第二百十四話 営業課長、お客様の改善要望から新商品を考える
朝の営業会議が終わり、アルトが机の上の書類を整理していると、部下のミーナが一枚の紙を持って駆け込んできた。
「課長、大変です!」
「どうした。納品した商品が全部逆さまだったとか?」
「そんな大事件を朝から起こさないでください!」
「いや、営業の世界では、こちらが正しいと思っていたことが、お客様には逆さまに見えることもあるからな」
「今の話、うまいことを言ったつもりですか?」
「少しだけ」
ミーナは呆れた顔をしながら、手に持った紙を差し出した。
「先日納品した携帯用保温容器について、お客様から改善要望が届いています」
「改善要望か。苦情とは違うのか?」
「そこが、まだはっきりしないんです。商品そのものに不満があるのか、もっと便利にしてほしいのか……」
アルトは紙を受け取った。
そこには、取引先の行商人から寄せられた三つの要望が記されていた。
一つ目。長時間歩いていると、容器の蓋が開けにくい。
二つ目。残量が外から分からず、飲み物を補充するタイミングを判断しづらい。
三つ目。夕方になると、容器の表面が汚れていても、旅先では十分に洗えない。
アルトは紙を机に置き、腕を組んだ。
「なるほど。これは面白いな」
「面白い、ですか? お客様は困っているんですよ?」
「もちろん、困りごとを軽く考えているわけじゃない。だが、この三つには共通点がある」
「共通点?」
「お客様が商品を使っている場面だよ」
アルトは紙の余白に、ゆっくりと書き込んだ。
蓋が開けにくい。
残量が分からない。
旅先で洗いにくい。
どれも、商品を店頭で眺めているときには気づきにくい問題だった。
実際に商品を持ち歩き、何度も使って初めて分かる不便さである。
「つまり、商品を買う前の説明だけでは見えなかった問題ということですか?」
「そうだ。売り場では商品の性能を説明できる。でも、お客様が使う一日の流れまで想像できていなければ、本当の不便さは見落とす」
アルトは前世で、売れた商品が必ずしも満足されているわけではないことを何度も経験していた。
契約が取れた瞬間は営業担当者にとって嬉しい。
だが、商品が届いた後にお客様が困っているなら、そこで営業の仕事が終わったとは言えない。
むしろ、次の仕事が始まるのだ。
「ミーナ、この要望を出したお客様に会いに行こう」
「すぐにですか?」
「そうだ。紙だけで改善策を決めるのは危険だからね」
「でも、課長。改善要望が三つもあるなら、工房に持ち帰って、どれが対応できるか確認するのが先では?」
「工房に相談するのも必要だ。ただし、相談する前にもう一つ確認したい」
「何でしょう?」
「お客様が本当に欲しいのは、改良された商品なのか。それとも、今ある商品で不便を解消する方法なのか」
ミーナは首を傾げた。
「同じことではありませんか?」
「違うよ。蓋の開け方を変えるだけで解決するなら、商品を作り直す必要はない。残量が分かる印を付ければ済むかもしれない。洗浄方法を変えるだけで改善する可能性もある」
「なるほど……。最初から新商品を作ると決めつけないんですね」
「そういうこと。お客様の要望を、そのまま製造命令に変えてはいけないんだ」
*
昼前、アルトとミーナは、要望を寄せた行商人のロベルトを訪ねた。
ロベルトは荷車の横で、商品を木箱に詰め直していた。
「おお、アルト課長。わざわざ来てくれたのか」
「改善要望をいただきましたからね。実際にどんな場面で困っているのか、教えていただきたいと思いまして」
「そうか。あの容器は便利なんだが、使い込むと気になるところも出てくるんだ」
ロベルトは荷車から保温容器を一つ取り出した。
「まず、蓋だ。荷物を持ったまま片手で開けようとすると、なかなか開かない。急いでいるときは特に困る」
「両手なら開けられますか?」
「もちろんだ。だが、道の途中で荷物をいちいち下ろしていたら、時間がかかるだろう?」
「確かに。では、残量が分からないというのは?」
「朝に飲み物を入れて出発するだろう。昼ごろになると、どれだけ残っているのか分からない。飲み切ってから店を探すのでは遅いこともある」
「最後の、洗いにくいという点は?」
「町に着けば洗える。だが、途中で補充したいとき、容器の口が狭くて、布を入れて拭きにくいんだ。汚れが残っていないかも気になる」
アルトは一つずつ質問し、答えを記録した。
その間、ミーナは容器を手に取り、蓋を開けたり閉めたりしている。
「課長、確かに蓋は少し固いですね。私でも片手では開けにくいです」
「無理に力を入れるなよ。中身を頭から浴びたら、改善要望が四つに増える」
「誰の改善要望ですか!」
「私の服からの改善要望だ」
「課長の服は発言しません!」
ロベルトが声を上げて笑った。
アルトも笑いながら、質問を続けた。
「ロベルトさん、この三つの不便さが解消されたら、今より多く仕入れたいと思いますか?」
「そうだな……。使いやすくなるなら、仲間にも勧めやすい。ただ、今すぐ大量に買うとは約束できないぞ」
「もちろんです。では、今の容器を使っていて、特に困るのはどの時間帯ですか?」
「昼前から午後だ。朝は出発の準備で忙しいし、夕方には宿や町に着く。昼間の移動中が一番困る」
「その時間帯に、どんな使い方をしていますか?」
「飲み物を飲む。荷物を運ぶ。客に商品を見せる。ときには、荷車を押しながら歩くこともある」
アルトは頷いた。
ここまで聞いて、ようやく問題の輪郭が見えてきた。
ロベルトが求めているのは、単に性能の高い容器ではない。
移動中でも扱いやすく、残量を把握でき、手入れの負担が少ない容器だった。
つまり、使いやすさの問題である。
「ロベルトさん、もう一つだけ。もし蓋が片手で開けられて、残量が外から分かり、簡単に手入れできるようになったら、今より少し価格が上がっても検討できますか?」
ロベルトはすぐには答えなかった。
荷車の上に積まれた商品を見てから、アルトに視線を戻す。
「値上がりの幅によるな。便利になるのはありがたいが、行商人は荷物一つ一つの費用を計算している。高すぎれば、結局は買えない」
「分かりました。価格も含めて検討します」
アルトは、値上げを受け入れるという約束を取り付けようとはしなかった。
改善によって生まれる価値と、お客様が負担できる金額。その両方を確かめなければ、売れる商品にはならないからだ。
*
会社に戻ったアルトは、工房の責任者であるガレスと、商品管理担当のミーナを集めた。
机の上には、保温容器とロベルトから聞き取った記録が並んでいる。
「まず、三つの要望をそのまま三つの改造に変えるのはやめよう」
アルトはそう切り出した。
「一つ目の蓋は、開閉部分の構造を見直す必要があるかもしれない。ただし、簡単に開くことだけを優先すると、今度は移動中に蓋が外れる危険がある」
ガレスが頷いた。
「開きやすさと、勝手に外れない安全性は両立させなければならないな」
「そうです。次に残量の確認ですが、透明な窓を付ける方法はありますか?」
「透明な素材を使うなら、耐久性と保温性を確認しなければならん。今の製造設備で簡単にできるとは言えない」
「では、まず容器の外側に目盛りを付ける方法は?」
「外側に印を付けるだけなら試作できる。ただし、実際の残量と目盛りが一致するか確認は必要だ」
「それでいきましょう。最初から大掛かりな改造をする必要はありません」
アルトは記録に線を引いた。
「最後の洗浄については、口の部分を広げられるか検討してください。ただし、広げたことで保温性能が落ちたり、蓋が緩くなったりしないかも調べる」
「三つ全部を同時に変えるのか?」
ガレスが尋ねた。
「いえ。まずは改良できる範囲と費用を確認します。試作品を作るのは、その後です」
「ずいぶん慎重だな」
「新商品を作るのは、材料費だけの問題ではありません。製造工程が変われば、作業時間も変わる。品質確認も必要です。売れるか分からない段階で、全部を一度に変えるのは危険です」
ミーナが書類を見ながら言った。
「つまり、まずは改善の効果と費用を見積もるんですね」
「そうだ。それに、もう一つ大事なことがある」
「まだあるんですか?」
「ある。ロベルトさん一人の要望だけで、すべてのお客様が同じことを望んでいると決めつけないことだ」
アルトは、現在の購入者の記録を持ってくるよう指示した。
すると、ミーナが帳簿を開いて報告した。
「購入者のうち、行商人や長距離移動をする商人がかなり多いです。購入後の問い合わせにも、持ち運びや手入れに関する質問があります」
「それなら、同じ不便さを感じている人がほかにもいる可能性はある。ただし、問い合わせ件数だけで全員の要望を判断するのは早い」
「どう確認しましょう?」
「何人かのお客様に、実際の使用状況を聞こう。特に、蓋の開閉、残量確認、洗浄の三点だ。どの問題が頻繁に起きているか、どれなら価格が上がっても欲しいと思うかを調べる」
ガレスは腕を組んだ。
「そこまで調べるなら、改良品ができるのは少し先になるぞ」
「構いません。急いで作って売れなければ、もっと時間も費用も無駄になります」
アルトは商品を手に取った。
この容器は、決して悪い商品ではない。保温性能は十分で、価格も手頃だ。
だが、商品を使う人の一日を想像すると、まだ改善できる余地があった。
そして、その余地は一人のお客様の声から見つかった。
*
数日後、追加の聞き取り結果が集まった。
長距離を移動する商人の多くが、残量を確認できないことを不便に感じていた。蓋については、片手で開けたいという意見がある一方、移動中に中身が漏れないことを優先する声も多い。
洗浄については、口を大きくするより、簡単に外して洗える部品が欲しいという意見が出た。
「課長、最初の三つの要望を、そのまま形にしなくて正解でしたね」
ミーナが調査結果を並べた。
「そうだな。お客様の言葉は、改善を考える出発点だ。必ずしも、そのまま設計図になるわけじゃない」
「でも、要望を出してくださったロベルトさんには、どう説明するんですか? 希望どおりに全部変えるわけではありませんよね」
「調査で分かったことを正直に伝えよう。まずは残量の目盛りを付けた試作品を作る。蓋は安全性を確保できる開閉方法を検討し、洗浄部品は取り外しやすさを試す。それぞれの費用と効果を比べてから、次の段階に進む」
「完成品をいきなり売り出すのではなく、試作品を使ってもらうんですね」
「そのとおり。実際に使ってもらい、使いにくいところがないか確かめる。そこで問題が出たら、発売前に直す」
アルトは調査結果をまとめた報告書に、最後の一文を書き加えた。
お客様の要望を聞くことと、お客様が本当に必要としているものを見つけることは、同じではない。
商品を売るだけなら、今ある商品の長所を説明すればいい。
しかし、お客様の声を聞き、使い方を理解し、改善の効果と費用を検証すれば、今までになかった商品を生み出せる可能性がある。
それは、新しい市場を開くきっかけにもなる。
「よし。まずは試作品の計画を作ろう」
アルトが立ち上がると、ガレスが真剣な顔で尋ねた。
「ところで課長。試作品が完成したら、最初に誰が使うんだ?」
「もちろん、実際に使うお客様だ」
「その前に、社内でも試すんだろう?」
「そうだな。蓋の開閉も、残量確認も、洗浄も確認しなければならない」
ミーナが、嫌な予感のする顔で一歩下がった。
「まさか……」
アルトは笑顔で彼女を見た。
「ミーナ。明日から三日間、試作品を持って営業に出てみよう。移動中の使い勝手を確かめたい」
「私ですか!?」
「営業担当者なら、お客様が使う場面を理解するのも大事な仕事だ」
「それは分かります。でも、どうして課長は行かないんですか?」
「私は課長だから、現場の確認結果をまとめる仕事がある」
「便利な言葉ですね、課長って!」
「役職には責任と特権がある」
「今のは絶対に特権のほうです!」
工房にミーナの抗議が響き、ガレスが笑った。
アルトは苦笑しながらも、試作品の計画書を机に置いた。
お客様の声から生まれた小さな改善が、やがて定番商品を大きく変えるかもしれない。
ただし、そのためには一つずつ確かめる必要がある。
営業は、売って終わりではない。
売った後に聞き、聞いたことを調べ、調べた結果を商品に反映する。そして、改善した商品が本当に役立ったかを、もう一度お客様に尋ねる。
その繰り返しが、信頼と新しい商機を育てていくのだった。
営業メモ ②①③
お客様の改善要望は、新商品や新サービスを生み出す重要な手がかりになる。ただし、要望をそのまま製品仕様にするのではなく、実際の使用場面を確認し、根本的な不便さを特定することが重要である。
今回のポイントは三つ。
一、要望が発生する状況を具体的に聞く。「使いにくい」という言葉だけで終わらせず、いつ、どこで、何をしているときに困るのかを確認する。
二、複数のお客様の声を集め、共通する問題を探す。一人の意見を全体の需要と決めつけず、購入記録や問い合わせ内容も参考にする。
三、改善効果と費用を比較し、試作品で検証する。性能を高めるだけでなく、安全性、製造コスト、販売価格まで考慮する。
お客様の声を聞くことは、苦情対応だけではない。次の売上につながる商品を考えるための営業活動でもある。
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次回予告
第二百十五話 営業課長、試作品の失敗から売れる条件を探る
試作品を携えて営業に出たミーナだったが、思わぬ問題が次々と発生する。
目盛りは見づらく、蓋は開けやすくしたはずなのに、今度は別の不満が出てきた。
アルトは失敗を責めるのではなく、試作品を使ったお客様の反応から、改良すべき優先順位を見つけ出す。
売れる商品に必要なのは、完璧な設計なのか。それとも、改善を繰り返す仕組みなのか。
営業課長の現場検証が始まる。




