第百九十三話 営業課長、継承権限の行き先を追う
『継承者確認済』
その文字が消えたあとも、アルトはしばらく画面を見つめていた。
「……確認済、か」
フェルナンが隣で唾を飲み込む。
「ということは、向こうは本当に誰かを特定しているんでしょうか?」
「たぶんな」
「誰を?」
「俺たちが今、調べようとしている人間だ」
「……」
文書管理課の空気が重くなる。
先ほどまで周囲にいた職員たちも、今では誰も口を開かない。
アルトは中央端末から少し離れた。
「まず、画面に出た情報を復元する」
「復元できますか?」
「消されたなら無理かもしれない。でも――」
アルトは端末の脇にある記録装置を指差した。
「画面が消える前に、アクセス履歴は残っているはずだ」
フェルナンが頷く。
「確認します」
数分後。
フェルナンが一枚の記録紙を持って戻ってきた。
「ありました」
「何が?」
「継承権限の照会履歴です」
アルトが紙を受け取る。
そこには、時刻と処理番号が並んでいた。
十時十二分。
『HB―13 継承権限照会』
十時十三分。
『継承先照合』
十時十四分。
『現行職員台帳との照合』
そして、その次。
アルトの指が止まった。
『該当者なし』
「……該当者なし?」
「はい」
「職員名簿にいない?」
「そういうことです」
アルトは記録をもう一度見た。
「なら、考えられるのは二つだ」
アルトは指を二本立てた。
「一つ。実在しない人物を登録している」
「もう一つは?」
「職員台帳から消された人間」
フェルナンの表情が変わった。
「……ラウル?」
アルトは首を横に振る。
「まだ決めつけない」
ラウルが記録上から消されたのは三年前。
だが、HB―13の継承履歴がどう繋がっているのかは、まだ分からない。
それに――
ラウルはHB―13を使う側だった可能性もある。
「まず、継承の履歴を十年前まで遡る」
「はい」
二人は権限管理の旧記録を探し始めた。
最初に見つかったのは、七年前の記録だった。
『例外管理制度運用責任者』
ハロルド・ベイン。
その下に、
『制度運用監査補佐』
と記載されている。
さらにその横。
『権限継承処理済』
アルトは眉を寄せた。
「やっぱりだ」
「何がです?」
「七年前に、HB―13の継承処理が行われている」
「継承先は?」
「そこが問題だ」
欄には名前がない。
代わりに役職だけが記載されている。
『制度運用監査補佐』
「人じゃなくて役職に渡してる……」
「そうだ」
アルトは記録をめくる。
三年前。
『制度運用監査担当』
さらに権限継承。
そして現在。
『記録管理統括』
また継承。
しかし。
三年前から現在までの記録には、一つだけ妙な点があった。
「フェルナン」
「はい」
「三年前の継承処理を見てくれ」
「……あ」
フェルナンが声を漏らした。
「承認者がいません」
「そう」
十年前。
承認者はセドリック・ヴァーン。
七年前。
承認者もセドリック。
三年前。
承認欄は空白。
現在。
承認欄には――
『自動継承』
と書かれている。
「自動……?」
「三年前から、この権限は人間の承認を必要としなくなった」
アルトは腕を組んだ。
これは大きな変更だ。
十年前はハロルドが制度運用責任者として確認する。
七年前は後任の役職へ引き継ぐ。
しかし三年前。
承認者そのものが消えている。
「つまり」
フェルナンが言った。
「誰かが三年前に、承認の仕組みそのものを変えた?」
「その可能性がある」
「でも、誰が?」
「そこを調べる」
アルトは三年前の変更記録を探した。
すると、変更理由が一行だけ残っていた。
『制度運用上の継続性確保のため、自動継承方式へ移行』
「……継続性確保」
アルトはその文言を読み返す。
「ずいぶん便利な言葉だな」
「どういう意味です?」
「担当者がいなくなっても、権限だけは止まらないってことだ」
フェルナンが黙る。
アルトは続けた。
「普通なら、担当者がいなくなったら権限も一度止める」
「安全確認のために?」
「そうだ」
だが、この制度は逆だった。
担当者が変わっても。
部署が変わっても。
承認者がいなくなっても。
権限だけは継続する。
「これなら……」
フェルナンが低く呟く。
「誰が使っているのか分からなくても、制度だけは動かせます」
「そういうことだ」
アルトは記録を机に置いた。
「ハロルドが作った制度を、誰かが別の目的に使えるように変えた可能性がある」
「黒帳……」
「まだ名前は出すな」
アルトは即座に止めた。
「証拠がない」
黒帳がこの制度を利用している。
そう考えるのは自然だった。
だが、自然な推測と証拠は違う。
アルトはそこを混同しなかった。
「問題は三年前だ」
「ラウルが消えた時期……」
「そう」
二人は顔を見合わせた。
ラウルの記録が消えた。
RK―37が移された。
A―17が台帳から削除された。
そして、HB―13の承認方式が変更された。
すべて三年前。
「偶然とは思えません」
フェルナンが言う。
「俺もそう思う」
アルトは答えた。
「でも、まだ一本の線にはできない」
そこで。
奥の棚から一冊の薄いファイルが落ちた。
バサッ。
二人が振り返る。
「……風?」
フェルナンが呟く。
窓は閉まっている。
アルトはゆっくり棚へ近づいた。
落ちたファイルの表紙には、こう書かれていた。
『制度運用変更記録』
「これは……」
フェルナンが拾い上げる。
中には三年前の変更申請書が入っていた。
申請者。
承認者。
変更理由。
必要な欄はすべて埋まっている。
だが。
申請者の名前を見た瞬間、アルトの目が止まった。
「……誰だ?」
フェルナンも覗き込む。
そこには。
『ハロルド・ベイン』
と書かれていた。
「ハロルド……?」
「三年前に?」
フェルナンが混乱する。
「でも、ハロルドは十年前に特別業務へ移行したはずです」
「そうだ」
「それなら、三年前に申請できるはずが……」
アルトは申請書を裏返した。
裏面に小さな記載がある。
『旧権限による代理申請』
「代理……?」
その下。
『本人確認不要』
フェルナンの顔が固まった。
「そんな制度、ありましたか?」
「少なくとも、俺が今まで見た記録には出ていない」
アルトは申請書をじっと見た。
ここで重要なのは、ハロルドが三年前まで生きていたかどうかではない。
「この申請書を書いたのがハロルドだとは限らない」
「……ですよね」
「名前だけを使える仕組みがあった」
そして。
それこそが、HB―13の本質だった。
人間ではなく。
権限。
名前ではなく。
役職。
本人ではなく。
継承。
アルトの中で、いくつかの点がつながり始める。
「フェルナン」
「はい」
「ハロルドの人事記録を持ってきてくれ」
「何を確認するんです?」
「特別業務へ移行した日」
フェルナンが記録を探す。
すぐに該当箇所が見つかった。
十年前。
ハロルド・ベイン。
『特別業務へ移行』
そして、その日付。
アルトは三年前の申請書の日付と見比べた。
「……同じだ」
「何が?」
「日付じゃない」
アルトは申請書の隅を指差した。
「この申請書に使われている権限番号」
そこには。
『HB―13』
とある。
「ハロルドが十年前に離れたあとも、この番号は残った」
「はい」
「そして三年前、誰かがハロルドの名前を使って制度変更を申請した」
フェルナンが息を呑む。
「じゃあ、その誰かは……」
「分からない」
アルトは首を横に振った。
「だが、少なくとも三年前には、ハロルドの名前とHB―13を使える人間がいた」
「……」
「そして、その変更によって承認が自動継承になった」
ここまで来ると、偶然とは考えにくい。
三年前。
ラウルが追っていた経路。
RK―37。
A―17。
HB―13。
そして、承認経路の変更。
すべてが一本の線でつながり始めている。
そのとき。
ファイルの最後のページに、一枚の小さな紙が挟まっていることに気づいた。
アルトが取り出す。
手書きだった。
たった一行。
『継承先は、役職ではない』
アルトの目が細くなる。
その下には、さらに一行。
『役職の中にある、空席へ移る』
「……空席?」
フェルナンが聞き返した。
アルトはしばらく黙っていた。
やがて、低い声で答える。
「担当者がいない役職に、権限だけが残されている」
「そんなことが……」
「できるように、三年前に変えたんだろう」
アルトは紙を裏返した。
裏には何もない。
「人間がいなくても、権限だけは動く」
それなら。
ハロルドが十年前に消えたことも。
その後、何度も役職名が変わったことも。
すべて説明できる。
人間を消す。
名前を消す。
担当者を変える。
それでも、権限だけは残す。
「フェルナン」
「はい」
「現在の組織図を持ってきてくれ」
「分かりました」
数分後。
現在の文書管理課を含む組織図が机に広げられた。
アルトは指で役職を一つずつ追っていく。
記録管理統括。
制度運用監査担当。
原本保管担当。
例外案件照合担当。
そして――
一つだけ。
役職名があるのに、担当者欄が空白になっている部署があった。
『例外管理制度運用責任者』
十年前にハロルドがいた役職。
現在も、役職そのものは存在している。
だが。
担当者欄には誰の名前もない。
「……これだ」
アルトが呟いた。
「ここにHB―13が残ってる」
フェルナンが組織図を覗き込む。
「でも、空席ですよ?」
「だからだ」
アルトは顔を上げた。
「誰もいないから、誰が使ったか分からない」
その瞬間。
文書管理課の警告灯が、再び点灯した。
一つ。
二つ。
そして三つ。
中央端末に新しい通知が表示される。
『例外管理制度運用責任者』
『権限使用』
『現在使用中』
フェルナンが息を呑む。
「……今?」
アルトは画面を見た。
現在時刻。
権限使用者。
空欄。
だが、その下に一行だけ表示されている。
『使用場所――旧受付保管庫』
アルトの表情が変わった。
三日前。
誰かが地下二層へ入った。
そして今。
同じ権限が、再び使われている。
「フェルナン」
「はい!」
「地下へ戻るぞ」
「でも、相手が待っているかもしれません!」
「だから行く」
アルトは組織図を畳んだ。
「今度は、こっちから会いに行く」
旧受付保管庫。
十年前の原本。
三日前に消えた記録。
そして現在使用中のHB―13。
点だったものが。
ようやく線になった。
その線の先に――
誰かがいる。
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営業メモ ①⑨②
権限を追うときは「誰が持っているか」だけを見ると、本質を見失う。
担当者が変わっても残る権限。
役職がなくなっても残る権限。
そして、空席に残された権限。
組織では、人間より長く生き残る仕組みがある。
だからこそ、
「誰がやった?」
だけではなく、
「誰がいなくなっても、それができる状態になっていないか?」
を見る。
人間を追って行き止まりになったら、権限の流れを追う。
権限の流れを追えば、仕組みを作った人間と、それを利用した人間を分けて考えられる。
営業でも同じだ。
担当者が変わっても受注処理が続くなら、動かしているのは担当者ではない。
「仕組み」だ。
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次回予告
第百九十四話 営業課長、旧受付保管庫で待っていた者
現在使用中のHB―13。
その使用場所は、三日前に原本が消えた旧受付保管庫だった。
アルトとフェルナンは、急いで地下へ向かう。
だが、そこで待っていたのは人間ではなかった。
十年前の記録。
三年前の変更申請。
そして、現在へ続く一つの権限。
その奥でアルトが見つけたのは――
ハロルド・ベインの名前ではなかった。
そこに残されていたのは、ラウルが最後に見た「もう一つの原本」だった。




