第二百十五話 営業課長、試作品の失敗から売れる条件を探る
試作品が完成した翌朝。
営業課の机の上には、いつもの書類に交じって、三つの保温容器が並んでいた。
一つ目は、残量が分かるように外側に目盛りを付けたもの。
二つ目は、片手でも蓋を開けやすいように改良したもの。
三つ目は、洗浄しやすいように内部の部品を取り外せるようにしたものだった。
アルトは三つの容器を見比べ、満足そうに頷いた。
「よし。これなら、お客様の困りごとを一つずつ解決できるはずだ」
「課長、昨日も同じことを言っていましたよね」
向かいの席でミーナが腕を組んでいた。
「昨日は完成したばかりだったからな。今日は実際に使ってみる日だ」
「つまり、昨日の時点では、本当に使えるかどうか分かっていなかったと?」
「そのとおりだ」
「自信満々に言わないでください!」
アルトは笑った。
「試作品というのは、完成品のふりをした実験道具だからな」
「そんな定義、初めて聞きました」
「今、決めた」
「営業課長が勝手に定義を増やさないでください!」
とはいえ、ミーナの言うことももっともだった。
工房では、製造担当者が決められた手順で組み立て、机の上で開閉や洗浄を確認している。
しかし、お客様が使うのは机の上だけではない。
荷物を持って歩く。荷車を押す。商品を積み替える。急いで飲み物を取り出す。手が汚れていることもあれば、周囲が暗いこともある。
机の上で使いやすい商品が、現場でも使いやすいとは限らないのだ。
「今日はロベルトさんに試作品を使ってもらう。その前に、私たちも実際の使用状況を確認しよう」
「分かりました。では、私は目盛り付きの容器を担当します」
「私は蓋の改良品を持つ。洗浄部品の確認は、ロベルトさんにも協力してもらおう」
「課長、今日はちゃんと歩くんですよね?」
「もちろんだ」
「途中で馬車に乗って、現場確認をしたことにするのは禁止ですからね」
「……営業課の規則に、そんな項目はないぞ」
「今、追加したいと思っています」
アルトは、部下の成長を頼もしく思うべきか、少し考えた。
少なくとも、規則を増やす速度だけなら、彼女は将来有望だった。
*
最初に試したのは、残量を確認するための目盛りだった。
ミーナは容器を手に取り、飲み物を入れた状態で外側を確認した。
「課長、目盛りはちゃんと付いています。でも……」
「どうした?」
「色が薄くて、少し離れると見えません」
アルトは容器を受け取り、目盛りを確かめた。
確かに、明るい場所で近くから見れば分かる。しかし、屋根の影に入ると数字が読み取りにくくなった。
「なるほど。工房では、明るい作業台の上で確認していたから気づかなかったんだな」
「目盛りをもっと濃くすればいいんでしょうか?」
「その可能性はある。ただ、濃くするだけで解決するか、もう少し調べよう」
アルトは、容器を持つ位置を変えてみた。
正面から見ると目盛りは読める。だが、荷物を持ったまま片手で確認しようとすると、手で目盛りが隠れてしまう。
「ミーナ。お客様は、容器をどの位置で持つことが多い?」
「普通なら、胴体の中央あたりでしょうか」
「そうだな。なら、目盛りを付ける位置も、そこを考慮しなければいけない」
アルトは記録帳を開いた。
目盛りの色。
数字の大きさ。
目盛りを付ける位置。
どれも小さな変更に見える。しかし、使う人が一目で残量を判断できなければ、改良した意味がない。
「課長、これならどうでしょう?」
ミーナが容器を少し傾けた。
確かに、角度を変えると目盛りが読みやすくなった。
「悪くない。ただ、お客様に毎回その角度を探してもらうわけにはいかないな」
「では、持ったときに自然に目に入る位置を探す必要がありますね」
「そのとおり。便利さというのは、使う人が努力しなくても得られるものが理想だ」
ミーナは真剣に頷き、記録帳に書き込んだ。
そして、目盛りを見ようと容器を持ち上げた瞬間、中身が少し揺れて、彼女の袖に飛び散った。
「あっ!」
「大丈夫か?」
「はい……。でも、残量を確認するために、こんなに傾ける必要があるのは問題ですね」
アルトは頷いた。
試作品の問題が、また一つ見つかった。
*
次は、蓋を片手で開けやすくした改良品だった。
アルトは容器を片手で持ち、もう一方の手を使わずに蓋を開けようとした。
軽く力を入れる。
蓋が開いた。
「おお、これは簡単だ」
「課長、今度こそ成功では?」
「いや、まだだ」
アルトは蓋を閉じ、容器を持ったまま軽く歩いてみた。
すると、数歩進んだところで蓋がわずかに緩んだ。
二人の表情が変わった。
「……課長」
「うん」
「今、閉めましたよね?」
「閉めたな」
「それなのに、緩みましたよね?」
「緩んだな」
「……中身、入ってますよね?」
「入っているな」
「課長、確認ばかりしていないで、早く止めてください!」
ミーナが慌てて容器を受け取り、蓋を押さえた。
幸い、中身はこぼれなかった。
アルトは改良品を机の上に置いた。
「これは、やってはいけない改良の典型だな」
「開けやすさを優先しすぎたんですね」
「そうだ。蓋を開けやすくすること自体は間違っていない。でも、保温容器には、密閉性という大事な役割がある」
「使いやすくなっても、中身が漏れたら意味がありません」
「そのとおりだ。お客様は蓋を開けたいのではなく、必要なときに安全に飲み物を取り出したいんだ」
アルトは記録帳に書き込んだ。
片手で開けられること。
閉めた状態を維持できること。
移動中に緩まないこと。
この三つを同時に満たす必要がある。
「工房には、開閉部分の構造をもう一度検討してもらおう。開けるときの力だけでなく、閉じた状態でどれくらい固定されるかも確認してもらう」
「分かりました。開けやすさだけで合格にしてはいけないんですね」
「そういうこと。お客様が商品を使う一連の動作を見ないと、問題を見落としてしまう」
アルトは容器を持ち上げ、もう一度蓋を確かめた。
そして、静かに机へ戻した。
「ちなみに、今の試作品を商品として売り出したら、どうなると思う?」
「お客様から苦情が来ます」
「そのとおり」
「場合によっては、中身をこぼしたお客様が二度と買ってくれません」
「さらにそのとおり」
「課長、今日は妙に素直ですね」
「失敗から学ぶのは大事だからな。失敗した試作品を売り出すのは、学習ではなく押しつけだ」
ミーナはその言葉を記録帳に書き留めた。
*
最後は、内部の部品を取り外して洗えるようにした改良品だった。
工房では、部品の取り外しと取り付けが簡単にできると報告されている。
アルトは説明書を見ながら、部品を一つずつ外した。
最初の部品は問題なく外れた。
二つ目も外れた。
三つ目を外そうとしたところで、手が止まった。
「……ミーナ」
「はい」
「この部品、どちら向きに戻すんだ?」
「説明書には、向きが書いてありませんね」
「工房では、どうやって戻したんだろう?」
「作った人なら分かるんじゃないですか?」
「そうだな。でも、お客様が作った人に毎回聞くわけにはいかない」
二人は部品を見比べた。
形はよく似ている。向きを間違えても、無理をすれば取り付けられそうだった。
だが、間違った向きで取り付けると、密閉部分に隙間ができる可能性がある。
「これは、洗いやすくするための改良だったはずですよね」
ミーナが言った。
「そのとおりだ。ところが、洗うために分解したら、元に戻せるかどうか分からなくなった」
「部品を取り外せるようにしただけでは、不十分なんですね」
「そうだ。簡単に外せること、簡単に洗えること、正しく戻せること。この三つがそろって初めて、手入れしやすい商品になる」
アルトは部品を机に並べ、取り外した順番を記録した。
さらに、向きを間違えないための印を付けられないか考えた。
部品の形を変える方法もある。
ただし、製造コストが上がりすぎれば、販売価格に影響する。
「まずは、部品に目印を付ける方法と、逆向きには取り付けられない形にする方法を工房に検討してもらおう」
「形を変えるほうが確実そうですが、費用も確認する必要がありますね」
「そうだ。安全性と使いやすさを満たしながら、現実的な価格に収める。それが商品開発の難しいところだ」
ミーナは部品を一つずつ袋に戻した。
「課長。今日だけで、問題が三つも見つかりましたね」
「三つだけで済んだ、と考えよう」
「前向きですね」
「いや、今日のうちに見つからなかったら、お客様のところで見つかっていたかもしれないからな」
ミーナは少し表情を引き締めた。
試作品の失敗は、売上にはならない。
だが、失敗を見つけて改善すれば、発売後の苦情や返品を減らせる可能性がある。
それもまた、会社にとって大切な利益だった。
*
午後、アルトは工房のガレスを交え、試作品の検証結果を整理した。
机の上には、三つの試作品と、問題点を書き出した報告書が並んでいる。
「最初に確認したい。今回の試作品は失敗だったと思うか?」
アルトが尋ねると、ガレスは腕を組んだ。
「商品としては、まだ売り出せない。そういう意味では失敗だろう」
「私も同じ考えです。ただし、今回の検証そのものは失敗ではありません」
「どういうことだ?」
「発売する前に、使いにくさや安全上の問題を見つけられたからです。問題があると分かったうえで直すのと、問題に気づかず売り出すのとでは、大きな違いがあります」
ガレスは試作品を手に取った。
「確かに、工房では作業台の上で確認していた。実際に歩きながら使うところまでは、十分に試していなかったな」
「それが今回の重要な発見です。商品を使う環境を、検証に含める必要があります」
アルトは報告書を指で示した。
「ただし、すべてを一度に改良しようとすると、何が効果を生んだのか分からなくなる可能性があります。そこで、次の試作では変更点を分けて検証したい」
「具体的には?」
「目盛りは、見やすさと持ったときの確認しやすさを改良する。蓋は、開閉のしやすさと密閉性を別々に確認する。洗浄部品は、分解から再組み立てまでの手順を初めて使う人にも試してもらう」
「一つずつ確認するわけか」
「はい。そして、どこまで改善できたら合格とするか、試作を始める前に決めておきます」
ミーナが報告書に項目を書き加えた。
「目盛りなら、指定した距離から残量を判別できるか。蓋なら、開けやすくても移動中に緩まないか。洗浄部品なら、説明を受けていない人でも正しく戻せるか……」
「そのとおり。合格条件が曖昧だと、作った人が『これで十分だ』と思ったところで終わってしまう」
ガレスは感心したように頷いた。
「営業課長というより、検査責任者みたいだな」
「営業も検査も、目的は同じです。お客様が安心して使える商品を届けることですから」
「なるほどな」
ガレスは試作品を箱に戻した。
「工房に持ち帰って、改善案を検討しよう。次は、改良する前に合格条件も確認する」
「お願いします。こちらも、ロベルトさんたちに再度協力を依頼します」
アルトは、今回の結果を販売担当者にも共有することにした。
商品開発は工房だけの仕事ではない。
営業が聞いた声を工房へ伝え、工房が形にしたものを営業が現場で確かめ、再びお客様の意見を聞く。
その循環がなければ、会社の中だけで都合のよい商品ができあがってしまう。
*
数日後、改良された目盛り付きの試作品が完成した。
今度は、容器を持ったときに指で隠れにくい位置に目盛りが配置され、色と数字も見やすくなっている。
蓋については、開閉部分の構造を見直し、片手で開ける操作を助けながら、閉じた状態では固定される仕組みを検討することになった。
洗浄部品には、取り付ける向きが分かる印が追加された。
アルトたちはロベルトに試作品を渡し、実際の移動中に使ってもらった。
数日後、ロベルトから結果が届いた。
目盛りは以前より確認しやすくなり、補充のタイミングも判断しやすい。
ただし、蓋については、手袋をした状態ではまだ開けにくいという意見があった。
洗浄部品についても、印は分かりやすいが、取り付けるときに少し力が必要だという。
「課長、まだ改善点が残っていますね」
ミーナが報告書を見ながら言った。
「そうだな。だが、最初よりも具体的になった」
「最初は、ただ『使いにくい』という話でしたからね」
「今は、どの条件で使いにくいのかが分かっている。手袋をした状態で蓋が開けにくい。部品を取り付けるときに力が必要。この情報があれば、次に何を直すべきか判断できる」
アルトは報告書を閉じた。
「大切なのは、最初から完璧な商品を作ることではない。お客様の声をもとに、改善を繰り返せる仕組みを作ることだ」
「では、次の試作品も作るんですね?」
「もちろんだ」
「……私も、また現場に行くんですか?」
「君は今回、使用状況をよく観察してくれたからな」
「課長、それは褒めているようで、次も担当という意味ですよね?」
「よく分かったな」
「分かりたくありませんでした!」
ミーナの声が営業課に響き、周囲の社員が笑った。
アルトも笑いながら、次の検証計画を机に置いた。
失敗を隠せば、同じ問題が繰り返される。
失敗を記録し、原因を考え、改善策を試せば、その経験は会社の財産になる。
そして、お客様が本当に使いやすいと感じる商品に近づくほど、営業担当者は価格だけに頼らず、その価値を説明できるようになる。
商品を売る力とは、話術だけではない。
お客様の声を拾い、現場を観察し、改善を積み重ねる力でもあるのだった。
営業メモ ②①④
試作品の検証では、「使いやすそうだ」という感覚だけで合格にしてはいけない。実際の使用環境で試し、発売前に問題を発見することが重要である。
今回のポイントは三つ。
一、使用場面を再現する。机の上で問題がなくても、移動中、手袋をした状態、暗い場所などでは不便が生じる可能性がある。
二、改良の合格条件を事前に決める。目盛りの見やすさ、蓋の密閉性、部品の再組み立てやすさなど、確認項目を具体化する。
三、失敗を記録し、次の改善につなげる。問題を隠すのではなく、発生条件と原因を整理することで、次の試作の精度が高まる。
試作品の目的は、最初から完璧な商品を作ることではない。お客様に届ける前に問題を発見し、改善を繰り返して、安心して使える商品に近づけることである。
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次回予告
第二百十六話 営業課長、改良商品の価格をどう決めるか
試作品の改善が進み、商品化の見通しが立ってきた。
しかし、部品の追加や製造工程の変更によって、従来品より製造コストが上がることが分かる。
価格を上げれば、お客様が購入をためらうかもしれない。価格を据え置けば、会社の利益が減ってしまう。
アルトは、原価だけでも競合価格だけでもなく、お客様が感じる価値と会社が継続して利益を出せる条件の両方から、改良商品の価格を考え始める。




