第一話 42歳のおっさん、赤ちゃんになる
「山本課長! お疲れさまでした!」
「おう、お疲れ。」
午後九時四十分。
会社を出ると、夜風が少しだけ気持ちよかった。
営業部課長、山本浩二。
四十二歳。
肩書だけ聞けば立派だが、中身はどこにでもいるおっさんである。
「今日の会議も長かったなぁ……。」
ネクタイを緩めながら駅へ向かう。
スマートフォンを見る。
営業一課のグループチャット。
未読四十七件。
(……明日の俺に任せよう。)
そっと閉じた。
課長にも逃げる日はある。
ふと画面が切り替わる。
待ち受けは十七歳になる娘との写真。
何年前に撮ったものだったか。
最近はほとんど口をきいていない。
高校受験も。
文化祭も。
誕生日も。
仕事を理由に、ほとんど顔を出せなかった。
「今度時間ができたら飯でも……。」
そう呟いた瞬間。
ドンッ!
視界が回る。
ブレーキ音。
悲鳴。
身体が宙に浮いた。
(あー……。)
妙に冷静だった。
(これ、死ぬやつだ。)
最後に浮かんだのは、商談でも会社でもない。
娘の笑顔だった。
(悪い父親だったな……。)
世界が白く染まる。
そして——。
◇◇◇
「おぎゃあ!」
(……誰だ、うるさい。)
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
(だから誰だって。)
……
……
(俺かーーーーーー!!)
アルトは人生最大のツッコミを心の中で叫んだ。
(ちょっと待て!)
(泣いてるの俺!?)
(しかも声ちっちゃ!)
目を開ける。
ぼやけている。
何も見えない。
身体が小さい。
手を動かす。
ぷにぷに。
(……短っ。)
指が短い。
腕も短い。
足なんてもっと短い。
「元気な男の子ですよ!」
女性の声が聞こえた。
「奥様、おめでとうございます!」
(男の子?)
誰が?
俺が?
「アルト……。」
優しい声が耳に届く。
涙を流す女性。
金色の髪。
笑顔。
(……母親?)
その隣には大きな男。
がっしりした体格。
鎧姿。
目を真っ赤にしている。
「ありがとう……。」
「生まれてきてくれてありがとう。」
(いやいやいや。)
(俺、四十二歳なんだけど。)
もちろん口から出るのは
「あー。」
だけだった。
◇◇◇
数時間後。
アルトは現実を受け入れ始めていた。
(整理しよう。)
営業は状況整理が大事だ。
まず事実。
一。
俺は死んだ。
二。
赤ちゃんになった。
三。
異世界っぽい。
以上。
(情報が少なすぎる。)
営業会議なら怒られるレベルだ。
その時。
母親が抱き上げる。
「アルト、お腹空いたの?」
(いや、別に……。)
ぐぅぅぅ。
(空いてたわ。)
お腹は正直だった。
母親が笑う。
「ふふっ。」
(……可愛い人だな。)
一瞬そう思い、
(待て待て待て。)
(四十二歳のおっさんが母親見て何考えてる。)
セルフツッコミ。
忙しい。
赤ちゃんになっても忙しい。
◇◇◇
数日後。
アルトは重大な事実に気付く。
(赤ちゃんって……。)
(暇だ。)
仕事がない。
会議がない。
電話も鳴らない。
メールも来ない。
営業報告もない。
(天国か。)
しかし、その五分後。
おむつ交換。
(やっぱ地獄だった。)
しかも抵抗できない。
四十二歳のおっさんとしての尊厳が、毎日少しずつ失われていく。
「アルト~。」
頬をぷにぷに。
(やめてください、お客様。)
(営業先なら完全にセクハラです。)
メイドは大笑い。
母も笑う。
父まで笑う。
アルトだけ笑えない。
いや、笑っていた。
「あう♪」
(違う違う!)
(今の俺は抗議してるんだ!)
その愛らしい笑顔を見て、家族はさらに笑った。
屋敷には温かな笑い声が響く。
アルトは諦めたように、小さく息を吐く。
(まあ、いいか。)
前世では、家族とこんなふうに笑い合う時間はほとんどなかった。
だから今度は。
仕事よりも。
出世よりも。
ちゃんと家族を大切にしよう。
そう心に決めた、その瞬間だった。
父がアルトを高々と抱き上げる。
「はっはっは! 高い高ーい!」
視界が一気に天井へ近づく。
(やめろぉぉぉぉぉ!!)
(俺、高い所苦手なんだーー!!)
口から出たのは、
「きゃはは♪」
――こうして、四十二歳のおっさんの二度目の人生は、本人の意思とはまったく関係なく、最高の笑顔から始まった。




