第二百二十六話 営業課長、急な注文に備える仕組みを作る
「課長! 緊急です!」
朝の事務所に、ミハイルの声が響き渡った。
アルトは、昨日までの受注記録を整理していた手を止めた。
「今度は何だ? 数量か? 納期か? それとも、両方か?」
「今回は、注文です!」
「注文なら、営業としては喜ぶべきことだな」
「それが……今日中に、いつもの三倍の商品を届けてほしいそうなんです!」
アルトは、ゆっくりと顔を上げた。
「……三倍?」
「はい! しかも、お客様は今日中でなければ困るとおっしゃっています!」
ミハイルが差し出した注文書には、街道沿いで複数の商店を営む商人、ロベルトの名前があった。
ロベルトは、これまで何度か携帯用保温容器や旅人向けの焼き菓子を注文してくれている取引先だ。支払いに問題はなく、これまでの取引も順調だった。
そのロベルトから、通常の三倍の商品を当日中に届けてほしいという依頼が来たのである。
「理由は聞いたのか?」
「街道の先で大きな市が開かれることになり、予定より多くの旅人が集まっているそうです。商品を増やせば売れる見込みがある、と」
「なるほど。商機があるわけだ」
「はい! ですから、受けましょう!」
ミハイルは勢いよく答えた。
アルトは注文書を机に置いた。
「その前に確認することがある」
「また確認ですか?」
「また確認だ」
「営業って、確認する仕事なんですね……」
「確認せずに約束して、後から謝る仕事よりはいいだろう?」
ミハイルは、何も言い返せなかった。
アルトは注文書を読み直した。
今日中に届けられれば、売上は大きく伸びる。
ロベルトとの関係も深まるかもしれない。
しかし、すでに受け付けている予約がある。エルダの店では商品の準備を進めており、バルンの配達予定も決まっている。ガルドの店では、予約客の受け渡し時間に合わせて準備をしている。
ここで急な注文を優先すれば、すでに約束したお客様に影響が出る可能性がある。
「ミハイル。今の予約状況を全部持ってきてくれ。それから、エルダさんとバルン、ガルドさんにも連絡を頼む」
「わかりました!」
「ただし、ロベルトさんには、まだ受けられるとも断るとも伝えないでくれ。まず、今日中に対応できる可能性を調べる」
「了解です!」
ミハイルは、今度は走らずに事務所を出ていった。
アルトは、その背中を見送りながら小さくつぶやいた。
「さて……売れるとわかった途端に、何でも受けるわけにはいかないな」
*
関係者が集まると、アルトは注文書を机の中央に置いた。
「ロベルトさんから、通常の三倍の商品を今日中に届けてほしいという依頼が来ています。まず、現在の予約に影響を出さずに対応できるか確認しましょう」
最初に口を開いたのは、パン職人のエルダだった。
「商品によるね。焼き菓子なら、材料はある程度そろっている。ただ、今朝から予約分の準備を始めているから、全部を一度に増やすのは難しいよ」
「今の予約分を完成させるには、どれくらいかかりますか?」
「予定どおりなら午前中には終わる。ただ、急な注文を先に作ると、予約分が遅れる可能性がある」
アルトは記録した。
次に、配達担当のバルンが地図を広げた。
「荷車は一台、今日はすでに予定が入っている。予約分を運んだ後なら、午後に一度は追加で走れるかもしれない。ただし、ロベルトの店は普段の配達先より少し遠い。積める量にも限りがある」
「一度で全部運ぶのは難しい?」
「今の荷車なら、商品の種類と梱包次第だな。無理に積めば、商品を傷める危険もある」
ガルドも続けた。
「受け渡し場所にも限りがある。ロベルトの店に商品が届いたとしても、受け取りと確認に時間がかかれば、店の営業にも影響が出る」
それぞれの話を聞き終えたアルトは、机に三つの欄を書いた。
商品を作れるか。
商品を運べるか。
受け渡しまで完了できるか。
「急な注文を受けられるかどうかは、この三つがそろって初めて判断できる。どれか一つだけを見ても、答えは出ない」
ミハイルが注文書をのぞき込んだ。
「でも、材料もあって、午後に配達できるなら、何とかなるんじゃないですか?」
「何とかなる、という言葉は便利だな」
「えっ?」
「何とかなると思っていたのに、ならなかったとき、誰が困る?」
ミハイルは、すぐに答えられなかった。
「ロベルトさんだけじゃない。今日受け取りに来る予定のお客様も困る。エルダさんは急いで作業をしなければならなくなる。バルンは無理な配達をすることになる。ガルドさんの店にも負担がかかる」
アルトは、注文書を指でたたいた。
「急な注文を受けること自体が悪いわけじゃない。問題は、既存の約束を壊してまで受けるべきか、そして本当に届けられるのかを確認せずに決めることだ」
「……はい」
「では、今ある情報から、対応できる方法を考えよう」
*
アルトは、ロベルトの注文をもう一度確認した。
通常の三倍。
今日中。
この二つは、確かに厳しい条件だった。
しかし、商品を三倍に増やす理由は、街道の先で予想以上に旅人が集まっていることだった。
「ミハイル。ロベルトさんは、なぜ今日中に全部必要なんだ?」
「市が今日から始まるからです。最初の販売機会を逃したくない、と」
「では、今日のうちに全量が届かなければ、注文する意味がなくなるのか?」
「そこまでは聞いていません」
「なら、確認しよう。全部を今日中に届ける必要があるのか。それとも、今日の販売に必要な最低数量があるのか」
ミハイルは、すぐにロベルトへ連絡を取った。
しばらくして戻ってくると、表情が変わっていた。
「課長、ロベルトさんは、できれば全部ほしいそうです。ただ、今日の市で販売する分が届けば、残りは明日の午前中でも構わないとのことです」
「よし。それなら選択肢が増える」
アルトは紙を二つに分けた。
今日届ける分。
翌朝に届ける分。
「ロベルトさんが今日の販売に必要な数量を確認しよう。こちらが一方的に減らすんじゃない。販売見込みを聞いて、必要な数量を一緒に決める」
再び連絡を取ると、ロベルトは今日の販売に必要な数量を具体的に説明してくれた。
通常の注文量の二倍あれば、今日の市で売り切れを防げる可能性が高いという。
残りの一倍分は、明日の午前中に届けば、翌日の販売に間に合う。
アルトは、すぐにエルダへ確認した。
「今日の予約分を先に完成させた後、追加で通常の二倍分を準備できますか?」
「材料と作業時間を確認したいね。全部を一度に作るのは難しいけれど、商品を絞れば、午後の早い時間に必要な分を用意できる可能性はあるよ」
「では、確実に準備できる数量と時刻を教えてください。無理に早める必要はありません」
次に、バルンと配達順を検討した。
既存の予約商品を予定どおり届けた後、ロベルトの店へ向かう。追加の商品は一度に積みきれない可能性があるため、荷車の安全な積載量を確認し、今日届ける分と翌朝届ける分を分ける。
「これなら、今日の予約を崩さずに運べそうだ」
バルンが地図を指した。
「ただし、ロベルトの店への到着時刻は、エルダさんの準備完了時刻が決まってから確定したい。準備が遅れれば、こちらの出発も遅れるからな」
「そのとおりです。準備の見込みが確定した段階で、到着時刻を決めましょう」
ガルドにも、今回の受け渡しが通常の予約と重ならないか確認した。
今回はロベルトの店へ直接届けるため、ガルドの店での受け渡しには影響しない。だが、配達が予定より延びれば、翌朝の配達にも影響する可能性がある。
そのため、翌朝の追加分は、準備完了時刻と配達順を再確認したうえで、別の約束として設定することにした。
アルトは、ようやく結論を出した。
「今日の販売に必要な数量を先に届け、残りは明日の午前中に届ける。この条件なら、既存の予約を崩さずに対応できる見込みだ」
ミハイルが笑顔になった。
「やりましたね! 注文を断らずに済みました!」
「ただし、まだ準備完了時刻と到着時刻の最終確認が必要だ。ロベルトさんには、条件を説明して了承を得たうえで、確定した時刻を伝える」
「はい!」
「それから、今回の追加注文を受けたことで、通常の予約に影響が出ないか、最後まで確認すること。受注できた瞬間に仕事が終わるわけじゃないぞ」
「……はい!」
ミハイルは、今度こそ慎重に予約票を記入した。
*
午後、エルダから連絡が入った。
「今日届ける分の準備ができたよ。数量も確認済みだ」
バルンは荷車の積載量と配達順を再確認し、予定した時刻に出発した。
既存の予約分は、すでにすべて約束どおりに届けられている。
ロベルトの店にも、今日の販売に必要な数量を届けることができた。
商品を受け取ったロベルトは、荷物の中身と注文書を照合した後、アルトに礼を言った。
「急な注文だったのに、対応してくれて助かったよ。今日の市には間に合った」
「こちらこそ、ご相談いただきありがとうございます。残りの商品は、明日の午前中にお届けする予定です。準備と配達の確認を続け、変更が必要になった場合は、わかった時点でご連絡します」
「わかった。無理に今日中に全部届けてもらうより、そのほうが安心できる」
ロベルトは、少し笑った。
「実は、最初に注文したときは、全部今日中に届くのが当然だと思っていた。でも、販売に必要な数量を一緒に考えれば、分けて届けても問題ないんだな」
「はい。もちろん、分割納品で問題ないかは、お客様の販売予定や保管状況によって変わります。今回は、今日必要な分と明日でも間に合う分を分けられたので、対応できました」
「なるほど。次からは、注文するときに販売予定も伝えるようにするよ」
アルトは頭を下げた。
注文の条件を調整できたのは、ロベルトが事情を説明し、分割納品を了承してくれたからだ。
営業側が勝手に納期を変更したわけではない。
お客様の目的を理解し、双方が納得できる方法を見つけたのである。
*
その日の夕方、アルトは今回の対応を記録帳にまとめた。
急な注文が入った時刻。
必要数量を確認した時刻。
商品準備の見込みを確認した時刻。
配達可能な数量と到着時刻。
既存の予約への影響。
そして、お客様と合意した納品条件。
記録を整理し終えたところで、ミハイルが尋ねた。
「課長。今回みたいな急な注文に備えて、いつも余分に商品を作っておけばいいんじゃないですか?」
「それも一つの方法だ。ただし、何でも余分に作ればいいわけじゃない」
「どうしてですか?」
「売れ残れば、保管場所を使う。商品によっては品質が落ちたり、廃棄が必要になったりする。余分に作るための材料費や作業時間もかかる」
「では、どうすればいいんでしょう?」
「急な注文がどれくらいの頻度で発生するのか、どの商品に集中するのか、調べる必要がある。いつも需要がある商品なら、少し余分に準備する価値があるかもしれない。一方で、注文がまれな商品なら、在庫を増やすより、納期を相談したほうが合理的な場合もある」
アルトは、紙に二つの言葉を書いた。
余力を確保する。
余力を使う条件を決める。
「急な注文に備えるというのは、何でも受けられるようにすることじゃない。どれくらいなら追加で対応できるのか、そのために何を残しておくのかを決めることだ」
「なるほど……」
「それに、余力を使っていいのは、既存のお客様との約束を守れる見込みがあるときだ。余力がないのに無理をすれば、今日の売上と引き換えに、明日の信頼を失うかもしれない」
ミハイルは、今日の予約記録を見つめた。
「課長。もし今回、ロベルトさんが分割納品を認めてくれなかったら、どうしていましたか?」
「商品準備と配達の状況を確認したうえで、今日中に対応できる数量だけを提案する。それでも条件が合わなければ、無理な約束はしない」
「注文を断ることになっても?」
「そうだ。できないことを、できると言うわけにはいかないからな」
アルトは、記録帳を閉じた。
今回の注文は、無事に対応できた。
しかし、急な注文が入るたびに、関係者を集めて一から考えていたのでは、判断に時間がかかりすぎる。
もっと早く、もっと正確に対応するためには、あらかじめ決めておくべきことがある。
どの商品なら追加で準備できるのか。
どれくらいの数量なら追加で運べるのか。
急な注文を受け付ける前に、誰が何を確認するのか。
そして、どの条件を満たさなければ、受注を保留するのか。
「次は、急な注文を受けたときの確認手順を作ろう」
アルトが言うと、ミハイルはすぐに紙を取り出した。
「確認する項目は、商品準備、配達、既存予約への影響、納品条件……ですね!」
「そうだ。それから、確認できていないことを、確認済みとして扱わないこと」
「はい!」
「急な注文ほど、焦って判断しやすい。だからこそ、誰が担当しても同じ順序で確認できる仕組みが必要なんだ」
アルトは新しい用紙の上に、見出しを書いた。
急な注文の受注確認手順。
売上を伸ばすための仕組みは、少しずつ形になり始めていた。
ただし、次に必要なのは、急な注文をすべて受けられるようにすることではない。
受けられる注文を見極め、既存の約束を守りながら、対応できる範囲を広げていくことだ。
そのための準備は、まだ始まったばかりだった。
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営業メモ ②②⑤
急な注文が入ったときは、売上の大きさだけで受注を判断してはいけない。まず、既存の予約への影響、商品を準備できる数量と時刻、配達能力、受け渡し条件を確認する。
お客様が本当に必要としている数量や納期を聞き、必要なら分割納品や受け取り時刻の調整を提案する。こちらの都合だけで条件を変更せず、お客様の販売予定や事情を踏まえて合意することが重要である。
急な注文への対応力を高めるには、追加で準備できる商品、追加配達に使える時間、必要な人員や設備などを把握しておく。ただし、余分な在庫や人員を確保するには費用がかかるため、需要の頻度や商品の特性を見て判断する。
受注できたかどうかだけでなく、既存注文への影響、追加費用、利益、納期遵守も記録し、次の判断に活用する。
急な注文に強い営業とは、何でも引き受ける営業ではない。守れる条件を見極め、必要に応じて代替案を提示し、信頼と利益を両立させる営業である。
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次回予告
第二百二十七話 営業課長、急な注文の判断基準を整える
ロベルトからの急な注文に対応できたアルトたち。
しかし、今回の成功は、関係者が集まり、個別に確認を重ねたからこそ実現したものだった。
同じ対応を毎回繰り返していては、判断に時間がかかり、担当者によって受注の基準も変わってしまう。
アルトは、追加で受けられる数量、確認すべき条件、受注を保留する基準を整理し、誰でも使える確認手順を作り始める。
ところが、数字だけで基準を決めようとすると、思わぬ落とし穴が見えてくる。
現場の実情とお客様の事情を両立させる、営業課長の次の挑戦が始まる。




