第百八十九話 営業課長、地下保管庫に残された二枚目の記録
アルトは、机の上に並べられた三枚の紙をじっと見つめていた。
十年前のS・03。
七年前に文書管理課へ移されたA―17。
三年前、ラウルが最後の日に照合したRK・37。
一見すると、それぞれ別の案件だ。
だが、記録を追っていくと、同じ場所を何度も通っている。
承認経路。
受付番号。
原本管理。
そして――消された記録。
「……やっぱり、ここで一度、切れてる」
アルトは指先で、十年前のS・03の記録を叩いた。
そこには、受付記録の末尾に小さく書かれていた。
『原本は受付保管庫へ』
そして、その下にもう一つ。
『旧受付保管庫』
普通なら、これで終わりだ。
原本が保管庫へ移された。
それだけの話である。
だが問題は、その原本を受け取った記録が、現在の文書管理システムに存在していないことだった。
「原本を受け取った人間が記録されていない」
エマなら、ここで眉をひそめるところだ。
アルトは苦笑した。
「営業なら、商品を渡したのに受領書だけ消えてる状態だな」
隣にいたフェルナンが首を傾げる。
「……それは、かなり怪しくないか?」
「怪しいというより、危険だ」
アルトは紙を揃えた。
「受け渡しの記録がないということは、誰が持っていったか分からない。誰が保管したかも分からない。そして、最後に誰が触ったかも追えない」
「つまり?」
「責任の所在が消える」
フェルナンの表情が変わった。
アルトは立ち上がる。
「だから、地下へ行く」
目的地は、旧受付保管庫。
現在の文書管理課が使用している地下保管庫とは別に、十年前まで受付部門が使用していた古い保管区画だった。
七年前の文書管理課への統合以降、ほとんど使われていない。
だが――。
アルトは、そこにこそ残っている可能性があると思っていた。
消された記録は、現行システムから消せても。
古い紙まで、すべて消すのは難しい。
*
地下へ続く階段を下りる。
一段。
また一段。
空気が変わった。
湿気を含んだ冷たい空気。
紙と木箱、それに古い金属の匂い。
「……ここ、本当に使われてるのか?」
フェルナンが周囲を見回した。
「使われてないように見せてるだけかもしれない」
アルトは足を止めた。
扉の前。
鍵が掛かっている。
しかし、鍵穴の周囲には新しい傷があった。
「最近、誰か開けてる」
「……分かるのか?」
「営業はな。店舗の裏口を見れば、最近搬入があったかくらい分かる」
「また営業か」
「営業課長だからな」
アルトは小さく笑い、鍵を確認した。
正式な閲覧許可は取ってある。
鍵を受け取り、扉を開ける。
ギィィ……。
古い蝶番が低い音を立てた。
中には、木箱と金属製の棚が並んでいた。
棚には古い受付記録が年代別に並べられている。
「十年前……」
フェルナンが棚を確認する。
「ここだ」
アルトは十年前の記録箱を引き出した。
埃が舞う。
その中には、受付番号順に書類が並んでいた。
S・03。
すぐには見つからない。
アルトは受付番号を追っていく。
S・01。
S・02。
そして――。
「……あった」
S・03。
だが。
アルトの手が止まった。
「二枚ある」
同じ受付番号。
同じ日付。
同じ案件名。
なのに、二枚の記録には違いがあった。
一枚目は、通常の受付票。
もう一枚は、複写された控えだった。
アルトは二枚を並べる。
「見てくれ」
フェルナンが覗き込む。
「何が違う?」
「受付担当者の欄だ」
一枚目。
担当者欄には、黒い線が引かれている。
二枚目。
そこには、名前が残っていた。
「……エドガー・ミルズ」
アルトは黙った。
エドガー。
十年前、S・03を最初に受け付けた側にいた人物。
そして七年前、文書管理課へ異動した人物。
ここまでは、第百八十八話で追えていた。
だが、問題はその下だった。
二枚目の控えには、手書きの記載が残っている。
『照合担当へ回付』
その横に、名前。
『ラウル・セディア』
アルトは息を吐いた。
「……これで繋がった」
十年前。
エドガーが受付。
ラウルが照合。
そして、S・03は通常処理では終わらなかった。
さらに下を見る。
小さな文字で、こう書かれていた。
『承認経路について確認要』
その下には、セドリック・ヴァーンの承認印。
アルトは二枚目の控えを慎重に裏返した。
裏には何もない。
――と思った。
「待て」
紙を光に透かす。
紙の端に、わずかな筆圧の跡が残っていた。
アルトは保管庫の机に置かれていた鉛筆を手に取った。
紙を傷つけないよう、横から軽くなぞる。
浮かび上がった文字。
『A―17へ移管』
フェルナンが息を呑む。
「A―17……」
「そうだ」
アルトは頷いた。
「十年前のS・03は、七年前に突然A―17になったんじゃない」
紙を指で押さえる。
「最初から、別の保管番号へ移す予定だった」
「でも、正式な記録には残ってない」
「だから、ここに二枚目の控えが残っていた」
アルトの目が細くなる。
現行記録から消されたもの。
しかし、古い控えには残っていた。
これだけなら、単なる管理ミスとも言える。
だが。
アルトはもう一枚の紙を取り出した。
三年前、ラウルが最後に見ていたRK・37の記録。
そこには、A―17の照合履歴がある。
そして。
S・03の控えに残された文字。
『A―17へ移管』
RK・37の記録。
『A―17照合』
一本の線で繋がった。
「ラウルは三年前、A―17を初めて見たんじゃない」
「……十年前の時点で、名前を見ていた?」
「いや」
アルトは首を横に振った。
「正確には、番号を知っていたんだ」
十年前。
ラウルはまだ若かった。
黒帳という巨大な仕組みを知っていたわけではない。
ただ一件の書類について、承認経路に不自然な点があると判断した。
そして、その案件が別の管理番号へ移されることを知った。
それだけだった。
だが三年後。
同じ番号を、別の案件で見つけた。
だから、ラウルは過去を掘り返した。
そして最後の日。
A―17を検索した。
その結果――。
『旧原本情報との不一致を検出』
が出た。
アルトはゆっくり息を吐く。
「これなら、ラウルの行動が自然に繋がる」
フェルナンが頷いた。
「十年前の時点では、ただの違和感だった」
「そう」
「三年前に同じ番号を見つけて、昔の案件を思い出した」
「そして調べ直した」
「それで、消された」
アルトはすぐには答えなかった。
代わりに、二枚目の控えをもう一度見る。
「……まだ違う」
「何が?」
「これだけじゃ、ラウルが消された理由にならない」
フェルナンが眉を寄せる。
「どういうことだ?」
「十年前のS・03に問題があったとしても、それだけなら三年前まで放置されていた理由が説明できない」
アルトは紙の端を指で押さえた。
「誰かが三年前に、A―17を消す必要があった」
「ラウルが見つけたから?」
「可能性は高い。でも、それだけで断定はできない」
アルトは慎重だった。
セドリックの印。
エドガーの受付記録。
セレナによるA―17の処理。
そしてラウル。
それぞれの点は繋がり始めている。
しかし、誰が全体を動かしたのかは、まだ分からない。
むしろ。
アルトが怖いと思ったのは、その逆だった。
「……一人じゃない」
「え?」
「これだけ長期間、同じ構造を維持するなら、一人だけで全部を動かすのは難しい」
受付。
照合。
承認。
原本保管。
記録整理。
それぞれの部署に人間がいる。
誰かが命令したとしても。
別の誰かが処理をする。
さらに別の誰かが承認する。
その結果だけを見れば、すべてが正式な手続きに見える。
「だから、黒帳は帳簿じゃない」
アルトは呟いた。
「仕組みそのものだ」
その瞬間だった。
背後で。
カタン。
小さな音がした。
フェルナンが振り返る。
「……誰だ?」
返事はない。
アルトも振り返った。
開けた扉。
その向こうには、暗い地下通路が続いている。
「フェルナン」
「分かってる」
二人はしばらく動かなかった。
やがてアルトは、机の上の二枚目の控えを見た。
そして、もう一つの違和感に気づく。
「……待て」
「どうした?」
「この控え、保管庫に入れられた日付がおかしい」
十年前の記録なのに。
保管登録日は七年前。
しかも登録者は――。
「セレナ・オルフェ」
アルトは名前を読み上げた。
エドガーと同じ時期に文書管理課へ異動した人物。
現在の原本保管担当。
そして三年前。
A―17を『旧資料整理』として現行台帳から消した人物。
アルトは紙を置いた。
「……ようやく、原本を守っていた人間と、原本を消した人間が同じ線上に乗った」
フェルナンが尋ねる。
「セレナが黒帳の人間だと思うか?」
「まだ分からない」
アルトは即答した。
「でも、聞かなきゃいけないことが増えた」
十年前。
なぜS・03はA―17へ移されたのか。
七年前。
なぜA―17の原本が文書管理課へ移されたのか。
三年前。
なぜラウルが調べ始めた日に、A―17が消されたのか。
そして。
なぜセレナは、その処理を担当したのか。
アルトは二枚目の控えを封筒へ戻した。
そのとき。
紙の下から、小さな紙片が滑り落ちた。
「……まだある?」
拾い上げる。
そこには、たった一行。
『第二原本 地下二層・旧受付B』
アルトは目を見開いた。
「……地下二層?」
フェルナンが周囲を見る。
「ここは?」
「地下一層だ」
二人の間に沈黙が落ちた。
つまり。
十年前の原本は、一つではなかった。
そして、まだ下にある。
アルトは紙片を握りしめた。
「行こう」
フェルナンが頷く。
階段の先。
さらに下へ続く扉を探す。
だがアルトは知らなかった。
地下二層へ続く扉の前に。
すでに新しい足跡が残っていることを。
そして、その足跡が――今日ついたものだったことを。
営業メモ ①⑧⑧
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次回予告
第百九十話 営業課長、地下二層で十年前の原本と対面する
地下二層、旧受付B。
そこに残されていたのは、S・03の第二原本だった。
しかし原本には、現在の記録には存在しない「最初の承認経路」が残されていた。
そして、その末尾に記されていた一人の名前。
アルトは、十年前の事件が始まった場所へ足を踏み入れる。




