第二百二十九話 営業課長、五倍の注文に潜む落とし穴を見抜く
大量注文という言葉には、不思議な魅力がある。
普段の五倍の商品が売れる。
売上も五倍になるかもしれない。
営業担当者なら、思わず笑みがこぼれる話だろう。
ただし、売上が五倍になったからといって、利益まで五倍になるとは限らない。製造が間に合わず、配達が遅れ、顧客の店頭に商品が並ばなければ、注文書の数字はただの紙切れだ。
そして今、私の机の上には、その五倍という数字が堂々と書かれた注文書が置かれていた。
「課長! ロベルトさんから連絡がありました!」
朝一番、ミハイルが営業所に駆け込んできた。
「まずは歩け。注文書を持って走ると、書類だけ先に到着するぞ」
「申し訳ありません! それで、ロベルトさんが来週の市に向けて、いつもの五倍の焼き菓子を用意してほしいそうです!」
「五倍か。数量は確定しているのか?」
「いえ、まだ各店舗の販売数を集計している途中だそうです。でも、市の規模が大きくなるので、できるだけ多く用意してほしいと」
「なるほど」
私は注文書を手に取った。
ロベルトは街道沿いに複数の店を持つ商人だ。以前の市では、予想以上に旅人が増え、追加の商品を急いで届けることになった。
その経験があるからこそ、今回は早めに相談してくれたのだろう。
これは改善の成果だ。
しかし、早く相談してくれたことと、五倍の注文をそのまま受けられることは別である。
「ミハイル。今回の注文を受ける前に、確認しておきたいことがある」
「数量と納期ですね?」
「それだけではない。どの店で、どの商品が売れそうなのか。いつまでに、どの数量が必要なのか。そして、予想より売れなかった場合にどうするのか」
「売れなかった場合、ですか?」
「そうだ。大量に仕入れてもらった結果、商品が余れば、ロベルトさんの負担になる」
ミハイルは注文書を見直した。
「でも、五倍も売れる可能性があるんですよね?」
「可能性はある。だが、可能性と確定した需要を混同してはいけない」
私は注文書の余白に、二つの言葉を書いた。
確定した注文。
予測に基づく数量。
「この二つを分けて考えるんだ。顧客が本当に必要としている数量を確認する前に、五倍という数字だけで製造計画を組んではいけない」
「分かりました。ロベルトさんのところへ行って、詳しく聞いてきます!」
「よし。一緒に行こう」
ミハイルは勢いよく立ち上がった。
「課長、今回は五倍の注文ですから、僕たちの営業成績も大きく伸びますね!」
「その前に、五倍の注文を受けても会社が困らないか考えよう」
「……はい」
売上の話になると、ミハイルの目は輝く。
利益の話になると、その輝きが少し落ち着く。
営業担当者として、成長の余地はまだまだありそうだった。
*
その日の午前、私はミハイルと一緒にロベルトの店を訪ねた。
「アルト課長、来てくれたか。実は、五倍という数字を出したものの、まだ店舗ごとの数量は決め切れていないんだ」
「承知しています。まずは、今回の市で何が起こりそうなのか、教えていただけますか?」
ロベルトは、各店舗の販売記録を取り出した。
「前回の市では、焼き菓子が普段の二倍近く売れた店があった。別の店では、携帯用の飲み物のほうがよく売れた。今回は市の規模が大きくなると聞いているから、念のため五倍と伝えたんだ」
「五倍という数字は、前回の販売実績から計算したものですか?」
「いや。前回の結果と、今回の人出の予想を考えて、余裕を持たせた数字だ」
私はうなずいた。
ロベルトの判断は、決して無謀というわけではない。前回、商品が不足した経験があれば、多めに確保したくなるのは自然だ。
ただし、余裕を持たせるための数字が、そのまま確定注文になると、別の問題が生まれる。
「今回、五倍の数量を希望しているのは、すべての店舗ですか?」
「いや。特に人が集まりそうな二店舗が中心だ。ほかの店は、普段より少し多めで十分かもしれない」
「では、全店舗を一律に五倍にする必要はないですね」
「そうだな。だが、人出が予想以上に増えたら困る」
「その可能性には備えましょう。ただし、最初からすべてを製造するのではなく、確実に必要な数量と、追加で必要になる可能性がある数量を分けて考えたいのです」
ロベルトは腕を組んだ。
「確実に必要な数量と、追加の可能性がある数量か」
「はい。まず、各店舗の通常の販売数を確認します。そのうえで、過去の市の日の販売実績と今回の予想を照らし合わせ、どの程度の増加が見込まれるかを考えます」
「それなら、五倍という数字を一律に使うより現実的だな」
「ただし、予測どおりに売れる保証はありません。余分に仕入れれば、売れ残りの負担も増えます」
「分かっている。こちらとしても、品切れは避けたいが、売れない商品を大量に抱えるのは困る」
ロベルトは販売記録を店舗ごとに並べ直した。
ここで重要なのは、五倍という数字を否定することではない。
その数字が何を根拠に出されたのかを確認し、実際の需要に合う数量へ調整することだ。
営業とは、顧客の希望をそのまま受け取るだけの仕事ではない。希望の背景を理解し、顧客にとって本当に意味のある提案をする仕事でもある。
*
営業所に戻ると、私はエルダとバルンを呼んだ。
「ロベルトさんから、市向けの大量注文の相談が来ている。まだ数量は確定していないが、製造と配達の対応可能な範囲を確認したい」
エルダは製造予定表を開いた。
「通常の予約品を予定どおり仕上げることを前提にするなら、追加製造に使える時間を確認する必要があるね。今の段階では、数量を確定するのは早いよ」
「分かっている。まず、追加製造に必要な時間と、材料の在庫を確認してほしい」
「材料があっても、焼く時間と冷ます時間は省けないからね。急いで作るなら、ほかの作業への影響も確認しないといけない」
「その点も含めて頼む」
続いて、バルンが配達予定表を広げた。
「市の日は、通常の配達もあります。ロベルトさんの店へまとめて運べれば効率はよくなりますが、各店舗への移動時間も考えなければなりません」
「荷車の積載量は?」
「商品の種類によります。焼き菓子だけなら多く積めますが、ほかの商品と一緒に運ぶ場合は、積み方や荷崩れ防止も考える必要があります」
「納品時刻の希望も確認しなければならないな」
「はい。商品が完成していても、必要な時刻に届けられなければ意味がありません」
私は二人の話を聞きながら、黒板に三つの項目を書いた。
製造できる数量。
配達できる数量。
約束できる納品時刻。
「この三つを別々に確認する。エルダが二十個作れると言っても、バルンがその時間に二十個を運べるとは限らない。反対に、荷車に余裕があっても、製造が間に合わなければ届ける商品がない」
ミハイルは真剣な顔で黒板を見つめていた。
「つまり、注文数量が決まる前でも、対応できる条件を調べておくんですね」
「そうだ。早く相談してもらった利点は、準備のための時間があることだ。まだ確定していない数字を確定したものとして扱うことではない」
「なるほど……」
私はさらに、既存の予約への影響も確認項目に加えた。
大量注文のために、すでに約束した顧客を待たせるわけにはいかない。
新しい注文を受けるときには、その注文だけを見るのではなく、会社全体の予定と照らし合わせる必要がある。
「課長、五倍の注文でも、ただ五倍作ればいいというわけではないんですね」
「ようやく分かってきたな」
「では、確認事項も五倍に増やさないといけませんね!」
「いや、確認する項目は基本的に同じだ」
「違うんですか?」
「数量が増えたときほど、基本の確認を省かないことが重要なんだ。確認事項をむやみに増やすのではなく、必要な情報を正確にそろえる」
ミハイルは、今度は余計なことを言わずにメモを取った。
エルダが小さく笑う。
「ミハイル君、今度は窯を五倍に増やすと言わないでくれよ」
「言いません! 人手も必要だと学びましたから!」
「それなら安心だね」
私は苦笑した。
学んだことをすぐ実行できるかどうかは、まだ別問題らしい。
*
翌日、ロベルトから店舗ごとの販売予測が届いた。
予想どおり、二つの店舗では大幅な増加が見込まれていた。一方、残りの店舗は通常の一・五倍程度で十分だという。
すべてを一律に五倍にする必要はなかったのだ。
さらに、ロベルトは各店舗の担当者に確認し、最初の納品で必要な数量と、売れ行きを見て追加したい数量を分けてくれた。
私は、その情報をもとに製造と配達の予定を整理した。
ただし、この段階では、まだ正式な数量を確定しない。
製造側には、通常の予約品に影響しない範囲で追加製造に使える時間を確認してもらう。
配達側には、店舗ごとの希望時刻と、荷車の積載量、移動時間を確認してもらう。
その結果を照らし合わせ、実際に対応できる数量と納品条件を決めるのだ。
「課長、これなら大量注文も受けられそうですね!」
「まだ判断するには早い」
「でも、各店舗の数量が分かったじゃないですか」
「分かったのは、顧客側の希望と予測だ。こちらが実際に対応できるかどうかは、まだ確認の途中だろう?」
「そうでした……」
私はミハイルに、もう一つの確認を頼んだ。
「今回の注文で追加費用が発生する可能性も調べておいてくれ」
「製造費や配達費ですね」
「そうだ。急いで製造するために余計な作業が発生したり、荷車を別に手配したりすれば、費用が増える可能性がある。大量注文だから利益も増えると決めつけてはいけない」
「では、受注できる数量だけでなく、利益が残る条件も確認するんですね」
「そのとおりだ。顧客にとって役立つ注文でも、こちらが無理を重ねて赤字になれば、長く続けられない」
ミハイルは注文書の隅に「追加費用」と書き込んだ。
私はそれを見て、少しだけ安心した。
売上の大きさに目を奪われず、取引全体を見る習慣がつき始めている。
*
その日の夕方、ロベルトから再び連絡があった。
店舗ごとの数量について、社内で検討した結果がまとまったという。
私は内容を確認し、製造と配達の担当者に共有した。
これから、正式な数量と納品時刻をすり合わせる。
確実に必要な数量。
追加で必要になる可能性がある数量。
製造に必要な時間。
配達に必要な時間。
既存の予約への影響。
追加対応にかかる費用。
それらを確認したうえで、顧客と条件を合意する。
ここまで進めて、ようやく受注の判断ができる。
ミハイルは、整理した記録を見ながら言った。
「課長。今回の大量注文は、五倍という数字だけを見ていたら、危ないところでしたね」
「そうだな。だが、ロベルトさんが早めに相談してくれたから、事前に確認する時間が取れた」
「お客様に早く相談してもらうことも、大事なんですね」
「もちろんだ。ただし、早く相談してもらうだけでは十分ではない。相談を受けたこちらが、必要な情報を確認して、実現できる条件を提示できなければ意味がない」
「分かりました。次からは、注文数量だけで判断しないようにします」
「よし。では、今回の注文についても、正式な納品条件を詰めていこう」
私は記録帳を閉じた。
大量注文は、大きな商機になる。
しかし、数字の大きさだけを見て飛びつけば、製造や配達に無理が生じ、顧客の期待を裏切ることもある。
必要なのは、注文を怖がって断ることでも、勢いだけで受けることでもない。
顧客が何を必要としているのかを確かめ、こちらが守れる約束を見つけることだ。
そして、今回の五倍の注文は、その判断を実践する最初の大きな試練になろうとしていた。
「課長!」
ミハイルが顔を上げた。
「もし今回うまくいったら、次は十倍の注文も受けられるようになりますか?」
「まずは今回の五倍を、きちんと成功させてから考えよう」
「はい!」
私は心の中で付け加えた。
できれば、十倍という言葉を聞く前に、五倍の記録を分析する時間が欲しい。
営業の成長は歓迎する。
だが、注文数量の成長まで、本人の勢いに任せるつもりはなかった。
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営業メモ ②②⑧
大量注文は、数量の大きさだけで判断しない。
顧客が希望する数量の根拠を確認し、店舗・商品ごとの需要を整理する。確実に必要な数量と、追加になる可能性がある数量を分け、製造能力・配達能力・既存予約への影響を確認する。
さらに、追加製造や特別な配達にかかる費用も確認する。売上が増えても、追加費用によって利益が減る場合がある。
早めに相談を受けることは、準備の時間を確保するために重要だ。ただし、予測を確定情報として扱わず、実現できる数量と納品条件を顧客と合意してから受注すること。
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次回予告
第二百三十話 営業課長、大量注文を分割して信頼を守る
店舗ごとの販売予測と、製造・配達の対応可能な範囲が見えてきた。
しかし、五倍の注文を一度に届けようとすれば、製造と配達の予定が詰まってしまう。
アルトは、顧客が本当に必要としている数量と時刻を改めて確認し、最初の納品分と追加分を分ける方法を提案する。
大量注文を受けることと、無理なく約束を守ること。
その二つを両立させるため、営業課長は納品計画の組み直しに挑む。




