第二百二十話 営業課長、顧客の相談から新しい商売を生み出す
「課長! 宿屋から、また相談が来ています!」
朝の営業課に飛び込んできたミハイルは、息を切らしながら一枚の書類を差し出した。
アルトは受け取った書類に目を通す。
差出人は、街道沿いの宿屋を営むマルタ。
内容は、改良型の携帯用保温容器の試験販売についての報告と、新しい相談だった。
保温容器は少しずつ売れ始めている。しかし、旅人からは商品そのものだけでなく、旅先での飲み物や食料の確保についても相談されるという。
「旅人向けの商品を、もっと扱えないか、か」
アルトは書類を机に置いた。
「ミハイル。君はどう思う?」
「いいと思います! 保温容器が売れているんですから、関連商品も置けば、もっと売上が伸びるはずです!」
「例えば?」
「ええと……飲み物です!」
「何を?」
「温かい飲み物です!」
「どこで?」
「宿屋です!」
「誰に?」
「旅人です!」
アルトは頷いた。
「よし。君の提案は、場所と対象までは決まった。商品と利益の計算がまだだな」
「課長、そこまで一気に聞かれると、私の頭が追いつきません!」
「商売は、頭が追いつく前に財布が逃げていくことがあるからな」
「財布を逃がさないためにも、ゆっくりお願いします!」
営業課の面々が笑った。
アルトも口元を緩めたが、すぐに真剣な表情へ戻った。
新しい商売の種を見つけることは、営業にとって大きな成果だ。
しかし、顧客が欲しがっているからといって、すぐに商品を増やせばよいわけではない。
需要があることと、利益が出ることは別問題なのだ。
「まずは、マルタさんが何を求めているのか、もう少し詳しく聞こう。商品を増やしたいのか、それとも旅人の困りごとを解決したいのか。その違いは大きい」
*
午前中、アルトはミハイルを連れて、マルタの宿屋を訪れた。
帳場では、マルタが宿泊客の記録を整理していた。
「アルトさん、来てくださってありがとうございます」
「こちらこそ、相談をいただいて助かります。保温容器の販売状況はいかがですか?」
「最初に置いた分は、少しずつ売れています。まだ大量に売れるわけではありませんが、買った方が別の旅人に勧めてくれることもあるんですよ」
「それはいい傾向ですね。どんな方が購入されていますか?」
「街道を長く移動する商人や、朝早く出発する旅人が多いですね。あとは、家族への土産に買っていく方もいます」
アルトは記録帳を開いた。
「それで、今回の相談についてですが、具体的にはどのようなことでしょう?」
マルタは少し考えてから答えた。
「旅人から、道中で食べるものを買えないかと尋ねられることが増えたんです。宿を出ると、次の町まで店がない道もありますからね」
「食料ですか」
「ええ。パンや焼き菓子、それに日持ちする食べ物があれば助かると言われました。飲み物についても、出発前に持っていけるようにしてほしいと」
ミハイルが目を輝かせた。
「だったら、宿屋を旅人向けの販売所にすればいいんですよ! 保温容器に飲み物、パン、焼き菓子! 旅人が必要なものを全部そろえるんです!」
「発想は悪くない。ただし、マルタさんの宿に、そこまでの設備と人手があるかな?」
「あっ……」
マルタは苦笑した。
「実は、そこが問題なんです。宿泊客の世話だけでも忙しいのに、食料まで大量に仕入れて管理するのは難しくて。売れ残れば損になりますし、食べ物は傷むこともあります」
アルトは頷いた。
「分かりました。つまり、商品を増やすこと自体が目的ではない。旅人が必要なものを用意したいが、宿屋の負担は増やしたくない、ということですね」
「その通りです」
「では、少し質問させてください。旅人は、何を、いつ、どれくらい必要としているのでしょう?」
マルタは宿泊客の様子を思い出しながら話し始めた。
朝早く出発する人は、朝食を十分に取れないことがある。
次の町まで距離がある場合、途中で食料を買える場所がない。
荷物を増やしたくない旅人は、持ち運びやすい食品を求める。
そして、道中で飲み物を確保できるかどうかも気にしている。
アルトは話を聞きながら、必要な条件を整理していった。
「なるほど。では、最初から何種類もの商品を並べる必要はなさそうですね」
「と、言いますと?」
「まずは、朝の出発時に持っていける食料を少数に絞る。例えば、日持ちする焼き菓子や、個別に包んだパン。飲み物については、宿で用意できるものを持ち出せる形にする。ただし、保存方法や衛生面は確認が必要です」
「それなら、できそうです」
「販売数も最初から決めつけず、予約と当日販売を組み合わせてみましょう。前日の夜までに希望を聞けば、余分な仕入れを減らせるかもしれません」
マルタの表情が明るくなった。
「それなら、無理なく始められそうですね」
アルトは微笑んだ。
「まずは小さく試して、旅人の反応を確かめましょう」
*
宿屋を出たアルトたちは、街の商店へ向かった。
最初に訪れたのは、パンと焼き菓子を扱う小さな店だった。
店主のエルダは、アルトの話を聞くと興味深そうに頷いた。
「宿屋で旅人向けに売るんですか。それなら、うちの商品も扱ってもらえるかもしれませんね」
「ただ、最初から大量に仕入れるわけではありません。まずは少量で、販売数を確認したいと考えています」
「構いませんよ。うちも、どの商品が旅人に好まれるか分かれば、今後の参考になります」
「商品の保存期間や、個別包装に対応できるかも教えていただけますか?」
「ええ。日持ちする焼き菓子なら対応できます。ただし、個別包装を増やすと、その分の手間と費用がかかります」
アルトはすぐに価格を尋ねた。
商品原価だけでなく、包装費、宿屋への納品費用、売れ残りの負担も考える必要がある。
次に訪れたのは、飲み物を扱う商人だった。
こちらでは、持ち運び用に小分けする方法と、容器を回収して再利用する方法について話し合った。
しかし、容器の回収には管理が必要だ。返却されない場合の負担や、洗浄にかかる手間も無視できない。
「課長、何だか話が複雑になってきましたね」
ミハイルが小声で言った。
「新しい商売は、商品を仕入れて並べれば終わりではないからな。誰が作り、誰が運び、誰が販売し、売れ残りを誰が負担するのか。そこを決めないと、売上が増えても利益が残らない」
「なるほど……。商品を増やすだけなら簡単ですが、仕組みを作るのは大変なんですね」
「その通りだ。だからこそ、営業の出番がある」
アルトは歩きながら、取引先との話を整理した。
パン屋は少量の納品に対応できる。
宿屋は、前日予約を受け付けられる。
飲み物の商人は、小分け販売の方法を検討できる。
それぞれの強みを組み合わせれば、宿屋がすべてを自前で用意する必要はない。
宿屋は注文を受け、パン屋や飲み物の商人が商品を供給し、アルトたちの会社は保温容器を提供する。
ただし、取引先が増えるほど、納品時間や代金の精算方法も複雑になる。
まずは、商品数を絞り、納品日を固定し、帳簿を一つにまとめる必要がある。
「ミハイル。今回の商売で、最初に決めるべきことは何だと思う?」
「何を売るか、ですか?」
「それも必要だが、先に決めたいのは、誰のどんな困りごとを解決するのか、だ」
「旅の途中で食料や飲み物を買えない旅人、ですね」
「そうだ。そこが明確なら、必要な商品も、販売する場所も、提供方法も絞り込める」
「逆に、そこを決めずに商品を増やすと、売れないものまで仕入れることになる……」
「そして、在庫の山を見ながら、課長の顔色をうかがうことになる」
「それは避けたいです!」
「私も避けたい。特に、在庫の山の向こうから君が泣いている光景は見たくない」
「課長、想像が具体的すぎませんか!?」
*
午後、アルトは営業課へ戻り、関係者を集めて小さな打ち合わせを開いた。
参加したのは、ミハイル、ロラン、製造責任者のバルド、倉庫担当者、会計担当者だった。
アルトは黒板に、試験販売の計画を書き出した。
販売場所は、マルタの宿屋一軒。
期間は、まず二週間。
商品は、日持ちする焼き菓子と、持ち運び用の飲み物を中心に、種類を限定する。
保温容器は、これまでどおり別商品として販売する。
宿泊客から前日の夜までに予約を受け、当日分は少量だけ用意する。
販売数、売れ残り、仕入れ費、包装費、配送費、販売にかかった手間を毎日記録する。
「この条件なら、試験販売を始められそうです。ただし、食品の保存状態や衛生面については、提供する店と仕入れ先で責任範囲を明確にしてください」
バルドが確認した。
「もちろんです。商品ごとの保存方法と販売期限を確認し、条件を守れない商品は扱いません。傷みやすいものは、最初の試験対象から外します」
「代金の精算はどうしますか?」
会計担当者が尋ねた。
アルトは答えた。
「毎日の販売数を記録し、週ごとに売上と仕入れ代金を照合しましょう。宿屋が商品を預かる場合は、販売した分と残っている分を確認できるようにします。紛失や破損、売れ残りの負担についても、始める前に合意しておきます」
ロランが記録用紙を見ながら言った。
「これなら、売上が出たとしても、どこで利益が出ているか分かりそうですね」
「そこが大切だ。売れた個数だけを見て、成功したと判断してはいけない」
アルトは黒板の隅に、簡単な計算を書いた。
例えば、商品を一個六十銅貨で仕入れ、八十銅貨で販売した場合、差額は二十銅貨になる。
しかし、包装や配送に一個あたり十銅貨かかれば、残るのは十銅貨だ。
さらに、売れ残りが出たり、予約分の準備に想定以上の人手がかかったりすれば、利益はもっと小さくなる。
「商品ごとの粗利益だけでなく、販売全体でどれだけ利益が残るかも確認する。売上が増えても、手間と費用が増えすぎれば続けられないからな」
ミハイルは真剣な顔で計算を見つめた。
「課長。今回の商売は、保温容器を売るための企画ではないんですね」
「保温容器の販売にもつながる可能性はある。だが、それだけを目的にすると、旅人が本当に必要としているものを見失う」
アルトは黒板に書かれた計画を指した。
「旅人が便利だと感じ、宿屋にも利益が残り、仕入れ先にも無理がなく、こちらにも利益が残る。その条件を満たせるかを確かめるんだ」
「全員が得をする仕組み、ということですね」
「そうだ。誰か一人だけが無理をする商売は、長く続かない」
*
打ち合わせが終わる頃、ミハイルが一枚の紙を差し出した。
「課長、マルタさんから追加の情報が届きました」
そこには、宿泊客から聞き取った要望がまとめられていた。
朝食を取る時間がない。
途中で飲み物を買える場所が少ない。
荷物が増えるのは困る。
食料を買うためだけに、遠回りをしたくない。
そして、その下に一つ、気になる記述があった。
『次の町まで荷物を運ぶ途中で、昼食を取れる場所がなくて困っている。できれば、決まった場所で受け取れるようにしてほしい』
アルトは、その一文をじっと見つめた。
「決まった場所で受け取りたい、か……」
ミハイルが尋ねた。
「宿屋で商品を買ってもらうだけでは、駄目なんでしょうか?」
「それだけで解決できる人もいるだろう。だが、この旅人は、宿屋を出た後の問題を話している」
アルトは街道の地図を机に広げた。
宿屋から次の町までの道のり。
途中にある集落。
商店の位置。
荷馬車が休憩できる場所。
それらを確認していくと、一つの可能性が浮かび上がった。
旅人が必要としているのは、単に食料を買える店ではない。
移動の途中で、必要なものを確実に受け取れる仕組みなのかもしれない。
例えば、街道沿いの商店と協力し、事前に注文した食料を決まった場所で受け取れるようにする。
宿屋で予約を受け、途中の協力店に必要な商品を届けておく。
これが実現できれば、旅人は遠回りせずに済み、協力店には新しい来店客が増える可能性がある。
しかし、受け取り場所を増やせば配送費も管理の手間も増える。
注文の取り違えや、受け取りに来なかった場合の扱いも決めなければならない。
まだ、思いつきにすぎない。
アルトは地図の上に指を置いた。
「ミハイル。明日は、この街道沿いにある商店を調べよう」
「はい! 受け取り場所を作るんですか?」
「まだ決めていない。まずは、協力できそうな商店があるか、どのくらい旅人が通るのか、実際に確認する」
「分かりました。今度は、先に調べてから提案します!」
「成長したな」
「課長の無茶ぶりに耐えてきた成果です!」
「無茶ぶりではない。実地研修だ」
「名前を変えても、私の仕事量は変わりません!」
二人の声が営業課に響き、周囲から笑いが起きた。
アルトは笑いながらも、地図から目を離さなかった。
顧客の相談は、必ずしも最初から新しい事業の形をしているわけではない。
何気ない一言の中に、不便や不満が隠れている。
その不便を解決する方法を考え、実現できる条件を調べ、採算を確かめる。
そこまで進めて初めて、思いつきは商売になる。
まずは宿屋一軒で試験販売を始める。
その結果を確かめながら、次の受け取り場所の可能性も探る。
アルトは新しい計画書の表紙に、こう書き込んだ。
旅人の移動を支える販売網――試験計画。
大きな商売になるかどうかは、まだ分からない。
だが、顧客の声から見つかった小さな不便が、新しい商売の入口になり始めていた。
営業メモ ②①⑨
顧客から新しい要望を受けたときは、すぐに商品を増やすのではなく、まず「誰の、どんな困りごとを解決するのか」を明確にする。
需要がありそうでも、仕入れ費、包装費、配送費、人件費、売れ残りなどを考慮しなければ、利益が残るとは限らない。
新しい事業は、小規模な試験販売から始め、販売数、顧客の反応、費用、利益を記録する。予約販売や少量補充を活用すれば、在庫リスクを抑えながら需要を確かめられる。
また、複数の事業者が協力する場合は、商品の管理責任、納品方法、代金の精算、売れ残りや破損の負担を事前に取り決めることが重要である。
顧客の声を商機に変えるには、発想力だけでなく、実行できる仕組みと採算性の検証が欠かせない。
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次回予告
第二百二十一話 営業課長、街道沿いの商店を味方につける
旅人が必要な商品を途中で受け取れる仕組みを考えたアルト。
しかし、街道沿いの商店には、それぞれの事情があり、簡単には協力を得られない。
店主たちが気にしているのは、売上だけではなかった。
アルトは相手の利益と不安を一つずつ整理し、新しい販売網を実現するための交渉に挑む。




