第二話 赤ちゃんは思った以上にブラックです
アルト様、お目覚めですよ。」
優しい声が聞こえる。
ふかふかのベッド。
柔らかい毛布。
窓から差し込む朝日。
(……いい朝だ。)
前世では考えられない。
目覚まし時計に叩き起こされることもない。
営業部から電話が鳴ることもない。
メールの未読が百件なんてこともない。
(異世界最高じゃないか。)
そう思った、その五秒後だった。
ぐぅぅぅぅ……
(腹が減った。)
突然やってくる猛烈な空腹。
しかも我慢できない。
「おぎゃああああ!」
(違う違う違う!)
(泣きたいわけじゃない!)
(腹が減ったって伝えたいだけなんだ!)
しかし、赤ちゃんの身体は容赦がない。
空腹ゲージがゼロになると、自動的に泣くらしい。
(この仕様、改善した方がいいぞ……。)
◇ ◇ ◇
「まあまあ、お腹が空いたのね。」
母――セシリアが優しく抱き上げる。
(いや、そうなんだけど。)
(もう少し言い方があるだろ。)
『お客様、お食事をご用意いたします。』
とか。
『少々お待ちください。』
とか。
営業マンとしては、そのくらい丁寧な接客を期待したい。
もちろん口から出るのは、
「あぅ。」
だけだった。
(くっ……会話が成立しない。)
◇ ◇ ◇
食事を終え、満腹になる。
(眠い。)
目が閉じる。
(いやいや、寝たらもったいない。)
異世界の情報を集めなければ。
家の構造。
家族。
世界情勢。
営業は情報が命だ。
(まずは情報収しゅ……。)
すぅ。
(……。)
(寝るんかい、俺。)
抗う間もなく、意識は闇へ落ちた。
◇ ◇ ◇
目が覚めた。
(さて。)
お腹いっぱい。
眠気なし。
今度こそ情報収集だ。
その時だった。
「アルト〜!」
父――レオンが部屋へ飛び込んできた。
騎士らしい立派な体格。
しかし表情は完全に親バカである。
「今日も可愛いな!」
(いや、42歳です。)
「よーし!」
嫌な予感がした。
「高い高ーい!」
ふわっ。
視界が一気に天井へ近付く。
(ぎゃあああああ!!)
(やめろやめろやめろ!!)
(高いところ苦手なんだって!!)
落ちる。
また上がる。
もう一度落ちる。
「きゃっきゃっ♪」
(違う!)
(それ笑ってるんじゃない!)
(恐怖で声が裏返ってるだけだ!!)
レオンは満面の笑みだった。
「見ろ、セシリア!
アルトが喜んでるぞ!」
「あなた、ほどほどにしてくださいね。」
「大丈夫だ!」
(大丈夫じゃない。)
(命綱をください。)
◇ ◇ ◇
その後。
アルトは人生最大の屈辱を味わう。
「では、おむつを替えましょうね。」
(……来た。)
エマが慣れた手つきで作業を始める。
(待て。)
(せめて一言確認してくれ。)
(プライバシーって知ってる?)
「今日も元気ですね〜。」
(違う。)
「よく食べましたね〜。」
(だから違う。)
「可愛い〜♡」
(営業先なら完全にアウトです。)
アルトは心の中でため息をついた。
四十二年間守ってきた尊厳は、転生してわずか数日で粉々になっていた。
◇ ◇ ◇
午後。
レオンは仕事へ向かう時間になった。
鎧を身につけ、剣を腰に差す。
一瞬で表情が変わる。
さっきまでの親バカな笑顔は消え、王国騎士としての鋭い顔になる。
「行ってきます。」
「お気をつけて。」
セシリアが微笑む。
レオンは扉を開きかけて――
戻ってきた。
アルトの頭を優しく撫でる。
「今日も元気でな。」
それだけ言って出かけていった。
(……。)
前世では、そんな余裕はなかった。
朝は慌ただしく家を出る。
帰る頃には家族は寝ている。
「行ってきます。」
「ただいま。」
その一言さえ、ちゃんと言えない日があった。
レオンの背中を見送りながら、アルトは小さく思う。
(この人、いい父親だな。)
今度の人生では、自分もこんな父親になりたい。
そう思えた。
◇ ◇ ◇
その夜。
アルトは重大な事実に気付く。
(赤ちゃんって……。)
食べる。
寝る。
泣く。
食べる。
寝る。
泣く。
その繰り返しで、一日が終わる。
(ブラック企業より拘束時間長くないか?)
休憩時間はある。
だが自由時間がない。
情報収集もできない。
読書もできない。
会議もない。
……いや、会議がないのは嬉しい。
「アルト、おやすみ。」
セシリアが優しく毛布をかけてくれる。
レオンも帰宅し、寝顔を見て嬉しそうに笑った。
「今日も可愛かったな。」
「ええ。」
二人の幸せそうな表情を見ていると、不思議と悪い気はしなかった。
(まあ……。)
(この会社なら、残業してもいいか。)
そんなことを考えながら、アルトは静かに目を閉じる。
――営業メモ①――
『家族への「おはよう」と「行ってきます」は、思っている以上に大切。』
前世では、それを後回しにしてしまった。
だから今度は忘れない。
たとえ、まだ「おぎゃあ」しか言えなくても。
その小さな決意を胸に、アルトは穏やかな眠りへと落ちていった。
次回、「観察開始。営業課長、まずは情報収集です。」




