そして、勢いよく書き始めた。
『お客様が決めていないこと一覧』
「……ミハイル」
「はい!」
「その紙、最後まで埋まるぞ」
「えっ?」
「商品も数量も納期も未定なんだろう? 書き出したら、紙一枚では足りない」
「では、二枚目を用意します!」
「そういう問題じゃない!」
朝から、アルトの頭痛は順調に育っていた。
*
やって来たのは、近隣の町で小さな商店を営む男だった。
男は椅子に座るなり、申し訳なさそうに笑った。
「急にすみません。実は、来月から店の前で旅人向けの商品を扱おうと思っていましてね」
「旅人向けの商品ですか」
「ええ。最近、店の前を通る旅人が増えたんです。ただ、何が売れるのか、どのくらい売れるのか、まだよくわからなくて」
アルトはうなずいた。
「それで、まずは商品を見てみたいと?」
「そうなんです。できれば、売れそうなものを何種類か置いてみたい。ただ、最初から大量に仕入れるのは怖いんですよ」
ミハイルが身を乗り出した。
「なるほど! では、商品を十種類、それぞれ十個ずつ用意しましょう!」
商店主の目が丸くなった。
「えっ、百個ですか?」
「はい! 選択肢は多いほうが、お客様も喜びますから!」
「いや、うちはそんなに置く場所が……」
「ミハイル」
アルトの声は穏やかだった。
穏やかすぎて、かえって危険だった。
「はい!」
「今、お客様が何と言った?」
「置く場所が……」
「その前は?」
「大量に仕入れるのが怖い、と……」
「では、なぜ百個を提案した?」
「選択肢を増やそうと……」
「お客様の選択肢を増やす前に、お客様の悩みを増やしてどうする」
ミハイルは、ゆっくりと椅子に座り直した。
「……失礼しました」
商店主は苦笑した。
「いえいえ。勢いがあって、いい営業さんですね」
「ありがとうございます!」
「褒められていないぞ、ミハイル」
「えっ?」
アルトは商店主に向き直った。
「最初から商品をたくさんそろえる必要はありません。まず、店の前を通る旅人が、どんな人たちなのかを教えていただけますか?」
「そうですね。朝は仕事に向かう人が多く、昼前からは町を通り抜ける商人や旅人が増えます。夕方になると、宿を探す人もいます」
「その人たちは、どんなものを買っていますか?」
「水や軽食ですね。あとは、荷物にならない小物を買う人もいます」
「購入する理由はわかりますか?」
「喉が渇いたとか、次の町までの食べ物が欲しいとか。小物は、旅先で使えるものを探しているようです」
アルトは帳簿に簡単な分類を書いた。
朝の通行客。
昼前後の旅人や商人。
夕方の宿探しをする人たち。
同じ道を通る人でも、必要なものは違う。
「それなら、まずは旅人がその場で使える商品を少量ずつ試すのはどうでしょう。保温容器や軽食など、用途を説明しやすい商品から始める方法もあります」
商店主は興味深そうにうなずいた。
「それなら、店の前でも説明できそうです」
「ただし、最初から何種類もそろえる必要はありません。置ける場所と、売れなかった場合に困らない数量を決めてから、商品を選びましょう」
「なるほど。最初は試し売りですね」
「はい。売れた数だけでなく、どの時間帯に、どんな人が買ったのかも記録していただければ、次の仕入れを考えやすくなります」
商店主の顔が明るくなった。
「それなら、私にもできそうです」
隣で聞いていたミハイルが、感心したように小声で言った。
「課長、すごいですね。百個売る話が、少量から始める話になりました」
「百個売ることが目的じゃない。お客様が商売を始められて、無理なく続けられることが目的だ」
「なるほど……。では、僕も質問をします!」
ミハイルは勢いよく商店主を見た。
「お客様! 店の前には、何人くらいの旅人がいらっしゃいますか?」
「正確には数えていませんね」
「では、明日から数えてください!」
「ミハイル」
「はい!」
「お客様に仕事を増やす前に、こちらでできることを考えろ」
「……僕が数えに行けばいいんですね!」
「そこまでは言っていない!」
商店主は、とうとう声を上げて笑った。
*
商談の後、アルトはミハイルに一枚の紙を渡した。
「今回のような相談を受けたとき、最初に確認することをまとめてみろ」
「はい! 商品、数量、納期、納品時間ですね!」
「それだけでは足りない」
「ええっ!」
「何のために買うのか。誰が使うのか。どんな場所で売るのか。どのくらいの在庫なら無理なく置けるのか。そこを確認しないと、商品も数量も決められないだろう」
ミハイルは真剣な顔で書き込んだ。
「つまり、注文内容を聞く前に、注文する理由を聞くんですね」
「そうだ。まだ注文が決まっていない相手には、決められるように手伝う。それが営業の仕事だ」
「では、質問を十個ほど用意して……」
「多ければいいわけじゃない」
「五個なら?」
「数から考えるな」
「三個なら?」
「ミハイル」
「はい! まずは相手の話を聞きます!」
「ようやく正解だ」
アルトは少しだけ満足した。
ミハイルは学んでいる。
ただし、学んだことを実行するまでには、まだいくつもの坂道がありそうだった。
*
午後、商店主から連絡があった。
「先ほどの件ですが、まずは商品を三種類、少量ずつ試してみたいと思います」
「ありがとうございます。商品の種類と数量を決める前に、店に置けるスペースと、いつから販売を始めたいかを確認しましょう」
「置き場所は、店先の棚一段分です。販売は来週から始めたいです」
アルトは、エルダとバルンに確認を取った。
保温容器は少数なら準備できる。
軽食も、通常の製造計画に影響しない範囲であれば対応可能だ。
ただし、三種類すべてを希望数量でそろえると、棚の広さに対して多すぎる可能性がある。
アルトは商店主に提案した。
「まずは二種類に絞り、それぞれ少量から始めるのはいかがでしょうか。売れ方を見て、三種類目を追加するか判断できます」
「それなら、置き場所にも余裕ができそうですね」
「はい。数量は、実際に置ける数と、売れ残っても困らない範囲で決めましょう」
最終的に、商店主は二種類の商品を少量ずつ仕入れ、来週から試し売りを始めることになった。
大量注文にはならなかった。
だが、店の状況に合った、実行できる注文になった。
通話を終えたミハイルは、少し不思議そうな顔をしていた。
「課長。最初は百個の注文を取ろうと思っていたのに、結果は少量でした」
「それでいい」
「売上は、小さくなりましたよ?」
「最初の百個を売りつけて、置き場所に困らせたり、売れ残りを抱えさせたりしたら、次の注文はどうなる?」
「……来なくなるかもしれません」
「そうだ。今回の目的は、一度に大量に売ることではない。お客様が安心して試し、結果を見て次の判断ができるようにすることだ」
ミハイルは、しばらく考えてからうなずいた。
「なるほど。最初の注文を大きくするより、二回目の注文につながる形を作るんですね」
「そのとおり」
「では、二回目の注文を確実に取るために、今のうちに三種類目も予約してもらいましょう!」
「話を聞いていたか?」
「聞いていました!」
「なら、なぜ予約を取ろうとする?」
「二回目の注文につなげるためです!」
「お客様が試し売りをする前から、次の注文を迫るな。まずは今回の結果を見てからだ」
ミハイルは、しょんぼりと肩を落とした。
「営業とは、難しいですね……」
「難しいのは、売ることだけを考えず、相手の商売まで考えなければならないからだ」
アルトは窓の外を見た。
今回の商談では、数量も納期も最初は決まっていなかった。
それでも、質問を重ねれば、相手が何をしたいのかが見えてくる。
そして、相手の事情に合う形を一緒に考えれば、曖昧だった相談は、実行できる注文へと変わる。
それこそが、営業の腕の見せどころだ。
「課長!」
「今度は何だ?」
「僕も自分の将来について、まだ何も決まっていないことに気づきました!」
「そうか」
「そこで、課長に相談です! 僕は将来、すごい営業マンになりたいです!」
「具体的には?」
「……まだ決まっていません!」
「まずは、今日の仕事を終わらせよう」
「はい!」
ミハイルは元気よく返事をした。
そして、事務所を出る直前に振り返った。
「課長! 今日の仕事は、何個くらい終わらせればいいですか?」
「仕事に数量をつけるな!」
事務所には、アルトの叫び声が響いた。
こうして今日も、営業課長の頭痛の種は、順調に成長していくのだった。
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営業メモ ②③⑧
注文内容が決まっていない相手には、すぐに商品や数量を提案するのではなく、購入目的、利用者、販売場所、保管スペース、開始時期などを確認する。
最初は少量で試し、販売結果を見てから追加を判断できる形にすると、取引先の負担を抑えながら継続注文につなげやすい。
営業の役割は、注文を無理に大きくすることではなく、お客様が判断できる材料をそろえること。
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次回予告
第二百四十話 営業課長、売れた理由を勘違いする
試し売りを始めた商店から、予想以上に売れたという報告が届く。
大喜びするミハイルは、さっそく商品の追加を提案しようとするが、アルトは数字の中に小さな違和感を見つける。
本当に売れた理由は、商品がよかったからなのか。それとも――。




