第二百三十七話 営業課長、十個の追加注文と既存の約束を守り抜く
「アルト! 宿屋の主人から、ものすごく感謝されたぞ!」
朝一番、ミハイルが事務所に飛び込んできた。
アルトは書類から顔を上げた。
「……何をした?」
「何もしていない!」
「それで感謝されたのか?」
「正確には、これから何とかしてくれることに感謝された!」
アルトはゆっくりとペンを置いた。
「ミハイル。まさか、納品できると約束したのか?」
「いや! そこまでは言っていない!」
「本当だな?」
「『うちの営業課長なら、きっと何とかしてくれます』とは言った!」
「それを世間では、期待を持たせたと言うんだ」
「でも、アルトなら何とかできるだろ?」
「俺を魔法使いか何かだと思っていないか?」
「違うのか?」
「違う!」
ミハイルは残念そうに肩を落とした。
「そうか……。てっきり、困った注文を一瞬で解決する伝説の営業課長だと……」
「そんな伝説は今すぐ消してくれ」
アルトは椅子から立ち上がった。
昨日、宿屋から新しい注文が入った。
保温容器十個。納品希望は明日の午前中。
さらに、来週も追加注文を検討しているという。
新しい取引先を獲得できる可能性はある。
しかし、すでにガルドの店には二十五個の納品を約束していた。製造にも配送にも、自由に使える余裕があるとは限らない。
「まずは、現状を確認する。エルダとバルンのところへ行こう」
「了解! 僕も同行する!」
「今度は、確認が終わるまで何も約束するなよ」
「分かった! 『何も約束しない』と約束する!」
「その言い方も、もう少し考えてくれ」
◇
製造所に到着すると、エルダは作業台の上で材料を確認していた。
「明日の午前中までに十個ね……」
アルトの説明を聞いたエルダは、腕を組んだ。
「材料そのものは、何とか足りそう。ただ、今日の製造予定を崩さずに十個を追加するのは難しいわ」
「作業時間が足りないということですか?」
「それもあるけれど、完成品を置く場所にも余裕がないの。今の二十五個を予定どおり仕上げて、そのうえ十個を追加するなら、作業の順番を考え直さないといけない」
ミハイルがすかさず口を挟んだ。
「じゃあ、作業台をもう一つ増やそう!」
「置く場所がないって言ったでしょう?」
「作業台を増やせば、置く場所も増える!」
「作業台を置く場所がないのよ」
「…………」
ミハイルは、床を見た。
「床を増やすことはできませんか?」
「できるなら、私が一番先にやっているわ」
エルダは笑いながら、製造予定を指さした。
「それに、十個を作るだけなら簡単、という話でもないの。材料の準備、加工、仕上げ、検品。それぞれの作業時間を確保しないといけない」
「では、十個すべてを明日の午前中に完成させるのは難しい?」
「今の予定のままなら、難しいわね。何とかする方法があるか、もう少し細かく確認する必要がある」
アルトはうなずいた。
「無理に十個を詰め込んで、既存の二十五個まで遅れたら本末転倒です。まずは、今の注文を守ることを前提に考えましょう」
ミハイルは少し考えたあと、手を挙げた。
「では、宿屋向けの十個を、ガルドさんの二十五個より先に作るのはどうだ?」
「どうしてだ?」
「新しい取引先だから!」
「新しい取引先なら、既存の約束を破っていいのか?」
「……駄目だ」
「そうだ。新しい取引を大切にすることと、今までの顧客を軽く扱うことは違う」
アルトは製造予定を見直した。
ガルドの二十五個は、納品時間まで合意済みだ。そこを動かすなら、ガルドへの相談と了承が必要になる。
一方、宿屋の十個は、希望の納品時間が提示されている段階だ。対応できる数量や時間を確認し、代替案を提示する余地がある。
「エルダ、今日の製造予定を守った場合、十個のうち何個なら明日の午前中に準備できそうですか?」
「今の段階では断言できないけれど、作業順を調整できれば、一部なら可能性があるわ。ただ、まずは検品まで含めた時間を確認するわね」
「お願いします。完成した数だけでなく、品質を確認して出荷できる数で考えてください」
「分かった。無理に数だけ合わせることはしないわ」
アルトはその返事を聞いてから、バルンのところへ向かった。
◇
バルンは荷車の荷台を整理していた。
「十個の追加か。荷車の積載量だけなら、積める可能性はある」
「配送時間はどうですか?」
「そこが問題だ。明日の午前中は、すでに別の配送が入っている。順番を変えれば対応できるかもしれないが、別の店への納品が遅れる可能性がある」
「既存の配送先には、受け取り時間を約束していますか?」
「一部は時間を決めている。ほかの店も、受け取り担当者がいる時間帯があるから、勝手にずらすわけにはいかない」
ミハイルが荷車をのぞき込んだ。
「じゃあ、僕が走って届ける!」
「何を?」
「保温容器だ!」
「十個を抱えて走るのか?」
「頑張れば、五個ずつ……!」
「二往復する気か?」
「そうだ!」
「片道にかかる時間を計算したか?」
「……していない!」
「途中で転んだら?」
「商品が壊れる!」
「道路が混んでいたら?」
「遅れる!」
「つまり?」
「……荷車を使ったほうがいいです」
「ようやく分かったか」
バルンは苦笑した。
「走れば何でも解決するなら、俺の仕事はとっくになくなっているよ」
アルトも笑った。
「配送は、商品を運べば終わりではありません。決められた時間に、商品を傷めず、受け取り担当者に渡すところまでが仕事です」
「そのとおりだ。急な注文を受けるなら、配送先の順番と受け取り時間を確認しないといけない」
バルンは予定表を広げた。
「明日の朝、最初の配送先に少し早く出発できれば、時間を調整できる可能性はある。ただし、ほかの店への納品時間に影響しないか、先に確認する必要がある」
「では、既存の配送先の受け取り時間を確認して、組み替えられる範囲を調べましょう」
「分かった。無理に全部を一度に運ぶより、何個なら確実に届けられるかを確認する」
アルトはうなずいた。
製造側も配送側も、条件を変えれば対応できる可能性はある。
ただし、まだ十個すべてを明日の午前中に届けられるとは言えない。
ここで営業が先走れば、現場が無理を背負うことになる。
アルトは、ミハイルに視線を向けた。
「宿屋への返事は、確認が終わってからだ」
「分かっている!」
「本当に?」
「……『たぶん』をつけたほうがいいか?」
「つけなくていいから、実行してくれ」
◇
昼前、アルトたちは宿屋を訪ねた。
主人は帳場で、翌日の宿泊客の予定を確認していた。
「来てくれたか。十個の件、どうなった?」
「現在、製造と配送の両方で確認しています。十個すべてを明日の午前中にお届けできるかは、まだ確定していません」
アルトは率直に説明した。
「ただ、数量を分けて納品する方法や、受け取り時間を調整する方法なら、対応できる可能性があります」
主人は少し考えた。
「実は、十個すべてが朝一番に必要というわけではないんだ」
「そうなのですか?」
「ああ。明日の朝に来る商隊のうち、何人かは出発が遅い。全員が同じ時間に必要というわけじゃない」
アルトはメモを取った。
「では、最初に必要な数量と、残りが必要になる時間を分けて確認してもよろしいですか?」
「もちろんだ。最初は六個あれば足りる。残りの四個は、昼ごろまでに届けば問題ない」
ミハイルが目を輝かせた。
「六個と四個! つまり、分けて届ければいいんですね!」
「その可能性があります。ただし、六個を明日の午前中に届けられるか、四個を昼ごろまでに届けられるかは、まだ確認が必要です」
アルトは釘を刺した。
「分かってるって!」
ミハイルは胸を張った。
「僕も学んだからな。確認する前に約束してはいけない!」
「そのとおりだ」
「だから、今は約束しない! ただし、きっと届けられると信じています!」
「信じるのは自由だが、相手に期待を持たせすぎるな」
「難しいな……。営業って、希望を持たせる仕事じゃないのか?」
「希望を持ってもらうことは大切だ。ただし、実現できる根拠のない希望を売るのは違う」
主人はうなずいた。
「こちらも、必要な数量を分けて考えていなかった。六個が先に届けば、ひとまず商隊の客に対応できる。残りの四個は昼まででいい」
「ありがとうございます。その条件で、製造と配送の予定を確認して、今日中に正式なお返事をします」
「分かった。無理な約束はしなくていい。確実に届けられる方法を考えてくれ」
宿屋を出ると、ミハイルが感心したように言った。
「最初から十個を一度に届ける必要はなかったんだな」
「そうだ。顧客が希望する数量だけでなく、いつ、何のために必要なのかを確認すると、別の方法が見つかることがある」
「でも、どうして最初から六個と四個に分けて考えなかったんだろう?」
「こちらが、十個という数字だけを見ていたからだ。相手が本当に必要としている条件を、まだ十分に聞けていなかった」
ミハイルはうなずいた。
「なるほど。注文内容を聞くことと、注文の背景を聞くことは違うんだな」
「いいところに気づいたな」
「よし! これからは、注文を聞いたら必ず十個質問する!」
「質問を十個する必要はない!」
「では、二十個……」
「増やすな!」
街道に、ミハイルの笑い声が響いた。
◇
事務所へ戻ると、エルダとバルンから確認結果が届いていた。
エルダは、既存の二十五個の製造予定を守りながら、作業の順番を調整すれば、宿屋向けの六個を追加で準備できる見込みだと報告してきた。
ただし、完成後の検品を省略することはできない。製造が予定より遅れれば、六個すべてを午前中に出せるとは限らない。
一方、バルンは配送予定を確認した結果、既存の納品先の受け取り時間を守りながら、宿屋へ六個を届けられる可能性があると伝えてきた。
残りの四個については、昼の配送に組み込める見込みだった。
アルトは二つの報告を照らし合わせた。
「製造と配送の両方で、条件付きなら対応できそうだな」
ミハイルが身を乗り出した。
「じゃあ、十個全部、受けていいんだな!?」
「条件を整理してからだ」
アルトは紙に書き出した。
第一便は六個。明日の午前中に納品する。ただし、製造と検品が予定どおり完了することを条件とする。
第二便は四個。明日の昼ごろまでに納品する。
既存の二十五個の注文と、ほかの配送先の納品時間は変更しない。
第一便の準備が間に合わない場合は、分かった時点ですぐに宿屋へ連絡し、対応可能な時間を相談する。
「これなら、既存の約束を守りながら、新しい注文にも対応できる可能性があります」
「よし! これで決まりだな!」
ミハイルが喜んだ。
「ただし、今回の対応で製造と配送にどれだけ追加の手間がかかるかも記録する。今後も同じ条件で受けられるとは限らないからな」
「えっ? 今回うまくいけば、次も同じように受ければいいんじゃないのか?」
「今回うまくいったとしても、注文が増えれば条件は変わる。追加の十個が二十個になったら? ほかの店から同じ時間に急ぎの注文が入ったら?」
「……また、確認が必要になる」
「そうだ。今回の方法は、今回の条件で成り立つ方法だ。次も使えるかどうかは、そのときの状況を見て判断する」
ミハイルはしばらく考え、うなずいた。
「つまり、成功した方法でも、何も考えずに繰り返してはいけないんだな」
「そのとおりだ」
「分かった! では、今回の成功を記録するための書類を……」
「必要な記録だけにしろよ」
「もちろん! 今回は三枚で済ませる!」
「一枚にまとめられないか、先に考えてくれ」
「営業課長は厳しい……!」
アルトは笑った。
だが、今回の判断は慎重に進める必要があった。
新しい取引先を大切にすることは重要だ。
しかし、新しい取引を成立させるために、既存の顧客との約束を崩してしまえば、長年かけて築いた信頼を失う可能性がある。
どちらかを犠牲にするのではなく、顧客が本当に必要としている条件を確認し、製造と配送の現実に合わせて提案する。
それが今回の突破口だった。
◇
夕方、アルトは宿屋へ連絡するための文面を整えていた。
「第一便は六個、明日の午前中。第二便は四個、昼ごろまで。この条件で正式に提案しよう」
ミハイルが横からのぞき込んだ。
「これなら、宿屋も喜んでくれるかな?」
「必要な時間に必要な数量が届くなら、希望に近い対応になるだろう。ただし、最終的には相手の了承を得る必要がある」
「分かった。では、僕が伝えに行く!」
「条件を間違えずに伝えてくれ」
「任せてくれ!」
ミハイルは宿屋へ向かい、しばらくして戻ってきた。
「アルト! 宿屋の主人が了承してくれたぞ!」
「よし。では、エルダとバルンに正式な予定を共有しよう」
「それから、来週も注文したいと言っていた!」
「数量と納品希望日は?」
「まだ決まっていない!」
「なら、今回の納品が終わってから、必要な数量と時期を確認しよう」
「了解!」
ミハイルは、いつになく素直にうなずいた。
そして、少し照れくさそうに言った。
「アルト。昨日の僕だったら、十個全部を明日の午前中に届けるって言っていたと思う」
「……だろうな」
「でも、今日は確認してから返事をした。しかも、六個と四個に分ける方法も見つけた」
「そうだな。よく学んだと思う」
ミハイルはうれしそうに笑った。
「よし! これからは、どんな注文でも、まずは確認だ!」
「いい心がけだ」
「そして、確認が終わるまで、絶対に約束しない!」
「それも大切だな」
「では、明日の朝、僕が宿屋へ行って、六個と四個を届けると約束してきます!」
「もう約束は成立しているから、それはいい!」
「……あれ?」
アルトは額に手を当てた。
成長したと思った直後に、これである。
しかし、以前なら十個全部を無条件で引き受けていたところを、今回は確認し、条件を整理し、代替案を提示できた。
少しずつではあるが、確実に前へ進んでいる。
「ミハイル」
「何だ?」
「明日は、製造と配送の進み具合を確認して、必要なら宿屋へ連絡してくれ。納品が終わったら、追加でかかった作業時間も記録する」
「分かった!」
「それから、今回のやり方が次回も通用するか、結果を見て考える」
「了解! 今度こそ、書類は必要な分だけにする!」
「そこも頼む」
ミハイルは元気よく敬礼した。
「営業課長! 僕は今日、営業の本当の意味をひとつ学びました!」
「何だ?」
「お客様の希望をかなえるためには、まず現場の人たちに無理をさせないこと!」
アルトはうなずいた。
「そのとおりだ」
「そして、現場の人たちに無理をさせないためには、僕が勝手に約束しないこと!」
「……それも、そのとおりだ」
「つまり、僕が黙っていれば、みんな幸せになる!」
「そこまで極端な話ではない!」
事務所に笑い声が響いた。
明日の納品は、まだ終わっていない。
製造が予定どおりに進むか、配送が遅れずに済むか、最後まで確認が必要だ。
それでも、十個という数字だけを見ていた昨日とは違う。
顧客の本当の必要を聞き、現場の状況を確かめ、実行できる方法を提案する。
その積み重ねが、新しい取引先との信頼につながっていく。
アルトは明日の予定表を閉じた。
「さて、あとは実行するだけだな」
ミハイルが笑顔で答えた。
「任せてくれ! 明日は僕も、確認を忘れずに――」
「ミハイル」
「はい!」
「もう帰る時間だ。明日の準備は終わっているか?」
「……まだです!」
「まず、自分の仕事を確認しろ!」
最後まで、気の抜けない一日だった。
営業メモ ②③⑥
急ぎの注文を受けるときは、数量だけでなく「いつ、何のために必要なのか」を確認する。十個を一度に納品する必要があると思っていても、顧客の用途を聞けば、六個を先に、残り四個を後から届けるといった代替案が見つかることがある。
ただし、分納を提案する場合も、製造・検品・配送の実行可能性を確認し、既存の約束を守れることが前提となる。対応できる条件を明確にし、顧客の了承を得てから確定する。また、追加対応にかかった時間や費用を記録し、同じ方法を今後も無理なく続けられるか検証する。
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次回予告
第二百三十八話 営業課長、急ぎの注文を受けた本当の代償を知る
宿屋向けの十個を六個と四個に分け、既存の納品予定を守る形で調整したアルトたち。
ところが、分納に対応したことで、製造所では作業の切り替えが増え、配送にも予定外の手間が発生していた。
注文は無事に届けられても、利益まで守れたとは限らない。
アルトは今回の追加注文にかかった本当の費用を洗い出し、急ぎの注文を受ける条件を見直すことになる。




