第二百五話 営業課長、久しぶりの商談に戻る
朝。
営業部の扉を開けたアルトは、久しぶりに聞く声に足を止めた。
「アルト課長!」
「……はい?」
振り向く。
そこには、営業部の若手たちが並んでいた。
「お帰りなさい!」
「課長、お疲れさまでした!」
「大変だったそうですね!」
「いやぁ、記録管理のほうで大活躍だったとか!」
アルトは苦笑した。
「……誰から聞いた?」
「フェルナンさんから」
「おい」
後ろから入ってきたフェルナンが、気まずそうに視線を逸らした。
「いや、その……聞かれたので」
「余計なことまで話してないだろうな?」
「話してませんよ」
「本当か?」
「黒帳のことは、かなり省略しました」
「省略してそれなのか……」
アルトは頭を抱えた。
久しぶりの営業部。
机。
帳簿。
商談予定表。
見慣れた光景が戻ってきた。
そして――。
「課長」
若手の一人が手を挙げる。
「何だ?」
「今日、商談があります」
「ほう」
「大口です」
「なるほど」
「ただ……」
若手の顔が曇った。
「かなり厳しいです」
アルトは笑った。
「いいじゃないか」
「え?」
「営業なんだから」
フェルナンが横で小さく頷いた。
「課長、久しぶりに生き生きしてますね」
「記録を追うより、客と話すほうが楽しいからな」
「それ、記録管理課の人たちには絶対言わないでくださいね」
「分かってる」
アルトは商談予定表を受け取った。
相手は、町の中堅商会。
取り扱っているのは、生活用品と加工品。
今回の相談内容は、商品の取引量を増やしたいというものだった。
だが――。
「この条件じゃ、うちが不利ですね」
アルトは資料を見てすぐに言った。
若手が頷く。
「はい」
「価格を下げろと言われているのか?」
「正確には……」
若手は言いにくそうに答えた。
「今より安くしてくれれば、取引量を三倍にする、と」
「三倍?」
「はい」
アルトは資料をもう一度見た。
「それは、かなり大きいな」
「だから受けたいんです」
「でも、価格を下げる必要がある」
「はい」
「どのくらい?」
「二割です」
アルトの眉が動いた。
「二割?」
「はい」
「三倍売れるから二割下げろ、と」
「そうです」
「……ずいぶん強気だな」
若手は苦笑した。
「先方は、こちらが売上を増やしたいと思っていることを知っていますから」
「なるほど」
アルトは資料を机に置いた。
「じゃあ、質問だ」
「はい」
「三倍売れるとして、利益はどうなる?」
「……減ります」
「どれくらい?」
「計算してません」
「…………」
アルトは無言になった。
「課長?」
「いや」
アルトは笑った。
「久しぶりの営業で、いきなり頭が痛くなっただけだ」
「す、すみません!」
「謝る必要はない」
アルトは立ち上がった。
「計算しよう」
若手が慌てて紙を広げる。
「現在の販売単価」
「これです」
「原価」
「これです」
「一件あたりの営業コスト」
「……そこまで計算するんですか?」
「する」
「今まで、そこまで見てませんでした」
「だから今見るんだ」
アルトは数字を書き込んでいく。
現在の取引量。
現在の利益。
値引き後の利益。
そして三倍になった場合の総利益。
数字を並べ終えたところで、アルトはペンを置いた。
「ほら」
若手が覗き込む。
「……あれ?」
「気づいたか?」
「三倍売っても、利益はほとんど増えません」
「そう」
「むしろ、営業コストを考えると……」
「今より悪くなる可能性がある」
若手は絶句した。
「じゃあ、断るんですか?」
「まだ早い」
「え?」
アルトは笑った。
「客が欲しいのは、安い商品じゃない」
「……違うんですか?」
「本当に安さだけが目的なら、三倍買うという話にはならない」
アルトは資料を指差した。
「相手が三倍必要としている理由を聞いていないだろ?」
「……はい」
「そこを聞く」
商談の時間になった。
アルトたちは商会へ向かった。
商会の応接室。
向かいに座ったのは、商会の責任者だった。
「アルト課長。今日はありがとうございます」
「こちらこそ」
「さっそくですが、条件について」
責任者は一枚の紙を差し出した。
「現在より二割ほど価格を下げていただければ、取引量を三倍にしたいと考えています」
「なるほど」
アルトは紙を見る。
「理由をお聞きしても?」
「需要が増えましてね」
「何の需要でしょう?」
「生活用品全般です」
「具体的には?」
「……」
相手が少し黙った。
アルトは急かさなかった。
「何か事情がおありですか?」
「実は……」
責任者が口を開いた。
「近隣の村から、大量の注文が入るようになったんです」
「村から?」
「はい」
「どのくらいです?」
「今までの三倍ほどです」
「なるほど」
アルトは頷いた。
「では、二割の値下げが必要なのはなぜでしょう?」
「量が増えるからです」
「それだけですか?」
「……」
責任者は答えない。
アルトは少し考えた。
「納期ですか?」
「え?」
「大量注文に対応するため、納期を短くしたい」
「……その通りです」
「そのための追加費用を、こちらに負担してほしい」
「はい」
アルトは笑った。
「なるほど」
若手が隣で小さく身を乗り出した。
アルトは続けた。
「では、価格を二割下げる代わりに、納期を今より長くする案はいかがでしょう?」
「それでは困ります」
「ですよね」
責任者が困った顔をする。
「……やはり難しいですか」
「いいえ」
アルトは首を横に振った。
「むしろ、条件が見えてきました」
「条件?」
「お客様が欲しいのは、安い商品ではありません」
アルトは紙を裏返した。
「必要な数量を、必要な時期までに確実に揃えることです」
「……」
「なら、価格だけを下げる必要はない」
「ですが、三倍の数量を用意するとなると……」
「そこを仕組みに変えましょう」
アルトはペンを取った。
「三回に分けて納品します」
「三回?」
「一度に三倍を納める必要はありません」
アルトは簡単な表を書いた。
「一回目は通常量」
「はい」
「二回目は追加分」
「はい」
「三回目は予備分」
「予備?」
「需要が増えたからといって、毎回三倍必要とは限りません」
責任者が表を見る。
「つまり……」
「必要量を三段階に分ける」
「それなら在庫負担が減ります」
「こちらも生産計画を立てやすくなる」
「……なるほど」
責任者の顔が変わった。
最初は値引き交渉をする客の顔だった。
今は、仕組みを考える商人の顔になっている。
「では、価格は?」
「二割値下げはしません」
アルトはきっぱり言った。
「その代わり、三段階納品と、一定数量を超えた場合の小さな割引を組み合わせます」
「一定数量を超えた場合だけ?」
「はい」
「なぜです?」
「三倍売れたら値下げする、ではありません」
アルトは笑った。
「三倍売れる仕組みが成立したら、その分だけお互いに利益を分けるんです」
責任者はしばらく黙っていた。
そして――。
「アルト課長」
「はい」
「あなたは、うちに商品を売りたいんですよね?」
「もちろんです」
「でも、うちが無理をする条件は出さない」
「長く取引したいですから」
責任者が笑った。
「……それなら、話を進めましょう」
商談は成立した。
ただし、最初の条件とは全く違う形で。
帰り道。
若手がアルトの横を歩いていた。
「課長」
「何だ?」
「すごいですね」
「何が?」
「値引き交渉をひっくり返してしまいました」
「ひっくり返してない」
「え?」
「相手が本当に欲しいものを聞いただけだ」
「それだけですか?」
「それだけだ」
若手は首を傾げる。
「でも、最初に価格を二割下げろと言われたら、普通は価格交渉をしますよね」
「だから普通の交渉になったんだ」
「……なるほど」
「営業は、相手が口にした条件だけを聞く仕事じゃない」
アルトは前を向いた。
「その条件の奥にある理由を聞く仕事だ」
「理由……」
「『安くしてほしい』と言われたら、なぜ安くしてほしいのか」
「『早く納品してほしい』と言われたら、なぜ急いでいるのか」
「『もっと売ってほしい』と言われたら、なぜ必要なのか」
アルトは笑った。
「そこを聞けば、交渉じゃなくて問題解決になる」
若手は黙って頷いた。
その後ろからフェルナンが追いついてきた。
「課長!」
「どうした?」
「黒帳の後に、いきなり三倍取引ですか?」
「そうだな」
「頭の切り替えが早すぎません?」
「営業課長だからな」
「さっきまで記録管理の専門家みたいな顔をしてましたよ」
「俺は最初から営業課長だ」
「……そうでしたね」
フェルナンが苦笑する。
アルトは営業部の建物を振り返った。
久しぶりに戻ってきた。
やはり、ここが自分の場所だ。
記録を追うのも必要だった。
仕組みを直すのも必要だった。
だが――。
目の前の相手が何を求めているのかを聞き、その問題を一緒に解決する。
それこそが、アルトが最も得意とする仕事だった。
「さて」
アルトは歩き出す。
「次の商談は?」
「え?」
「予定表を見せろ」
「もう次ですか?」
「当然だろ」
「課長、黒帳編が終わったばかりですよ?」
「だから何だ?」
アルトは振り返った。
「営業には、次がある」
フェルナンは笑った。
「……営業課長、復活ですね」
「最初から引退してない」
営業部に、久しぶりの笑い声が響いた。
営業メモ ②⓪④
営業で「値引きしてほしい」と言われたとき、すぐに価格交渉へ入ってはいけません。
まず確認するべきなのは、
「なぜ、その価格でなければならないのか」
です。
今回の商談では、相手が求めていたのは本当は「安さ」ではありませんでした。
大量注文に対応するための、安定した供給と納期でした。
ここを見抜けば、
「値引きする・しない」
という二択から、
「納品方法を変える」
「発注を分割する」
「一定数量を超えた場合だけ割引する」
という第三の選択肢を作れます。
営業では、相手の要求をそのまま受けるのではなく、
「その要求が出てきた理由は何か?」
を一段深く聞く。
それが、価格競争から抜け出すための基本的な営業スキルです。
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次回予告
第二百六話 営業課長、売れない商品の相談を受ける
黒帳の騒動を終え、通常業務へ戻ったアルト。
次に持ち込まれたのは、営業部が半年間売ろうとしても、まったく売れない商品だった。
「品質は悪くありません」
「価格も、そこまで高くありません」
「なのに、売れないんです」
アルトが商品を手に取った瞬間、ある違和感に気づく。
「……これ、誰に売るつもりだったんだ?」
久しぶりの営業改革。
今度の相手は、商品ではなく――売り方だった。




